テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ー数日後。
小児科外来。
診察室にはいつもの穏やかな空気が流れていた。
「はい、口あけてー」
永夢が優しく言うと、目の前の子どもが 口を開ける。
永夢はライトで喉を確認し、にこっと笑った。
「うん、大丈夫そうですね」
その時。
子どもがふと永夢の顔を見て言った。
「……せんせえ」
「ん?」
「血、出てるよ」
永夢はきょとんとする。
「え?」
指で鼻の下に触れる。
指先に赤い色がついた。
「あ、ほんとだ」
少し驚いたように笑う。
「教えてくれてありがとう」
ティッシュを取って軽く押さえる。
「大丈夫大丈夫、先生よくあるんだよねー。」
子どもは少し心配そうに見ている。
永夢は笑って言う。
「ほら、これくらいすぐ止まるから」
そう言って軽く鼻を押さえながら、カルテを書き終えた。
「はい、今日はこれでおしまい。お大事にね」
「ありがとうございましたー!」
子どもと母親が診察室を出ていく。
ドアが閉まり、診察室に静けさが戻った。
永夢はふっと息を吐く。
「ふぅ……」
ティッシュをゴミ箱に捨て、立ち上がる。
「次の診察まで時間あるし……」
そう呟きながら廊下へ出る。
病院の廊下。
白い蛍光灯の光。
永夢は歩き出す。
その時――
ふらっ。
視界が一瞬揺れた。
「……?」
永夢は足を止める。
頭の奥がぼんやりする。
「……あれ」
少しだけ呼吸が浅くなる。
歩こうとするが、足がふらつく。
「なんで……」
近くの手すりに手をつく。
ぎゅっと握る。
視界がぐらりと傾く。
「……っ……」
耳鳴りがする。
「……おかしい……」
力が入らない。
体が前に傾く。
「な…ん…」
その瞬間。
力が完全に抜けた。
――ドサッ。
永夢の体が廊下に倒れ込んだ。
廊下にいた看護師が振り向く。
「えっ……!?」
「宝生先生!?」
近くにいた別の医師も慌てて近づく。
「大丈夫ですか!?」
肩に手をかけ、体を軽く揺らす。
しかし――
反応がない。
永夢の瞳は閉じられたまま、力なくぐったりしている。
「……返事がない」
看護師の声が震える。
「意識ありません!」
「宝生先生!聞こえますか!?」
看護師が必死に呼びかける。
しかし、永夢は動かない。
ぐったりとしたまま、意識を失っている。
「ストレッチャー持ってきて!」
「誰か医局に連絡を――」
廊下が慌ただしくなる。
その時――
「何があった!」
鋭い声が響く。
飛彩だった。
人をかき分けるようにして永夢のそばに膝をつく。
「小児科医……?」
すぐに手首を取り、脈を確認する。
「脈は?」
看護師が答える。
「あります!」
飛彩は頷く。
「呼吸も安定している」
次にまぶたを軽く持ち上げ、瞳孔を確認する。
「……」
わずかな沈黙。
飛彩が低く言った。
「失神…」
「なぜ急に…」
その時だった。
永夢の指先が、わずかに動く。
「……ん……」
小さな声が漏れる。
永夢のまぶたがゆっくり震えた。
「……っ……」
少しずつ目が開く。
ぼやけた視界の中に、白い天井が映る。
「……あれ……」
声がかすれている。
飛彩が顔を覗き込む。
「気がついたか」
永夢は数秒ぼんやりしてから、小さく息を吐いた。
永夢は申し訳なさそうに笑った。
「大丈夫です……ちょっと、立ちくらみで……」
飛彩は無言で永夢を見つめる。
その目は鋭いままだ。
飛彩に肩と背中を支えられ、永夢の体がゆっくり起こされる。
看護師が水の入った紙コップを差し出す。
「水分、取れますか?」
永夢は弱々しく笑った。
「……ありがとうございます」
飛彩が背中に手を添え、そっと支える。
永夢はゆっくり深呼吸をした。
(……少し休めば……大丈夫なはず……)
まだめまいは残っている。
けれど、周りの支えのおかげで少し落ち着いてきた。
その時。
「おい!」
声が廊下から聞こえた。
貴利矢だった。
状況を見て、少し驚いた顔をする。
「…どうしたんだよ」
飛彩が短く答える。
「小児科医が失神した」
貴利矢の表情が少し真剣になる。
「エムが?! マジかよ……」
永夢は苦笑する。
「すみません、ちょっと寝不足で……」
貴利矢はため息をつく。
「それで倒れるほど無茶すんな」
少し考えてから言った。
「自分、午後フリーだからさ」
親指で自分を指す。
「エムを家まで送ってくるわ」
永夢は少し驚く。
「え、でも……」
飛彩が静かに言う。
「帰れ」
短く、しかし強い口調だった。
「今日は休め」
永夢は少し迷ったあと、頷く。
「……分かりました」
貴利矢が肩を貸す。
「ほら、ゆっくりな」
永夢は軽く支えられながら立ち上がった。
まだ少し足元が不安定だ。
三人の間に、わずかな沈黙が流れる。
飛彩はその背中を見つめていた。
永夢を見送り、その場に残った飛彩は、わずかに視線を落とした。
胸の奥に、小さな違和感が残っている。
廊下を歩く永夢の姿を思い出す。
歩き方。
表情。
呼吸の仕方。
そして、突然の失神。
どれも、どこか噛み合っていない。
普段の永夢なら、転んだり寝不足でふらついたりすることはあっても――
あそこまで体の重さを隠すような歩き方はしない。
無理に作ったような笑顔。
そして、目の奥にかすかに浮かんでいた影。
飛彩は小さく息を吐いた。
(……ただの寝不足か?)
しかし、すぐにその考えを否定する。
「いや……」
静かに呟き、飛彩は歩き出した。
廊下を進みながら、午前中一緒に働いていたスタッフの姿を探す。
やがて一人の看護師を見つけ、声をかけた。
「少しいいか」
看護師が振り向く。
「はい?」
飛彩は単刀直入に聞いた。
「小児科医…いや、宝生永夢の様子だ」
「午前中、何か変わったことはなかったか」
看護師は少し考え込む。
「そういえば……」
「診察中に鼻血が出ていました」
飛彩の視線が鋭くなる。
「鼻血?」
「はい。でも本人は全然気にしてなくて……」
「宝生先生のことだから、どこかでぶつけたんだと思いますよ」
飛彩は目を細める。
ゆっくりと息を吐いた。
鼻血。
そして先ほどのめまい。
歩き方。
呼吸。
視線。
ひとつひとつは小さな違和感だ。
だが、それが重なると――
胸の奥に、重い予感が生まれる。
(……ただの疲労ではない)
飛彩はわずかに俯いた。
「……そうか」
短く答える。
看護師たちは、飛彩の表情を見て言葉を失う。
普段の冷静な態度の奥に、
わずかな緊張が滲んでいるのが分かったからだ。
飛彩は廊下の先を見つめる。
先ほど永夢が歩いていった方向を。
(ただの寝不足で倒れるような奴じゃない)
胸の奥で、警鐘が鳴り始めていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
しらすのお部屋