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白山小梅
12
#借金
1,754
* * * *
瑠維を待たせないようにと、濡れた髪のままリビングに戻った春香だったが、そこに瑠維の姿はなかった。
『僕は書斎に布団を敷いて寝るので、安心して使ってください』
先ほどそう言っていたのを思い出し、書斎はどこかと部屋を見渡す。しかしリビングにはそれ以外の扉はなく、ここではないことはわかった。
浴室の隣は寝室、その向かい側にはトイレがあり、そしてトイレの隣の部屋の扉はいつも閉まっており、中を見たことはなかった。
きっとあそこに違いない。春香は静かに部屋の前まで歩いていくと、床とドアの隙間から灯りが漏れていることに気付く。
仕事中だろうか。邪魔をするのは良くないと思いながらも、意を決して深呼吸をすると、扉をノックをした。
すると部屋の中から椅子が倒れるような激しい音がしてから、ドアノブに何かがぶつかった衝撃音がする。驚いた春香は体をビクッと震わせた。
それから十秒ほど静まり返ったかと思うと、ゆっくりと扉が開く。中から顔を出した瑠維はいつも通り無表情ではあったが、何故か額に汗が光っていた。
「あっ、ごめんね。お仕事中だった?」
春香がそう問いかけた途端、瑠維はメガネの位置を直しながら下を向いた。
「いえ、大丈夫です。もう出られたんですね。ゆっくり出来ましたか?」
「うん、ありがとう。リラックス出来たよ」
「それは良かったです。では明日も忙しいと思うので、もう休んでください」
「そ、そのことなんだけど!」
「はい?」
春香はゴクリと唾を呑んでから、瑠維の顔を見る勇気はなく、目を閉じてから口を開く。
「やっぱり瑠維くんのベッドで寝るわけにはいかないから、私がリビングで寝る! だから瑠維くんは寝室で寝て。じゃないと泊めてもらう側なのになんか……私の気が済まないから……」
ちゃんと気持ちは伝わっただろうかーー春香が不安げな様子で瑠維を見上げると、彼がいつも通りの冷静な視線を投げかけていた。
あれ、想像していたものと違う反応ーー春香は思わず首を傾げた。
「春香さんならそう言うだろうと思っていました。軽く想定範囲内ですね」
「……ん? 想定範囲内?」
「また僕に迷惑がかかるからとか、思っていませんか?」
確かにそれも思っていたけど、今回は別のことが理由とは言えなかった。言い訳を考えながら黙り込んでしまうと、瑠維のため息が聞こえる。
「やっぱりそうなんですね」
「えっ、いや、あの、そうじゃないんだけど……」
その時だった。挙動不審になる春香を、瑠維は軽々と持ち上げてお姫様抱っこをしたのだ。春香は突然のことに驚き、慌てて瑠維の首に抱きついた。
「な、何してるの⁈」
しかし返事がないまま瑠維は寝室のドアを開けると、春香の体をベッドにそっと下ろす。
「春香さん、再会した日に『私に出来ることならなんでもする』って僕に言ったこと、ちゃんと覚えていますよね?」
混乱する頭をなんとか稼働させ、記憶を手繰り寄せていく。
「あぁ、思い出した! 車の中で言ったこと?」
「その通りです。その約束を今守ってもらいます」
あの約束をちゃんと覚えているなんてーー瑠維の記憶力に感心するとともに、彼の言おうとしていることがわからず戸惑った。
「春香さんはここで寝てください。それが僕からのお願いです」
「……なんでも聞くって約束したけど、でもこれはダメ。譲れない」
あまりにも頑なな様子の春香に対してため息をつくと、 瑠維は頭を掻きながら大きく息を吐く。それから春香のほうを見たが、春香も負けじと瑠維を見つめた。
「わかりました。僕はここで寝ます」
瑠維が諦めてくれたと思い、春香の表情がパッと明るくなる。
「本当? 良かった……」
「但し、春香さんもここで寝てください。それが約束です」
私もここで寝るーー? みるみるうちに顔が赤くなっていくのがわかる。
「えっ、そ、そんなことダメ!」
「じゃあ僕も寝ません」
「……そ、それなら出ていく。ホテルを探すから」
「どうぞ。それでも僕は寝室は使いませんから」
そんなことを言われては、春香に選択権はなかった。口を尖らせ、顔を背ける。
「……わかった。半分ずつね。私の寝相が悪くても文句言わないでよね」
「大丈夫です」
「なんかずるい。言いくるめられてる……」
「そんなことはないですよ。ほら、もうそろそろ寝ましょう」
瑠維は掛布団をめくると、春香を布団の中へと促した。言われるがまま春香はベッドに横になり、瑠維はそっと掛布団をかける。
「おやすみなさい。僕はお風呂に入ってきますので」
「……ちゃんとベッドで寝てね」
「わかりました」
「私が寝たからって、書斎で寝たりしないでよ……」
「もちろんです」
瑠維の手がそっと髪を撫でていく。
こんなはずじゃなかったのに、瑠維に流されて、一緒に寝ることになってしまった。
不本意ではあるが、瑠維の優しい手の感触と、彼の香りに包まれていると、穏やかな気持ちになってうとうとし始める。
「素直で可愛いところは昔から変わりませんね……」
眠りにつく直前に聞こえてきた声。まさかそれって私のこと……?
