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#契約結婚
草原草原

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72
#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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「……どちら様ですか」
「あら。私の顔、知らないの?」
女は、ハイヒールのつま先を軽く鳴らした。
「執行役員、経営企画本部長の一条麗華よ。社内報くらい読みなさいな、秘書さん」
一条麗華。
名前だけは、知っていた。役員会の資料の、経営企画本部の欄。それから給湯室の噂。メインバンクの、東都銀行の頭取の一人娘。
そして、社長の婚約者候補。
「怜さんを待っていたの。そうしたら、あなたが鍵を持って入っていこうとするんだもの」
麗華さんは、私の手の中のカードキーを見下ろした。
「秘書が同居だなんて。怜さんの格が下がるのよ」
言い返す言葉を探しているうちに、背後で自動扉が開いた。
「麗華」
社長だった。電話を終えたらしい。彼は私と麗華さんの間に、何でもないように立った。
「何の用だ」
「明日の役員懇親会よ。父が、怜さんにエスコートしてもらえって、うるさいの。電話じゃ出てくれないから、来たのよ」
「必要ない。一人で行く」
「秘書さんは連れていくのに?」
「彼女は、仕事で行く」
麗華さんは、赤い唇で小さく笑った。
「そう。じゃあ、明日、会場で。――秘書さんも」
ヒールの音が、エントランスの外へ遠ざかっていった。
社長は、何も言わずにエレベーターのボタンを押した。
私も、何も聞かなかった。聞いていいことなのかどうか、わからなかった。
五階までの短い時間、エレベーターの鏡に、二人分の顔が並んでいた。
社長の顔は、いつもどおり何も言っていなかった。私の顔のほうが、よほどうるさかった。
*
役員懇親会は、鷹宮タワーの四十二階、役員フロアの奥のラウンジで開かれた。
役員、執行役員、主要な子会社の社長たち。グラスの触れ合う音と、低い笑い声。窓の外に、東京駅の夜景が広がっている。
私は壁際で、社長の予定表と名刺の束を抱えていた。今夜の仕事は、社長に近づいてくる人の顔を、全部見ること。
堂島常務の大きな笑い声が、ラウンジの真ん中で響いている。副社長は、窓際のソファで、子会社の社長たちの話に穏やかにうなずいていた。
「君、社長室の子だろう。ちょっと、こっちにも水割りを頼むよ」
赤ら顔の男が、空のグラスを私の目の前に突き出した。どこかの子会社の社長だ。名刺の束の、たしか七枚目。
「私の秘書は、酌をしに来たんじゃない」
いつのまにか、社長が私の横に立っていた。男の手から、空のグラスを取り上げる。
「水割りなら、あそこにバーテンダーがいる」
赤ら顔が、みるみる白くなった。男は口の中で何か言いながら、人混みに消えていった。
社長は、取り上げたグラスを通りがかりの給仕の盆に置き、代わりに小皿を一枚、私の手に載せた。赤い唐辛子の浮いた、鶏肉の冷菜。
「立食の皿で、それだけ辛い」
「……ありがとうございます」
「仕事中に倒れられると困る」
社長は、それだけ言って輪の中へ戻っていった。ラウンジのあちこちから、視線が刺さる。私は、壁際で冷菜を一口食べた。舌がしびれるほど辛くて、少しだけ泣きそうになった。
「秘書さん」
ヒールの音が、すぐ横で止まった。
白いパンツスーツ。手には、シャンパンのグラス。麗華さんは、私の隣の壁にもたれた。
「昨日は、失礼したわね」
「いえ」
「でも、言ったことは本心よ。あなたみたいな人が隣にいると、怜さんの格が下がるの」
麗華さんは、ラウンジの向こうの社長を見ていた。社長は、子会社の社長二人に囲まれて、短く何かを答えている。
「私とあの人はね、子どもの頃から決まっていたようなものなの。鷹宮の会長と、うちの父と。二人が、昔、お酒の席で約束したのよ」
「……そうですか」
「だから、勘違いしないでほしいの」
