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腕を掴まれ、黒須君とは違う指の感触にぞっとした。しかも強い力で振り解けない。
「っ、痛い」
「暴れるからだ。ワシに逆らうその態度。お転婆が少々過ぎるが、嫌いじゃない」
「い、いやっ。離してっ」
「そんなに暴れなくとも。ふふっ。そうか。ベッドまで待てないと言う訳か。分かった。ならば今此処で──」
九鬼氏は私を見つめ。半月状に瞳を歪ませたかと思うと、べろっと舌舐めずりをした。
「!」
その気持ちの悪さに悪寒が走り。
──黒須君、助けてっ! と、思った瞬間。
バンっと個室の扉が開いた。
その音に驚き。私も九鬼氏も動きを止め。思わず扉の方に視線をやるとそこにはネイビーブラックのスーツを着た、黒須君が険しい表情で堂々と入ってきて。
一目散に私の肩を抱き寄せて、あっさりと九鬼氏からの戒めを振り解いた。
鼻先にふわりとムスクの甘い香りを感じると、涙腺がじわりと緩んだ。
滲む視界の中。
黒須君は耳元でさっと「もう大丈夫だ。《《全部把握している》》。あとは任せてくれ」と、形の良い瞳を向けて小さく微笑した。
その笑顔に安堵して何度も頷くと。背後で、ぐうっと。獣が餌を食べ損ねたかのような、低い唸り声を聞いて。はっと九鬼氏に振り向いた。
「なっ、なんだお前っ。いきなり入って来て|弁《わきま》えろっ!」
口角から泡を飛ばして怒鳴る九鬼氏。
私は黒須君の腕の中でびくりとしてしまうが、黒須君は身じろぐこともなく。
私に向けていた優しい眼差しいから、刃物のような鋭い視線を九鬼氏に向け。私を庇うかのように一歩前に出た。
「私は松井法律弁護士事務所所属。黒須絢斗と申します。この度は櫻井翠さんから依頼を受け、櫻井さんを弁護することになりました」
「べ、弁護士だと?」
「その過程でご家族の櫻井真白さんからも相談を受け、この場に参りました。事情は全て把握済みです。お互いの言い分はここでは無く、公平な場所で審議をしましょう。近日中に少額訴訟による原告側からの金銭の支払要求。主に治療費や壊れた自転車の請求、慰謝料。それらを要求する訴状を送らせて頂きます」
「はっ。少額訴訟だと? そんな小銭稼ぎの弁護などたかが知れている。生意気な青二才が。何も弁護士はキサマだけじゃない。こちらにも弁護士の、」
「弁護士の|宇喜田《うきた》|俊道《としみち》。日本弁護士協会・登録番号は04071219番。登録住所はあなたが所有する青木ビルの五階。あなたのお抱え弁護士に違いないですね?」
それがどうしたと、九鬼氏は唸る。
黒須君は構わずに述べる。
「宇喜田法律事務所。webの紹介ホームページを見ると更新されたのは五年前。スマホ用のホームページは未対応。法人向け、個人向けのカテゴライズすらない。取扱い業種の案内も見づらく、不親切な作り。今までの実績案件は不明。所属弁護士の紹介は宇喜田氏のみ」
「だから、言いたい事はなんだ」
「そんなwebの管理すらまともに出来ない。弁護士をお抱えにしている人が居るのならば。その人物こそ、たかが知れていると言うことです」
ハッキリと言い放ち。
ふっと、黒須君は冷笑したのだった。
「っ!」
今度こそ九鬼氏の顔の顔色が変わる。
反論しようにも、こうまでキッパリと言われると流石の九鬼氏も言い返す事が出来ないようだった。
その間に黒須君は饒舌に語る。
「弁護士は場数。どれだけ様々な案件をこなして来たが実力になる。松井弁護士事務所の所長の松井は数々の有名企業の法務アドバイザーを経験。同時に有名企業の顧問弁護士も担当。副所長は個人向けの離婚問題から犯罪被害などの刑事事件などが得意。私はインターネット法務、犯罪被害者コンテツが得意だ。詳しくはホームページをご覧下さい。キッチリと所属弁護士の顔写真、学歴、解決事例、対応分野、全て記載しています。それで私の実力も分かるかと」
ぎりっと歯を軋ませる九鬼氏。
いつの間にか、整えられていた髪も乱れていた。
最初こそハラハラしたが、堂々とした物言いの黒須君に、場違いにも見惚れてしまいそうになっていた。
最後のトドメと言わんばかりに。黒須君は眼鏡のテンプルをそっと押し上げ。
