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連続記録更新中の四日目の青椒肉絲を食べ終えてから自室へ戻り、残っている仕事に取り掛かった。
やらなければならないことは、なんだかんだ毎日ある。
ぼーっとしているうちに溜まっているのでそう休んでもいられないのだが、今日は過去の古傷を抉られたという部分がどうしても見過ごせず、ひとまず全てを放って目黒と出かけていた。
今日の遅れを取り戻すべく、パソコンと向き合った。
起動しようと機械が中で頑張っているのか、シュー、シュー、と控えめな音が端末の裏から聞こえてくる。
ローディング中の渦巻きをぼんやりと眺め、先程あった些細な出来事を思い返していると、不意に自分の口から失笑が漏れた。
「…っははっ、無理だっつの」
誰に言うでもない呟きは、とても寂しそうだった。
「気付いちゃったかぁ」
こんな日がいつか来るかもしれない。
そんな予感は常にしていた。
期待がそう思わせたのか、はたまた恐れが膨れ上がったのか。
別にどちらでも構わなかった。
この予感の中にある俺の気持ちなどには、何の意味も無いのだから。
全て曖昧なままでよかった。
悲しいけれど、これが現実で。
苦しいけれど、それが最善策で。
申し訳ないけれど、俺じゃ役不足だから。
「ごめんなぁ」
お前の気持ちには、応えられない。
「一生かけてこの家をお守りしろ」
物心ついた時から父親に言われていたことは、これだけだった。
子供の頃はそれがどういう訳かさっぱり分からなかったが、 俺のオヤジ曰く「恩があるから」ということらしかった。
俺が身を置いているこの宮舘組、つまりは宮舘家と俺の家は、俺が生まれるもっと前からの古い繋がりがあったそうだ。
その時に俺の爺さんだか曾祖父さんだかが、一生かかっても返しきれないほどの恩を、これまた坊の曾祖父さんだか、ひい曾祖父さんだかから受けたという。
そんな縁故があって俺のオヤジも俺も、宮舘組直属の部下として、その生涯を捧げる人生が生まれた時から決まっていた。
そうオヤジから聞かされたのは小学生の時で、確か低学年の頃だっただろうか。
「へー、そうなんだー」と相槌を打ちながら、顔も知らない恩人の顔に空想で鼻毛を描いていると、オヤジは続けて言った。
「今日からお前は宮舘組の屋敷に住む」
「なんだって?」と出かけた返答は、
「荷物をまとめろ」というきっぱりとした声に飲み込まれた。
その翌日から昼間は学校に通い、夕方は訳も分からないままオヤジと手合わせをする毎日を送った。
ヘトヘトで眠りについたと思えばまたすぐに朝が来ているので急いで登校し、授業中は居眠りばかりして過ごした。
特に国語の時間なんてものが一番退屈だったのだがそのせいだろうか、未だにほとんどの漢字が書けない。
遊びに行く暇もなく屋敷に戻っては、またオヤジとの取っ組み合いが始まる。
そんな日々が続いた。
オヤジからは日替わりでいろんな体術を習った。
空手、柔道、剣道、格闘技などなど。時にはボクシングやレスリングの真似事まで。
「今日はフェンシング的な特訓するか!」と声高に誘われたときは、「なんでだよ…やらねぇよ…」と流石に断った。
恐らくだが、その頃にはオヤジも特訓の内容にマンネリかネタ切れのようなものを感じていたのだろうと思う。
これは、いつ何時でも俺たちの“親父”をお守りできるように、という目的のもと行われていたものだった。
この生活が始まって間もない頃は、オヤジに負け続ける悔しさに身を任せて思い切り喚き散らかしていた。
「なんで特訓ばっかしなきゃいけねーんだっ!」
「遊びてぇーッ!!ゲームしてぇーッ!!」
そう叫ぶと、決まってオヤジのゲンコツと大声が返ってきたので、また負けじと見聞きした限りの拙い悪態をぶつけた。
「ばかもん!それが私たちの役目だ!」
「い“ってーな!!クソジジイ!!」
「なんだと!!父親だぞ!!」
「役目」と言われたって、先祖の恩返しに俺まで付き合ってやる義理はない。
毎日学校と武道場とを往復してばかりの生活など御免だと、当時は定められた運命に全力で抗い続けていた。
そんな反抗期真っ只中のある日、この人生に転機が訪れた。
あれは、中学一年生くらいの年だったかと思う。
地獄のような生活にも慣れ、オヤジにも勝てるようになってきた頃のことだった。
