そんなことあるわけないと振り払っても、いや分からないと、頭の中で別の俺が否定する。だってここは座敷わらしなんていう、そもそも現実的じゃないものがいる家だから。俺に理解できない、現実に有り得ないことが起こったって、きっと不思議じゃない。
なのに家に逃げて帰りたいと思えないことも、怖かった。
母屋に戻ると、女性陣はすっかり寝る支度を整えて、布団の上でなにやら話をしていた。
武さんの様子がおかしいことや、当主を任せるには不安があるかもしれないこと。だけど男系出身ではない孝太さんに当主を任せるのも不安なこと。残るは大輔さんだけど、気が弱くて任せにくいことなんかを話し合っているようだった。
俺たちが戻って来たのを見て、茜さんは取りつくろったように笑う。
「二人も、もう布団に入りましょう。起きてたってお腹が減るだけだもの」
「賢人さんは外? 父さんたちは?」
「……今、二人がかりで武さんを洗ってあげてる。まだなにか聞こえてるらしいの。ひどく怯えててね」
「最初は歌で、次が笑い声。さっきは……なにが聞こえるって言ってたかしらぁ?」
「なんか囁いてくるとかどうとか言ってたじゃない。耳元でヒソヒソ、あとちょっとあとちょっとって聞こえてるらしいわ」
うんざりした様子の葵さんに答えたのは楓さんだ。武さんの、実の弟のことなのに、まるで吐き捨てるように笑ったのが残酷で印象的だった。
「すみません、俺は少し、家族に電話を……」
「ええ、もちろん! 私たちに聞かれるのは恥ずかしいでしょうし、ゆっくり話してきても平気よ」
別に甘えたり泣き言を言ったりするつもりはなかったけど、茜さんの気遣いはありがたく受け取った。荷物を適当な布団の枕元に置いた後、俺はぺこりと頭を下げて、母屋用のトイレ付近に向かった。
母さんに電話するだけなのに、妙に緊張する。
一回目のコール。呼吸が浅い。
二回目のコール。息を呑む。
三回目のコール。目を閉じ、唇を舐めたら。
「陸? どうしたの?」
母さんの声が、した。
「あ……っ、母さんごめん、連絡遅くなって。俺、ちゃんと無事だから心配とか」
「心配? ──ああ、雨のこと?」
「……うん」
「やだ、心配なんてしてなかったわ、だって三科のお家は座敷わらしがいるんだもの」
笑い飛ばした母さんの声が耳に残っている。
心配、していなかったのか。
どう書けばいいのか、今もまだよく分かっていない。母さんに甘える気なんてなかった。なかったのに。──とても寂しかった。
食事を食べられていないと伝えたかったけど、言葉が出ない。
「それより、大輔くんにはたくさん遊んでもらっている?」
「へ? ……ああ、大輔、さん? なんで?」
「やぁね、なんでって聞くようなこと? 優斗くんのパパでしょ?」
「そうだけど……前から知り合いだったの? 俺今まで、母さんの口から大輔さんの名前なんて聞いたこと」
「んっふふ。アンタが産まれる前に、ちょっと仲良くしてただけよ」
仲良く?
仲良くしていたなら、母さんはなんであんな顔で三科の家のことを話したの。
大輔さんはなんで、俺の苗字が稲本だって聞いた途端、あんな顔をしたの。
「ねえ母さん、俺、この家」
「迷惑かけないようにするのよ。あと、ちゃんと宿題もするようにね。こっちのことは心配しなくていいから、いっぱいそちらで甘えさせてもらいなさい。お父さんにも陸が元気だったってちゃんと伝えておくから」
「ねえ、母さんってば……っ!」
俺の声なんて聞こえていないように、通話が切れた。
──放り出された気分だった。
布団が敷かれている部屋に戻ると誰かに声をかけられたけど、それが誰の声だったかも覚えていない。いつの間にか賢人さんや武さんたちがシャワーから戻っていて、俺は……現実逃避するように、日記を書き続けていた。
俺が家のことを忘れていたみたいに、母さんも俺のことを忘れてたんだろうか。だから心配なんてしなかったんだろうか。
いや、それはきっと違う。違うと、思いたい。
それに、大輔さんと母さんのことも気になる。母さんは仲良くしていたと言っていたけど、大輔さんは母さんが苦手だったように見えた。
ここで、ふと考える。
俺は大輔さんが母さんを知ったのは学生の頃じゃないかと思ってたけど、違うんじゃないだろうか。だって大輔さんは母さんの旧姓じゃなく、今の苗字で反応したんだから。
大輔さんは母さんじゃなくて、父さんの知り合いなのか?
これまで父さんが三科家について話したことはないけど、よく考えればそのほうが自然かもしれない。父さんと大輔さんが元々知り合いで、母さんとはそのあと知り合った。最初は仲良くしていたけど、途中でなにかいざこざでもあった、とか。
──親しそうに呼んでいたのもそのせい……なのかもしれない。
今は話さなくなったけど、昔仲良かった友だちに俺を紹介したい。せっかくだからたくさん遊んでもらってほしい。そんな感じなんだろうか。
だからと言って。
……だからと言って。
心配されていなかったことと、俺の話を聞いてくれなかったことは、やっぱり寂しい。
家に帰る頃、俺はちゃんと、母さんたちのことを覚えてるんだろうか。
母さんはちゃんと、俺のことを出迎えてくれるんだろうか。
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