「宇喜田弁護士はどうやら、名士と言われるあなたの傘下にいる事で、弁護士業に胡座をかいてるようにしか見えない。まるで虎の意を借りる狐だ。しかし、覚えていて欲しい。虎も狐も所詮──獣。知識を備えた人間には勝てないと言うことを」
冷静に言い放った。
九鬼氏は一瞬、ポカンとした後。わなわなと体を震わせる。
「ゴチャゴチャと煩いガキが! ワシに喧嘩を売るのかっ! ワシのバックにはあの沼知先生が居るんだぞ! お前の事務所ともども、目に物を見せてくれるわっ!」
その言葉に黒須君はふっと呆れた様子で失笑すると。九鬼氏は顔色を憤怒の色に染め上げ、ばっと大きく手を振りかざした。
そして鬼気迫る表情で、こちらに大きく一歩を踏み出す様子に、暴力沙汰になってしまうんじゃないかと。
心臓が痛いくらいに不穏に高鳴った。
手を挙げる九鬼氏にこれは、殴り合いの喧嘩に発展するのではと身をすくませると。
突然。部屋にカタコトの明るい声がこだました。
「|哎呀《アイヤ》! ドウカシマシタカ?」
ギョッとして声がした後方を見ると。
部屋の入り口近くに男性スタッフらしき人が居た。しかし、その顔には黒い丸眼鏡。鼻の下に八の字の髭。オマケに頭の上には黒いチャイナ帽。
「な、なんだお前は」
毒気を抜かれたかのように、その場に立ち止まり。手を振り上げたまま呟く九鬼氏。
コレばっかりは私も九鬼氏と同じ意見だった。
突然の闖入者に唖然としてしまうが、怪しいスタッフは、口元をニヤニヤさせてこちらに寄って来る。
黒須君は何とも思わないのかと、顔を見つめると。
視線が合った。すると黒須君は微かに苦笑し。
優雅に長い指先を一本、口元に添えた。
まるで『大丈夫。問題ない』と、言われたような気がした。
それを見て何となく。このまま静かに様子を伺う方が良いと思い。こくりと、頷くと。
黒須君はスタッフらしき人に「すみません。この男性に暴力を振るわれそうになって、困っているんです」と、全く困ってない様子で言った。
するとスタッフらしき人が、びっくり! と言った様子で大きく手を振りながら。
「それは大変。ケンカ、ダメね! 暴力反対!」
言葉と同時にポケットから小さな黒い楕円の物体をポンポンと。リズミカルに九鬼氏の足元に投げつると、それが一切にけたたましいアラーム音を鳴らし始めた!
瞬時にこの音は防犯ブザーだと分かった。
それでも九鬼氏も一体何が起こっているか分からない様子で、その場で足をばたつかせ。
何か大きく口を開けていたが、何を言ってるか分からなかった。
私もあまりのことでびっくりして、耳を押さえていると。
黒須君がぱっと私の腕を引っ張って、部屋の外にへと促された。
部屋の扉に向かう、その途中。
すれ違い様に。黒須君はあの怪しいスタッフの人の肩を素早く、さっと軽くと叩くと。
怪しいスタッフの人はニヤニヤした口元から、キュッとシニカルに口元を引き締めて笑った。それを見たのも束の間。
黒須君によって、あっと言う間に個室から脱出した。
部屋の外を出るとざわりと、こちらを見る人達が
多数居たけれども。黒須君は気にする事なく、颯爽と店外に出たのだった。
手を引かれたまま。ホテルのフロアを横切り。
黒須君は非常階段の重たいドアをギイッと開き。逃げ込むように非常階段の踊り場に辿り付いた。
白い壁に灰色の階段。私達以外に人の気配はない。
踊り場はフロアと違い、少しひんやりとした空気が漂っている。驚きの連続で、上気した頬には心地よい温度でホッとした。
小さく安堵の溜息を吐くと。
黒須君が私の頭を撫でながら、ぎゅっと抱き締めて来た。
「真白。一人で良くあの下品な男に立ち向かった。偉いね。怖くはなかった? 大丈夫だったか」
さらに労わるように、私の額にキスを落とす。
それだけでも胸がドギマギする。
「だ、大丈夫です。黒須さん、来てくれて、ありがとうございます。でも、あの。今のって一体……?」
「あぁ。今からちゃんと説明する」
黒須君は額から唇をゆっくりと離し。
私に向けた眼差しは、眼鏡越しでもとても優しい。
先程の九鬼氏に向けていたものとは大違い。
その視線だけでも、私の事を想っていてくれると分かり頬が熱くなる。