いつものように特訓を終えて屋敷の居間でまったりしていると、今の親父、当時は若と呼んでいた彼に唐突に声をかけられた。
「辰哉くん、改めてよろしくね」
「え…何がですか…?」
「僕ね、さっき父さんに言われたの。お前が跡を継げって」
「俺はずっとそのつもりでしたよ?」
「そうだったの?嬉しい。ありがとね」
「あ、いや…、別に…」
ありがとうも何も、そういうことで俺はここにいるんだし…と戸惑う俺をよそに、若は先を続けた。
「僕ね、まさか継ぐとは思ってなかったの」
「そうなんですか?」
「うん。こんな人間がヤクザなんて似合わないでしょ?」
「まぁ、どっちかって言うと、花屋さんとかにいそうだなって思います」
「ふふ、お花屋さんかぁ。やってみたいかも。…あ、それでね、「お前みたいなやつは一回人の上に立ってみろ。そうでもしなきゃ見えないまま終わる景色がある。全部見尽くしたあとで、この場所が違うと思うなら、そのときはお前の好きにしろ」って言われたの」
「はあ…、難しいっすね…」
「僕もどういうことなんだろうって思ったんだけど、確かにそうかも、とも思ったの」
「?」
「僕、誰かの上に立ったことなんて今まで一度も無かったんだ。いつもみんなが決めたことについて行ってばっかりだったから、父さんは僕を大人になってからも育てたいのかもって、そんな気がしたの」
「なるほど…、強くなれ、的な事ですかね?」
「うん、多分ね。だから覚悟決めて頑張らないと。これからきっと、辰哉くんにはたくさん助けてもらうことばっかりだと思うから、改めて、よろしくお願いしますって伝えたかったんだ」
「いや、全然。俺にできることあんまないと思いますけど…」
「そんな事ないよ!辰哉くんすっごく強いし、賢いからなんでもできるよ!」
「いや、勉強できないですよ…」
「ふふ。頼りない僕だけど、これからもよろしくね」
あの時の気持ちは不思議だった。
俺が今まで感じていた不平や不満など、この人の前ではとても小さいもののように思えた。
望まない未来がすぐそこまでやってきているのは、俺も若も同じだった。
同情心からだったのか、ただ単に若の人柄に惹かれたからだったのか、今でも明確な動機を言い表せはしないが、この時確かに心に決めた。
この人を支える。
この人の手足になる。
この人を守る。
この命が尽きるまで、と。
その日からは文句を言うことが減り、「なにか悪い物でも食べたのか?」とオヤジに驚かれた。
懐かしい記憶の断片を頭の中に浮かべていると、不意にスマホが鳴った。
メッセージが一通来ていたが、それはちょうど思い出の中に出てきていた自分のオヤジからのものだった。
端的な文面に目を通せば、反射的に重苦しいため息が出た。
「結婚はいつするんだ。孫の顔が見たいというのもあるが、早く跡継ぎを残せ。」
これまでの人生、なんでものらりくらりとかわしてきたが、こればかりは本当にアテが無さそうだった。
と言うよりも、一つの蟠りに足を引っ張られていて、簡単には次のフェーズに移行できそうになかったのだ。
「わーってるよ…っぷしゃぁ!」
スマホに向かって声を投げると、またくしゃみが出た。
すぐに脳裏に浮かぶのは、先ほど玄関先で真っ赤になっていた照の顔。
あの瞬間、痛いほどに心臓が脈を打った。
同時に、それは引っ込めなければいけないとすぐに己を律した。
伸ばし始めてくれている手に気が付いていても、こちらからは繋げない。
日々強くなる情と恋が沸きかけていても、これ以上は熱せない。
だって、それじゃあ、俺の役目は果たせないんだから。
そう強く、自分に言い聞かせた。
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:
:
「お前の命が尽きた後のことを考えておけ」
オヤジからそう言われたのは、若を一生お守りすると改めて宣言した時だった。
武道場の真ん中で、疲れ果てた体を横たわらせながら短く切れる吐息と共に、オヤジにそう伝えた。
端的なオヤジの言葉を解説するならば、俺が死んだ後も宮舘家を守れる人間、すなわち自分の子供を作れ、ということだった。
「俺まだ中一なんだけど…?」と伝えると、オヤジは「早いに越したことはないだろう」と踏ん反り返った。
若に一生を捧げる覚悟はしていたが、 この日新たに俺の人生の中ですべきことが一つ付け加えられた。
この名字は、これからも守り続けなければならない。
