かといって、孝太さんだって平然としていたわけじゃない。
「なに、なにをしてるんだ武。誰もいないし、なんにも聞こえないじゃないか」
まるで山から下りてきた猿を相手にするように、孝太さんは震えた声で近寄った。
「落ち着いてくれ、落ち着くんだ武。さっきまで辛く当たってしまっていたのはその、こちらも大人げなかったと思う。お前も精神的に追い詰められて……そうだ、追い詰められていたことに気づかなかった。だから少し落ち着いて……うん、水でも飲んで落ち着こう。いつもの俺たちに戻ろうじゃないか」
武さんの肩を抱き、落ち着かせようとさする。それでも血走った目で忙しなく周囲を見回す武さんを、今度は大輔さんがそっと目隠しした。
孝太さんが目で賢人さんを呼び、賢人さんが俺たちを連れて玄関ホールに移動すると、優斗が即座に襖を閉めて、寝室とは逆側の和室を茜さんたちの着替えスペースにできた。
大きな音を立てないように、武さんを興奮させないように、全員が慎重にならざるを得なかった。どう考えても、武さんがストレスに耐えられずおかしくなったと思ったからだ。
「嘘だろう? 本当に聞こえてないのか? だって、なぁ、まだ聞こえてるじゃないか、笑ってるだろ、ほらぁ!!」
大人なのに、駄々をこねる子どもみたいな仕草だった。
──正直言うと、とても気持ちが悪い光景だったと、ここにだけ書いておく。さすがに優斗には言えない。直前に孝太さんのことで悲しい顔をさせてしまったし、これはあれ以上に直接的に、武さんを侮辱する言葉だと自覚しているからだ。
この家の大人たちはみんな、甘やかされたまま大人になったんだろう。働かない、家族以外と協力関係を取ることもない、不安があっても家族が助けて慰めてくれる。それ以外にどんなものも必要としていないことが、なにより気持ち悪かった。
「なあ、優斗」
「ん?」
「……高校入ったら、一緒にバイトしよう。稼いだ金で、いろいろ遊びに行ったりさ」
優斗をそんな大人には、させたくなかった。それをうまく伝えられたか分からないけど、優斗がそうだなって笑ってくれたことに、少し安心していた。
やがて大輔さんが、口パクと目配せで外を指す。なにを意味しているのか俺には分からなかったが、優斗は察したらしい。自分と俺の服を交互に指さしたあと、さらに外を指さして、服を脱ぎ始めた。
今の内に体を洗ってこいということだ。あまり見ていたい光景じゃなかったし、俺もそそくさと服を脱ぎ捨てた。
とはいえ、裸で家の外に出る背徳感はなかなかのものだ。誰もいないとは分かってるけど、なんとなくハラハラしてしまう。
「絶対ないけど、いま通報されたら言い訳のしようがないよなぁ」
「馬鹿、やめろって」
玄関の内側で繰り広げられていた異常な光景を忘れたくて、頭に浮かんだことをそのまま呟く。すると優斗も同じことを考えていたらしく、震えるように笑っていた。
玄関ホールにいる武さんを刺激しないように、笑うのも気を遣う。
シャワールームはもちろんすごくサバイバルな出来映えだったけど、充分個室感がある上に、ボディソープやシャンプーも室外機や園芸棚に置かれていた。思っていた何十倍も快適で驚いたくらいだ。
母屋に戻った俺たちは、下着やパジャマも持ってきていないことに気付いて、優斗の自宅に取りに行くことになった。それすら俺にはありがたい。
ほんの少し、ほんの少しの休息だ。やっぱり優斗と二人のほうが、ゆっくりできる。
優斗の自宅に入った途端、つい大きく深呼吸した俺の内心に、優斗が気づいた。
「俺たちだけでもこっちで寝させてもらえないか、頼んでみようか?」
「いや、いいよいいよ、大丈夫。余計なこと言って、またなんか起こっても嫌だしさ」
「……武おじさんのことも、なんかごめんな」
「優斗のせいじゃないだろ」
笑って言ったが、これは本心だ。武さんが急におかしなことを言いだしたのは優斗のせいじゃないし、母屋に戻ると決めたのも、優斗のせいじゃない。
もし俺たちがここで寝ている間にまた誰かが死んだりしたら、優斗がなにか食べたと思われるかもしれないからだ。もしそうなったら、俺が食べたり勧めたせいだと思われるかもしれない。──結局は俺の保身だ。
俺は着替えた後、翌日の着替えと筆記用具、それにこの日記を持って外に出ようとした。
その時。
「なあ、陸は家に連絡しなくていいのか? 被災してから一回も連絡入れてないだろ? スマホは使えるんだし、無事なことを知らせたほうが……」
自分でも驚いたんだけど、俺は指摘されるまで一度も、家のことを気にしていなかった。
不安がなかったんだろうか。それとも、考える暇もなかったのか。いや、そんな単純な話じゃなくて完全に──自分の家があることを忘れてしまっていたんだと思う。
このことに、俺はとても動揺した。
「あ……そう、だな。ここで長居するのもあれだし、スマホも持っていって、あっちで電話させてもらうよ」
「うん、それがいいと思う」
優斗はそうとも知らず、ニコニコ笑って母屋への扉を開いた。
怖かった。
なんだかこの家が、俺を逃がさないために頭の中を操作してるんじゃないかと思えた。
コメント
2件
日記という設定ならではの独白、すごく斬新でした