あれは5月の鮮やかな緑、桜の枝が若葉に着替えた中庭で私が文庫本のページを捲っていると1人の男子生徒が声を掛けて来た。
「ねぇ、ねぇ」
本を読む事以外興味の無かった私は人違いだろうと思い視線を上げる事は無かった。すると石畳に腰を下ろした男子生徒が顔を覗き込んで来た。
「ーーーえっ、なんですか」
「やっぱり、3年生なんだ」
高等学校の制服は紺色のブレザーにタータンチェックのスカートで1年生は青系、2年生は緑系、3年生は灰色系と色分けされていた。私は異性間交友に縁遠く、クラスでも地味な層に生息していたので灰色のスカートが似合っていたと思う。
「3年生ですけど」
「僕、1年生なんです」
「はい」
「僕、サッカー部の補欠選手なんです」
「はい」
彼は目立つタイプでもなく背も然程高くは無かったが、一部の女子生徒には可愛いと人気でグラウンドを走る姿に「蔵之介くらのすけくーーん!」と甲高い声が上がっていた。
その光景を私は3階の教室の窓からよくまぁ飽きずにと眺めていた。
「先輩、いつも僕の事見ていますよね」
「まぁ確かに」
「僕の事、好きですか」
「そういう類で見ていた訳じゃないのよ、気にしないで」
「僕の名前は」
「雨月 蔵之介うげつくらのすけ」
「ほら、知ってるじゃないですか」
「それはほら、あんな感じで女子が呼んでいるから覚えただけよ」
中庭を見下ろす2階の窓から「雨月くーん」と手を振る女子生徒たちが熱い視線を送っていた。
「先輩の名前を教えて下さい」
「市原 莉子いちはらりこ、あなたに自己紹介いる?」
「LINE交換して下さい」
「なんでよ」
「僕とお付き合いして下さい」
「なんでよ」
「僕、先輩があの窓に居ないと寂しい事に気が付いたんです」
「化学の実験で教室移動するからね」
「月曜日の4限目は音楽室ですよね」
「え、うっわ、気持ち悪いよ」
私の灰色の高等学校生活が鮮やかに色付き始めた。生まれて初めての恋、彼の名前は雨月蔵之介。2歳年下のサッカー部の補欠選手だ。
「ねぇ、莉子お願い」
私は蔵之介に今度の夏の試合でメンバーに選ばれたらキスをして欲しいとせがまれた。
「いいよ、頑張ってね」
どうせ無理だろうと鷹を括っていたら夏の試合で先発メンバーに抜擢された。
「やれば出来るのね」
「ご褒美わんわん」
「調子に乗らないで」
私たちは河川敷の堤防に座り、大輪の枝垂柳しだれやなぎの花火を見上げながら軽くキスをした。
そしてあの事故は私と蔵之介を引き裂いた。
高等学校3年生の夏休みといえば図書館に夏期講習と将来に向けての頑張りどころだ。私は図書館と塾に通い自宅でも出来る限り勉強机に向かった。
「ねぇ、莉子遊びに行こうよ」
「図書館なら良いわよ」
「ちぇっ」
図書館までの道がいつものデートコースだった。私は参考書をトートバッグに詰めて肩に掛け、蔵之介は自転車をひいて歩いた。
図書館の机で私が参考書にマーカーを引いていると蔵之介はあみだくじを作っては合格、不合格と書いて私を怒らせた。
合格ならば東京の大学に進学する
不合格ならば地元の大学に進学する
蔵之介は私が不合格になりますようにと願掛けをしていた。
「私の幸せと不幸せどっちが大切なの!」
「僕は莉子と2人で幸せになりたい」
高等学校1年生といえば中学生の延長線のようなもので蔵之介は無邪気で一途だった。
「え、なに」
深夜0時、窓で音がした。恐る恐るカーテンを開けると路地に自転車に跨った蔵之介が満面の笑みで手を振っていた。そして下を見ろと指を差した。
「ーーー暇なのね」
ベランダには大量の紙飛行機が落ちていた。中を開けて見ろといった仕草をするので一機、また一機と紙飛行機を破かない様に広げて見た。
莉子 大好き
莉子 頑張れ
莉子 合格
涙が出た。
顔を挙げると蔵之介の背中は手を振りながら6km離れた自宅への暗い道のりを走って行った。
夏期講習で会えない日は深夜0時になると飛行機が窓を叩いた。
莉子 会いたい
私もそれに倣いノートを破って紙飛行機を作った。蔵之介みたいに上手く折れない私の紙飛行機は右に左によろめきながら路地に不時着した。
蔵之介 会いたい
すると蔵之介は手招きをした。私が腕でバツ印を作ると泣き真似をして見せた。時計を見ると午前0時30分、家族が寝静まる時間まで後少し時間が必要だった。私は不恰好な飛行機を飛ばした。
後で降りて行く 30分待てる?
蔵之介は飛び跳ねながら大きな丸を作った。
(ーーー可愛い)
私は部屋着から動きやすいジーンズと黒いフード付きのTシャツに着替えた。鏡を見て髪を整え薄紅色に色付くリップスティックを塗った。親に気付かれない様にベッドにクッションを並べてブランケットを掛けた。
「よし、これで私はここに寝ている!」
部屋の扉を音を立てない様に開けて静かに閉めた。親たちの部屋からはイビキが聞こえ、弟の部屋は真っ暗だった。手すりに掴まりながら階段を降りたが緊張で耳の中はぼんやりして口の中がカラカラに乾いた。
(もう少し!)
玄関の三和土たたきでスニーカーを持つと台所の勝手口のドアノブに手を掛けた。ゆっくりゆっくりと開けて静かに閉めた。
カチャン
私は素足のまま路地に出て慌ててスニーカーを履いた。家の垣根を曲がるとコンクリート壁に寄り掛かり携帯電話を指でスライドさせる蔵之介が居た。
(蔵之介!)
