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女性がひとりで、長い長い坂道をくだっている。
果ては見えず、辺りは仄暗い。
「ひと……………」
か細く弱々しい声で、彼女が呟いた。
その身には墨染の衣を装い、濡羽色の千早をふわりと肩に掛けている。
「ふた……………」
紅い唇がまた微かに動き、短い一語を揺り落とした。
それが辺りの暗闇に溶け込む前に、続けて「み……………」と紡がれる。
俄かに、周縁が騒がしくなった。
「これは美しい。 ほんに美しいねぇ………」
「今すぐ弄うてやりたいのぉ………」
「まずは鼻じゃの? 鼻がよいわぇ………」
闇の中から現れた数人の老婆が、女性の顔をぐいと見上げ、口々に囃し立てた。
いずれも、ひどく痩せこけた躯に、貧素な布切れを巻きつけている。
「その格好………」
ひとまず足を止めた女性は、瞳にありありと憐憫の色を湛えた。
決して、上辺だけの憐れみではない。
その眼差しは、他者の窮状を、まるで我が事のように捉えている様子だった。
こういった視線を向けられることに慣れていないのか、たちまち一団に動揺が走った。
しかし、それも束の間、つづく女性の言葉を受け、彼女らはあっさりと色を取り戻す運びとなった。
「その身形で、寒くはありませんか?」
矢庭に、ドッと歓声が上がった。
断じて黄色い声ではない。
相手を小馬鹿にするような、笑いの渦だ。
小首を傾げた女性は、特に気を悪くした様子もなく。
「よ、いつ、むゆ……………」と、この間隙に、そっと捩じ込むようにして唱えた。
ひと頻り腹を抱えた後、一人の老婆が、しつこく肩を震わせながら歩み出た。
「お前さま、何ぞ勘違いしとるんと違うかぇ?」
これに続き、徒党を組んだ彼女らは、次々と嘲謔の輪に加わった。
「暑いも寒いも、そんな上等なもん、この土地にゃあらへんわぇ」
「ここにはな? 焔と氷しかないぞぇ」
「かわえぇなぁ? かわえぇなぁ? 世間知らずもここまで来やったらかわえぇなぁ?」
わずかに目を見張った女性は、すぐに瞳を伏せがちにして、哀しげな声で応じた。
「それは、苦労をしましたね………?」
「は………?」
「なに、を……、言うとるん………?」
老婆の肩にやんわりと手を添えた彼女は、ふたたび目線を正し、楚々とした足取りで歩み始めた。
各々、しばらく呆気に取られていたが、やがて誰からともなく追従を開始した。
もはや嘲る者はなく、実のない冷やかしに、余計な時間を割く者もいない。
ただ黙々と、釣られるようにして、この不思議な女性のあとを追いかけた。
「巫女とは珍しい」
「これが巫女に見えるのか?」
「巫女でなければ何なのだ?」
「知らぬ知らぬ」
「神に逆ろうたか?」
「愉快愉快!」
すこし進むと、彼女の身辺がまた騒がしくなった。
恐ろしい形をした大男が何人も現れ、行く手を阻むようにして立ちふさがった。
いずれも筋骨隆々で、頭に角が生えている。
それぞれ、漲《みなぎ》る嗜虐心を隠そうともせず。 野蛮な興味を、絶えず彼女のもとへ注いでいた。
「なな……………」
しかし女性は動じず、例の一語を速やかに整え、目先の彼らに視線を据えた。
「これはいかん」
誰かが言った。
「我らでは歯が立たぬ」
「殺される殺される」
「殺される前に殺してしまおうか?」
「喰われる前に喰ろうてやろう」
口々に捲し立て、悍ましい手腕を彼女の元へ差し向けた。
「なりませぬぞ?」
これをそろりと往なした女性は、懇切な口振りで教え諭した。
「そのような言葉、妄りに用いてはなりませぬ」
表情は毅然としていたが、慈母のような柔らかさを感じさせる。
狼狽した一党は、しかし辛くも気勢を持ち直し、自分たちの有り様を声高に叫んだ。
「なぜだ?なぜだ?」
「なぜ言ってはいけない?」
「殺して喰らう」
「それが俺たちの本性だ」
「そこな奪衣の衆とは違う」
「俺たちは鬼なのだ」
耳に障る合唱を、女性は眉をピクリともさせず聞き届けた後、彼らの一言一句を噛みしめるように、かたく目を閉じた。
「それは、さぞ辛かったでしょうな………?」
一党の内々に、見る間に混乱が波及した。