俺が生きている間も、死んだ後も、ずっとずっと絶やしてはいけない。
そうは言っても、こればかりは自分の意思だけではどうすることもできなさそうだった。
「後継者を作るためなんだ。俺と結婚してくれ。」なんて、失礼すぎてクラスメイトの女友達には口が裂けても言えなかった。
それに、高校卒業後は本格的に仕事が忙しくなり、同時に続々と“家族”も増えていたし、出会いなんてものは学生の頃に比べると半分以下に減っていた。
そんな日々を過ごし、そして今に至る。
容易には解決しない課題を後回しにしているうちに、気付けば逃げ場はどんどんと失われつつあった。
結婚の二文字。
跡継ぎの三文字。
そして、照のこと。
何をどうしたらいいのか、何を優先すべきか、最適解は何も浮かばなかった。
照の気持ちには、ずっと前から気付いていた。
あいつの態度は、「こいつ絶対俺のこと好きだよな」ということが丸わかりだった。
しかし、照は鈍感なのかなんなのか、てんで自分の気持ちに気付いていないようだった。
これは俺としては好都合だった。
どうこうなれないことは決まっていたから。
照とじゃ子供は残せない。
名字だって合わせられない。
だから気付かなくてよかったのに、どうしてか照は急に俺の期待を裏切ってきた。
いや、気付いてしまっても構わなかったが、これがきっかけとなって動き出していくものがあるような気がして、怖かった。
「はぁ…まだ誤魔化せっかな…」
照に対してそう思うのではない。
俺自身の気持ちに対してだ。
照という奴は、とても可愛い。
「家族」や「両親」というワードを見聞きした途端、あいつはいつも悲しそうな顔をした。
なんでもないある夜、初めて俺の部屋に来た照はひどく寂しそうだった。
何を言うでもなく心細そうに部屋の前に立っていたあいつに、気付けば手を伸ばしていた。
子供のように抱き着いてくる照と、何度も時間を重ねた。
情が移らない方がおかしい。
愛おしかった。
焦がれた。
もっと欲しくなった。
俺だけに許された「特別」に酔いしれた。
寄りかかってくれることが嬉しくて、いつしか、このひとときがいつまでも続けばいいのにと思うようになった。
でも、これ以上は繋がれないのだから、仮初めでよかった。
あいつが欲した慰めと温もりをあげながら、反対に俺も照からたくさんのものをもらっていた。
でも、それももう叶わない。
照が自分の気持ちに気付いてしまったことで、この均衡は崩れるだろう。
あとは照がこの先何も行動を起こさずにいてくれさえすれば、これからも何事も無かったように暮らしていける。
「考えてても仕方ねぇな。仕事しよ」
オヤジからのメッセージに「そのうちな」とだけ返し、視線をパソコンに戻した。
屋敷の中には、俺が奏でるキーボードの音だけが響いていた。
キリが良くなるまでやろうという言い訳は明け方まで続き、気付いたときにはあたりはすっかり明るくなっていた。
少し離れた所から「ご飯できたでー!」と張り上がる康二の声が聞こえてきた。
徹夜明けだったので食欲は無かったが、顔だけは出そうと居間へ向かった。
朝ごはんを食べているみんなを眺めながら、漬物をポリポリと齧った。
ブルーライトカット加工がされた伊達メガネを外して片手に持ち、タッパーに入ったたくあんをもう一枚取ると、なぜか康二が「ふっかさんアカン!!」と叫んだ。
寝不足の頭にはその甲高い声が大変響いて、キーン…と耳鳴りがした。
「なに…どしたよ…」
「あや…なんでもないで…すまん…」
「あそ?飯終わったら俺風呂入るわ」
「ほうか。また徹夜したんか?」
「うん、昨日はほとんど手付けられなかったかんねー」
「お風呂上がったらちょっと寝ときや?」
「そうするー、っぷしゃぁ!」
朝食の時間が終わると、みんなはそれぞれの場所へと向かった。
照は現場に。
阿部ちゃんとラウールは会計部屋に。
康二は台所、めめと佐久間は武道場へ行った。
冬の朝風呂は、なかなかに堪える。
室温なのか、古い家だから隙間風でも吹いているのか、いつまで経っても体が温まらない。
根気強く江戸っ子が好むくらいの熱いお湯を頭から被り続けたが、それでも寒さは収まらず、凍えながら部屋着に袖を通した。
「うう…さみぃ…ぅぃっくしぇ!!」
早く仮眠を取ろうと震える背中を丸めながら廊下を歩いていた時、ふと僅かな違和感を覚えた。
寒い…ってか、寒気しねぇか…?