きっと疲れて聞き間違えたのよーー最後まで言い訳をこねながら、春香は眠りの世界に誘われた。
* * * *
それはいつもの帰り道だった。
マンションの前に到着し、オートロックを開けた途端にエレベーターのドアが開いて、まるで流れるようなリズムで乗り込む。
自分で動いている感覚はなく、映像を見ているようだ。
ボタンを押してもいないのにあっという間に四階に辿り着き、降りた瞬間に部屋のドアを開く。そして閉めようとした時、ドアの隙間に何者かの手が差し込まれて大きく開かれた。
見上げると町村が見下ろすように立っていて、
「今度こそ逃さないぞ」
と言い放つ。
その目はギラリと光り、恐怖心がこみあげ、春香は一心不乱に走り出す。
部屋の中にいたはずが真っ暗闇に変わり、逃げても逃げても終わりが見えない。
助けて! 心の中で叫んだ瞬間、春香は悪夢から覚めた。
呼吸が乱れ、心拍数が上がり、冷や汗が滴る。まるで現実に起きたことのようにすら感じられた。
「春香さん、大丈夫ですか?」
突然背後から声をかけられ、春香の体は大きく震えて小さな悲鳴が口から漏れる。しかしそれが瑠維の声だとわかると、安心感に包まれた。
布団の中で寝返りを打つと、上半身を起こした瑠維が、心配そうに春香を見ていた。
「怖い夢でも見ましたか?」
「うん……ちょっと……」
瑠維の手が春香の髪を撫でると、少しずつ気持ちが落ち着いていく。
「瑠維くん、ちゃんとここで寝てくれたんだ……」
「それが約束ですから……水でも持ってきましょうか」
「ううん、大丈夫。それよりもここにいて欲しい……」
彼がいてくれて良かったーーもし一人だったら恐怖に震えて、布団にくるまっていたかもしれない。
誰かがそばにいて、心配をしてくれている。寄り添ってくれる人がいるのはこんなに心強いと思わなかった。
春香は瑠維のパジャマにそっと触れる。恋人だったら抱きついてしまいそうだけど、そうではない二人の距離感を越えないように気をつける。
「今日の夢を見たの……逃げてる途中で目が覚めたから良かった。あのままじゃ逃げきれなかったかもしれないから……」
瑠維の手は今も春香の髪を優しくゆっくりと撫でている。
「瑠維くんがいてくれて良かった……本当にありがとう」
「いえ……」
再び眠気に襲われ始めたのは、瑠維の手の感触が心地良かったからだろう。少しずつ意識を失いかけていた時だった。
「助けられていたのは僕の方なんです……。だからあなたを失いたくないし、守りたいんだ」
瞼が落ち、自力で開くことは出来そうもない。
体が力強く包まれ、唇に温かいものが触れる。一瞬呼吸の仕方を忘れてしまったが、すぐに解放された。今のはなんだった? 何故だか胸がキュンとする。
よくわからないけど、それは起きてからもう一度考えることにしよう。睡魔に負けた春香は、そのまま眠りの世界に誘われていった。
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