麗華さんは、私のほうを向いた。完璧な角度で、微笑む。
「私は、怜さんを心から愛しているわ」
口角は、きれいに上がっていた。赤いリップの縁まで、少しの乱れもない。
けれど、目尻の皺が、ひとつも動かなかった。頬から上だけが、写真のように止まっている。
――ぶれた。
私は、何も言わなかった。
眼鏡も、外さなかった。
麗華さんは満足そうにグラスを傾け、ヒールを鳴らして、社長のいる輪の中へ入っていった。
社長の腕に、自然な手つきで指をかける。社長は振り払わなかった。ただ、子会社の社長との話を続けていた。
この人は、社長を愛していない。
わかってしまった。
わかってしまったのに、私は、それをどうすればいいのかわからなかった。
社長に言えば、合図一つで済む。ノック二回。それだけで、この人の言葉は嘘だと伝わる。
でも、そのノックは、何のためのノックなのだろう。
会社のためか。社長のためか。
それとも。
私は、ポケットの中のペンを握った。鳴らさなかった。
もし今ここで二回鳴らしたら、それは、婚約者候補の嘘を報告する秘書の音ではなく、ただの、嫉妬している女の音に聞こえる気がした。
嫉妬。
自分の頭の中に浮かんだその二文字に、私は、ペンを握ったまま固まった。
麗華さんの指が、社長の袖に触れている。
それを見ているのが、嫌だった。
誰かの嘘を見るより、ずっと。
*
懇親会が終わったのは、十時を過ぎたころだった。
帰りの車の後部座席で、私は膝の上の名刺の束を、意味もなく揃え直していた。
「今夜、嘘をついた人間は」
社長が、窓の外を見たまま言った。
「堂島常務が、ゴルフのスコアを三つ少なく言っていました。それから」
言葉が、詰まった。
「それから」
「……一条本部長が」
私は、名刺の角を指で押さえた。
「社長のことを、心から愛している、と」
車の中が、静かになった。
首都高の灯りが、一定の間隔で、社長の横顔を流れていく。
「ぶれたか」
「……はい」
「そうか」
社長は、それだけ言った。驚いた様子は、なかった。
「麗華との話は、父たちが勝手に決めたことだ」
社長は、初めて私のほうを向いた。
「私は、誰とも約束していない」
私は、彼の顔を見ていた。三秒、四秒、五秒。
輪郭は、一本の線のままだった。
ぶれない。
本当のことだ。
肩から、何かがすとんと落ちた気がした。
ほっとしたのだ。私は今、この人が誰とも約束していないことに、心の底から、ほっとしている。
それに気づいた瞬間、顔が熱くなった。
秘書が、社長の縁談に安堵して、どうするのだ。
私は慌てて窓のほうを向いた。ガラスに、眼鏡の女の赤い顔が映っていた。
「瀬名」
「は、はい」
「なぜ、懇親会の最中に鳴らさなかった」
社長は、私の膝の上の、ペンを見ていた。
「ノックは、聞こえなかった」
答えられなかった。
本当のことを言えば、今ここで、全部が終わる気がした。
「……会場が、うるさかったので」
「そうか」
社長は、また窓の外に目を戻した。
その右の口元が、ほんの少しだけ上がって見えたのは、首都高の灯りのせいかもしれない。
*
翌朝、七時四十分。
社長室のファクスが、一枚の紙を吐き出した。いまどき、ファクスで届く書類は、銀行からのものくらいだ。
柏木室長が紙を取り上げ、読み、そのまま動かなくなった。
「室長?」
室長は、無言で紙を社長の机に置いた。
私は、横から覗き込んだ。
東都銀行、法人営業本部。
鷹宮ホールディングス株式会社 代表取締役社長 鷹宮怜殿。
『貴社より申込のありました新規融資枠五百億円につきましては、諸般の事情により、審査を一時保留とさせていただきます』
コメント
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第15話、読み終えたわ!一条麗華、めっちゃ嫌な感じで登場してきたな…「私は怜さんを心から愛している」って言いながら、目尻の皺がひとつも動かない描写がゾッとした。主人公が嫉妬してるって自覚しちゃったところ、めっちゃ胸にきた。社長が「誰とも約束していない」って言ったときは思わず「よかった…」って声出たわ。最後のファクス、新規融資枠が保留ってやばくない?次が気になる🔥