なんか、フラフラする…。
徹夜したせいかな、ぼーっとする…し…。
あれ…廊下…ななめ、じゃない…?
フッと力が抜ける感覚があって、バランスを崩したような気がした。
立っているのか倒れているのか、今この体はどうなっているんだろうかと考える間も無く、俺の意識はどこかに上っていった。
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不意に目を覚ますと、少し先には見慣れた天井があった。
それは俺の部屋のものだった。
布団を敷いて寝た覚えはないが、体中がふかふかとした感触に包まれている。
誰かが親切に敷いてくれていたところに飛び込みでもしたのだろうか。
ひとまず十分に睡眠は取れたので、もう一度仕事に戻ろうと体を起こしかけたとき、康二と翔太が部屋に入ってきた。
「あーっ!なんしてん!寝てなアカンやろ!」
「…へぃ…?なんで…?」
「熱あるんやから!」
「ねつ?ないけど?」
「しょっぴー、これさっきみたいに脇挟んだって」
「うん」
右隣に来た翔太は、俺の腕を持ち上げると脇に体温計を挟み、その小さな手のひらでぐっと二の腕を押さえつけてきた。
ピピピッと小さく鳴った電子音を聞き取ると、翔太はそれを引っこ抜いて文字盤をじっと見つめた。
「康二、39.9って書いてある」
「まだ熱無い言うか?」
「…ごめんなさい…、、ぅ…だるい…」
熱が出たと意識した途端、急に体が重くなって力が抜けていった。
関節と筋肉が悲鳴を上げていて、じくじくと痛む。
「わかったんなら早よ寝てや。なんか食えそうか?」
「ううん…むり…」
「ほんなら寝とき。また来るから。なんか欲しいもんあるか?」
「…ひとはだ…」
「すまん切らしてるわ。ほな」
優しいんだか冷たいんだかわからない康二は、枕元に水差しとコップ、風邪薬を置いて部屋から出て行った。
起きたばかりだったのですぐには寝られそうになくて、大人しく天井を眺めていると、視界の中にゆっくりと翔太が入り込んできた。
「…どした…?」
「ねつって何?」
「え、、えーっとね、風邪引いたの」
「! かぜ知ってる。佐久間が言ってた」
「ほぇー、そうなの」
「待ってて」
「んぉ…?」
翔太は急に立ち上がると、どうしてか部屋を出て行った。
しばらくすると、そいつは手に何かを持って戻ってきた。
「佐久間からもらってきた」
「マスク…?」
「かぜひかない奴は強いんだよ」
「おー、そうだな」
布団の中でゾクゾクするような寒気に耐える俺と、それを眺める翔太とが両者ともにまんじりともせずにしている。
このよくわからない状況に困惑しつつも、次第に眠気がやってきて瞼は自然と閉じていった。
「しょうたー…おれ、ねるわ…」
「うん。おやすみ」
「おやす…みー………」
疲れていないと思っていたが、それはどうやら違うようだ。
体感としてどのくらいかはわからないが、先程までずっと寝ていたというのに、まだまだ全然眠れそうだった。
宮舘組の屋敷の一室には、異様な光景が広がっていた。
時折苦しそうな息を吐きながら眠る深澤と、それを興味津々といった様子でじっと見つめる翔太とが、互いに沈黙を守り続けている。
翔太の思考については不明なところである。
深澤のそばにいて、何を思うのか。
何をするつもりなのか。
彼自身の言葉数が少ないが故に、こちらで推し量れることは少ない。
それから数十分ほど経った頃、不意に着信音が鳴り響いた。
「?」
翔太は首を傾げながら音のする方へ体を運んだ。
軽快な音楽の拍子に合わせてバイブレーションを繰り返すスマートフォンを手に取ると、翔太はもう一度首を傾げて小さく呟いた。