沢山の疑問があるけど、安堵感からこのままちょっとだけでも。黒須君の胸に顔を埋めたいと思ってしまった瞬間に。
重い扉が開く音がしてはっと我に返り、扉の方を見る。
するとさっきの怪しいスタッフの人が、足音をカツンカツンと軽快に鳴らしながら。
こちらに近寄って来たのだった。
カツンと、また一歩近づき。
私達を見ると、ふっと笑った。
「わぁ。お取り込み中?」
その言葉にばっと黒須君から慌てて体を離す。
すると黒須君が名残り惜しげな小さな溜息と共に、怪しい人物に声を掛けた。
「俺の妻を愛でて何が悪い。それよりも真白、彼は|松井《まつい》悠馬《ゆうま》。俺の友人だ」
黒須君に紹介された松井悠馬なる人物。
黒須君のお友達と紹介されて、しげしげと見てしまう。
「今回の九鬼氏の事に対して協力関係にある。信用しても大丈夫だ。悠馬。あの後、九鬼氏の対応は問題無かったか?」
悠馬と呼ばれた人物が、飄々と答える。
「僕を誰だと思ってんのさ。大丈夫。あのオッサンは怒り心頭で、責任者呼んで来い。出て行け! って喚いていたから二つ返事で、ドサクサに紛れて逃げて来た。僕の身柄を確保もしないで、現場から僕を逃してくれるんだから有難い話しだ」
そこで例のシニカルな笑みを口元に称えながら。
「あの単純さなら、堂々とケンカを売った絢斗に怒りが向くね。絢斗を倒そうと躍起になるだろう。まぁ、現場の人には少々迷惑掛けたが。僕が事前に手を回したスタッフが宥めているし。今後の事を思えばきっと許してくれるさ。大丈夫」
その言葉を聞いた上で黒須君は頷いて「お疲れだったな。では、真白に事情説明を頼む」と、私に会話の流れを向けた。
悠馬と呼ばれた人物は、はいはいと手をあげてから。ささっとサングラスや帽子。
それに髭をべりっと取った。その様子から変装だったと分かり、目を丸くしてしていると視線があった。
「こんばんは。僕は今、絢斗に紹介された|松井悠馬《まついゆうま》です。絢斗とは大学で知り合ったのが馴れ初め。職業は記者。よろしく」
にこにこと爽やかに笑う目の前の人物。
やや明るい茶色の髪色。変装の下の素顔は人懐っこい好青年そのもの。しかし、切れ長の瞳が知的で印象な人だった。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。櫻井真白です。髭とか眼鏡、変装だったんですね」
「うんうん。よろしく。変装は記者の嗜みさ。分かりやすい特徴があればある程、周囲を欺ける。いやぁ。それにしても。君が真白ちゃんかー。絢斗から聞いていたけど。可愛いねぇ。実に可憐だ」
社交辞令だと分かっているけども、面と向かって言われると恥ずかしい。
小さく「そんなことありません」と、否定する。
「絢斗が惚れ込むのも道理──って、絢斗がすっごい睨んで来るから、ささっと話をするね」
「は、はい」
あははと軽やかに笑う松井さん。
なんともマイペースで明るい人物の登場に、肩の力が抜けて小さく笑ってしまうのだった。
松井さんはコホンと咳払いしてから。
「状況は正確に。改めて確認をさせて貰うよ。君は櫻井真白ちゃん。絢斗の妻になる人。そして現在。お母上が九鬼のバカ野郎と事故を起こしてトラブルに。その問題解決に乗り出したのが絢斗。現在、絢斗が弁護を請け負っている。今日は宣戦布告に来た。間違いない?」
初めて黒須君以外の人に『妻』と言う言葉を聞いてドキッとしながら、事情は概ね把握しているんだと思い。
契約妻と言うことは黙って、素直に返事をする。
「はい。そうです。間違いないです」
黒須君を盗み見ると壁に背を預けてじっと、扉と階段を見つめ。私達以外の他者への注意を払っているようだった。
松井さんの確認にも異を唱えることは無かったので、私から疑問に思ったことを口にして、会話を続けてみた。
「黒須さんのお友達だと言うことは分かりました。松井さんは先程仰っていましたが、黒須さんのお友達で、記者なんですよね」
「そうだよ」
「なんで、記者の方がここに? 協力関係と言うのは……教えて頂いてよろしいですか?」
すると、松井さんはパキンと指を鳴らして大きく手を開いた。それはミュージカル俳優みたいな動きだった。