(莉子!)
小さな声で呼び合い一目散に大通りへと向かい走った。静かな街にチェーンリングが回る音が響いた。大通りの商店街に人の気配はなく車が一台通り過ぎただけだった。
「会いたかった」
「うん」
私と蔵之介は見つめ合い抱き合って口付けを交わした。
「それでね」
「ええ、それ最低!」
「でもね」
私は夕ごはんの麻婆豆腐が甘かったと不安を漏らし、蔵之介はサッカーの練習試合でゴールを決めたが転んで怪我をしたと膝の大きな絆創膏を指差した。
「痛そう」
「お風呂でしみて泣いたよ」
「よしよし、お姉さんがコーラを買ってあげよう」
ゲップ
私の盛大なゲップで僕はお腹を抱えて笑った。2人でいると話題は尽きなかった。黄色点滅の深夜の交差点を幾つも渡った。そこで蔵之介が声を上擦らせながらひとつの提案をした。
「そうだ、莉子!星を見に行こうよ!」
「こんな明るい場所じゃ無理だよ」
私は街灯を仰ぎ見た。
「獅子座の流星群、きっと見えるよ!」
「お願い事でもするの?」
「内緒、行こうよ!ほら、乗って!」
蔵之介は私に有無を言わさず自転車のキャリアに乗せ力一杯ペダルを踏んだ。然し乍ら急勾配になると私の身体は重く「下りて」と言われた。その度に私は「失礼ね!」と膨れっ面をして蔵之介の背中を叩いた。
「うわぁ、綺麗!」
「ホタルイカみたいだね」
一番高い坂道を登りきると家の灯が消えた真っ黒な街が眼下に広がった。それは富山湾の浜辺に集まる小さなイカを思わせた。ホタルイカは波間を網で掬すくうと青白く発光する。
「ホタルイカって気持ち悪くて食べられない」
「莉子はお子さまだね」
「お子さまに言われたくないわね!」
私は小指大のイカを丸ごと食べる事が出来ないと眉間に皺を寄せた。
「酢味噌和えにすると美味しいのに」
「無理無理、ぜーーーったい無理!」
私はコーラの空き缶をコンビニエンスストアのゴミ箱に捨てながら振り向いた。
「何処まで行くの」
「金石かないわのフェリーターミナル」
「ええ、遠いよ」
「自転車ならすぐだよ」
蔵之介は私を自転車のキャリアに座らせた。
「気持ち良いね」
「うん」
夏の青い草の匂い、肌に湿った風が纏わりつき時速18kmの景色が流れて消えた。やがて道路は市街地に入り歩行者信号機は青色と赤色を繰り返した。金沢駅西口を通り過ぎやがて国道8号線の高架橋を越えるとその道は金石街道かないわかいどうと呼ばれる直線道路へと変わった。
「この道はなんて言うの」
「金石街道」
「よく知ってるね」
「父さんと港に釣りに来るから」
「ふーーん」
郊外へと2人を誘う一本道、蔵之介の踏むペダルは颯の様に駆け抜けた。
「いーーっぽん、にーーーほん」
「なに、なに数えてるの」
「電柱、電柱の数を数えてるの」
蔵之介の背中に掴まって電柱の数を数えた。
「なんで?」
「電柱が一本増えると家から遠くなるでしょ」
「うん」
「その分2人だけの秘密が増えているみたいでドキドキする」
「2人だけの秘密」
「ドキドキしない?」
「うん、なんだかドキドキして来ちゃった」
互いの鼓動を感じた。
「あ、赤信号」
蔵之介の自転車の行手を阻んだ片側3車線は海側環状線、山側環状線と名付けられた金沢市を一周する幹線道路だ。そこを3台の大型ダンプカーが排気ガスを撒き散らして通り過ぎた。
「臭いね」
蔵之介が咽むせこみ、私が背中を撫でた。交差点の信号が青信号に変わり横断歩道を渡ると道幅は急に狭くなった。煌々こうこうと明かりを放つ24時間営業のガソリンスタンドでは宅配会社のトラックがガソリンを給油していた。
「あーー、眩しい」
「こんな時間でも働いている人がいるんだ」
「大変だね」
すると目前に白黒のパトカー、交番の赤色灯が見えた。
「あ、ほら交番がある!」
私は慌てて自転車から降り、蔵之介の隣を何事も無かったかの様な顔をして歩いた。
「お巡りさんが居るかと思った」
「居なかったね」
「居なかった、良かった」
コンビニエンスストアを通り過ぎた。
「もう着く?」
「もうそこまで、見えるよ」
黄色い信号が点滅していた。横断歩道は無かったと思う。
「あの交差点の向こうだよ」
「本当だ、あの辺りは街灯が少ないね」
「きっと星が沢山見えるよ」
ペダルが加速しチェーンリングの音が激しくなった。黄色点滅の交差点の向こうに赤い郵便ポストが見えた。あの場所を右に曲がれば金石の港に着く。交差点を通過しようとしたその時、蔵之介はグリップを力一杯握るとブレーキレバーを引いた。真横から飛び出してきた新聞配達のバイクのライト、私の身体はグラリと傾き背中に衝撃と激しい痛みを感じた。
うっすらと瞼を開けると不思議な姿勢でぴくりとも動かない蔵之介が居た。転がるスニーカー押し潰されて歪いびつになった自転車のホイール、回転する赤いライトが辺りを照らしていた。
バイクの一時停止無視による交通事故
私の額には大きな傷が残り、蔵之介は脊髄損傷で右脚に麻痺が残った。
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