「スマホだ。佐久間が持ってるやつ。ふっかの? ぶーってする。くすぐったい」
液晶に表示された赤と緑の円形をじっと見つめたあとで、翔太は佐久間が普段操作している手付きを真似て、その赤いボタンに触れた。
「あれ、消えちゃった。… わ、またぶーってした」
翔太が「拒否」を選択したことでその着信は切れてしまったが、間髪入れずにもう一度二つの選択肢が画面に現れた。
「こっち押したらいいのかな」
リベンジを試みるかのように、翔太は次に緑のボタンをタップした。
我々にとっては最早、命の次に大事なほどの生活必需品となっているスマートフォンであるが、少年にとってそれは全く馴染みのないものなのである。
ポンポンと変わっていく画面表示に戸惑いながらも、翔太は次に現れた通話時間のカウントをじっと見つめた。
数秒ほど液晶をじっと見つめていた翔太だったが、ふと端末上部にあるスピーカーから微かに「あれ?もしもーし?辰哉くん?」と声が聞こえてくる事に気が付いた。
もっとよく聞こえるようにと耳を近付け、翔太はスマートフォンに向かって問いかけた。
「だれ?」
「ん?その声は翔太くん?」
「うん。お前はだれ?」
「涼太のパパだよ、こんにちは」
「あ、組長だったんだ。何してるの?」
「あ、そうそう。さっきまでお仕事してたんだけど、少し余裕ができたからそっちに帰ろうかなって思ってたのを電話したかったの」
「涼太、組長に会える?」
「うん、涼太にも翔太くんにも、みんなにも会えるよ」
「わかった」
「あと五時間くらいで着くと思うから、僕が帰ること辰哉くんに伝えておいてくれるかな?」
「ふっか今寝てる」
「そうだったの。珍しいね。何かあったの?」
「39.9の数字で、かぜひいた」
「それは大変!すぐに帰るね!」
「うん」
「じゃあまたあとでね」
「うん」
そこまでの会話があってから通話が切れると、翔太はスマホを片手に持ったまま深澤の部屋を後にした。
靴下を履いた小さな足が、とてとて、と音を立てる。
翔太が向かった先には、二人の人物がいた。
「はぁん…かわいぃ…もちもち…」
「んきゃ!ぅー!あー!べゅ!」
「はぇっ!?坊、今名前呼んでくれた!?」
「ぶー!んきゃー!」
「ぅぅ“っ…ぅ“れ“じぃ“…ッ…」
小さな息吹と、目に涙を滲ませる阿部とが、居間の中央で向かい合い戯れていた。
翔太は彼らの元へと足を進め、おもむろに阿部へ声をかけた。
「阿部ちゃん、「ごじかん」ってあとどれぐらい?」
「五時間?時計の問題覚えてる?」
「うん」
「一時間は長い針がどこからどこまで動くっけ?」
「一番上から動いて、一番上まで帰ってくる」
「そうそう。てことは、それが五個だから?」
「五回針が戻ってくる。えっと…じゃあ…、六時だ」
翔太は自身の向かい側の壁に掛かっている時計の文字盤を空中でなぞり、指をゆっくりと五周分回してから、納得するように頷いた。
唐突に投げかけられた翔太からの質問の意図がわからず、阿部は首を傾げた。
「どうしたの急に。どっかわかんない問題あった?」
「ううん。帰ってくるんだって」
「?」
「ん!ちょた!らっこ!」
「うん、よいしょ。涼太」
「んぶ」
「組長帰ってくるって、よかったな。六時だよ」
「えッ!?!?」
「ぅきゃ!!おぅじ!」
「ろくじ」
「ぉぅじ!」
「えっ、ちょ、、ぁ、っみんなァァァーッ!!」
突拍子なく告げられた宮舘組の一大事に阿部は大きく体を跳ねさせると、慌てたように居間を飛び出していった。
彼は真っ先に台所に向かい、その暖簾をくぐると中にいる人物を大声で呼んだ。
「康二ッ!」
「ひゃァッ!?なんやの!?驚かさんとって!今、人生で初めての「おかゆ」っちゅーもんにチャレンジしてるとこやぞ!」
「そんなことより大変なんだって!」
「何が!?」
「組長お帰りになる!!!!」
「なんやて!?そら一大事や!!」
「ご飯お願いね!!?」
「おん!任しとき!って、ァァーッ!?」
「なに!?」
「米あと七合分しかない!!足りん!!今日唐揚げの予定やってん!!」
「十分じゃない?!」
「あかんの!!唐揚げの日だけは!!」
「なにが!!」
「唐揚げの日はラウがぎょうさん米食うんやって!!ギリいけるから明日買い行こう思うてたんよ!!」
「こんな時までイチャついてなくていいから!!照に連絡して帰りに買ってきてもらお!ね!?」
「すまん!!照兄に連絡頼むわ!!」
阿部は康二とのすり合わせ通りに照へ簡潔に詳細を連絡し、次に自身の仕事部屋にいたラウールへ声をかけた。
「らうっ!」
「あれ、坊は?それに、そんなに焦ってどうしたの?」
「組長帰ってくる!」
「うっそ!めっちゃ嬉しい!」
「俺、みんなに伝えてくる!」
「はーい!僕できそうなとこ掃除しとくね!」
「よろしく!ありがとね!」
「えへへ、いえいえ!」
ラウールからの申し出に心からの感謝の意を示してから、阿部は最後に武道場へと向かって行った。
「めめーっ!さくまーっ!!」
遠くから聞こえてくる声に目黒と佐久間は振り返り、途端にその顔を綻ばせた。
「佐久間くん」
「うん、わかるわかる」
「「ちょーかわいい」」
「あんな遠くでもめっちゃ可愛く見えんのなんでなんだろね」
「阿部ちゃんだからじゃない?」
「それだ。めめ、お前天才かよ」
側からは全く要領を得ていない会話であるように聞こえるが、彼らの中ではしっかりと言葉の意味やら真意やらが構築されているようだった。
手を振りながら本館と武道場とを繋いでいる渡り廊下を駆ける阿部を、彼らは満面の笑みで迎え入れた。
「阿部ちゃんどったの?かわいい」
「阿部ちゃんそんなに急いでどうしたの?かわいいね」
「大変なの!!」
「「え、スルー?かわいい」」
「もう!聞いてよ!!」
「「ごめんごめん」」
「組長が六時にお帰りになられるって…!」
「えっ!親父が!?やったー!!」
「組長が!久しぶりだね」
「掃除は今ラウがやってくれてる。ご飯も康二が作ってくれてるし、俺たちなにする!?」
「んね、どうしよっか。ラウと掃除する?」
「でも四人でやるのは多すぎない?」
「確かに…うーーん…困ったね…なにしたらいいんだろう…」
「こういう時は、いつもふっかさんがやること振ってくれてたもんね」
三人は何をすべきかわからないと言った様子で天を仰ぎ、頼りたくても今は助けを求められない深澤の顔を頭に思い浮かべた。
「熱下がったかな」
「まだじゃない?今日の朝からだったし、あんなに高熱じゃ、あと二日はダウンしてるだろうね」
「だよねー」
「とりあえず、ここにいてもしょうがないし、ラウール手伝ってくるよ」
「ありがとめめ、じゃあ俺は康二のとこ行くね」
「めめがラウんとこで、阿部ちゃんは康二とご飯ね。じゃあ俺はちびっ子たち見てるよ」
彼ら自身でできそうなことを整理し終えると、それぞれは目的の場所へと向かって行った。
宮舘組の総大将が帰還するまでに残された時間は、四時間と約四十八分。
それぞれが組長補佐の指示は無いながらもできることを探し、ドタバタと屋敷中を駆け回る。
ただ一人、深澤だけはこの大ニュースを何一つ知らないまま眠っていた。
続
コメント
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名前呼んでもらえて様子おかしいところからの💚ちゃん可愛過ぎました
いつもバタバタ宮舘組大好きです笑 楽しみだなー続きが🤭