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私が彼を避けるようになってから、屋敷の中には
以前よりももっと重苦しく、心を引き裂くような沈黙が流れるようになった。
広い廊下ですれ違う時、不意に視線が交差する時。
私がビクッと肩を震わせるたびに、レオナルド様はガラス細工が割れるのを見たような
悲しげな色を瞳に浮かべて目を伏せる。
そして、それ以上私を追い詰めないように、静かに、慎重に身を引くのだ。
「……すまない。君の視界に入らないようにする」
絞り出すようなその声。
翌日から、彼は食事の時間すら私とずらすようになった。
朝の清々しい光の中でも、夕暮れの寂しい刻の中でも、私の隣に彼の姿はない。
ただ、彼が座っていたはずの椅子だけが、虚しくそこにある。
(ああ、やっぱり……愛想を尽かされてしまったんだ)
彼が距離を置くのは、私の「拒絶」に傷ついたからに他ならない。
やり直させて欲しいと言ってくれたあの日から、彼は不器用なりに精一杯の歩み寄りを見せてくれた。
私のために花を飾り、私のために言葉を紡いでくれた。
それなのに、私は感謝を伝えるどころか、彼を傷つけることしかできなかった。
絶望と罪悪感で、私の心は底の見えない暗い泥沼に沈んでいくようだった。
その夜、私は今までで一番酷く、おぞましい悪夢を見ていた。
暗闇の中、逃げ場のない回廊。かつて私をいたぶった男たちの嘲笑が、何重にも重なって耳元で響く。
「没落貴族の分際で」「女の価値しかない癖に」
蛇のように冷たい手が私の細い腕を掴み、力任せに引きずる。
逃げようとしても足が泥に嵌まったように動かない。肺の空気がなくなり、視界が歪み、喉が焼けるように熱い。
「……やめて……こわ、い……ごめんな、さい……いや……たすけて……っ!」
「アネット! アネット、しっかりしろ!」
意識の淵で、聞き覚えのある鋭く、けれど切実な声がした。
弾かれたように目を開けると、そこには月光を背負い、蒼白な顔をしたレオナルド様がいた。
隣の寝室で、私の狂わんばかりの悲鳴を聞いて駆けつけてくれたのだろう。
乱れた髪のまま、私を覗き込む彼の顔は、恐怖に染まっていた。
「はぁ、はぁっ……っ、ひ、ひうっ……!」
私は過呼吸でまともに声も出せず、ガタガタと震えることしかできない。
涙と汗で寝具を濡らし、浅い呼吸を繰り返す醜い姿。
そんな私を見て、レオナルド様はさらに苦しそうに顔を歪めた。
彼は自分の存在が私を追い詰めているのだと誤解したのか、震える拳をぎゅっと握りしめて今にも立ち上がろうとした。
「……すまない……君がまた魘されていたから心配で…俺の顔を見るのが怖いなら、すぐに出ていく。だから、頼むから落ち着いてくれ……っ」
彼は、自分が「恐怖の対象」そのものだと思い込み、私を一人残して去ろうとした。
その足取りは、愛する者に見放された男の悲壮感に満ちていた。
けれど、その遠ざかろうとする背中を見た瞬間
私の心の中にある本当の叫びが、理屈を超えて身体を突き動かした。
「……待っ、て……!」
私は必死に腕を伸ばした。
逃げるためではなく、彼を繋ぎ止めるために。
そして、彼の大きな、温かい手を、私の小さな両手でぎゅっと掴んだ。
「れお、なるどさま……じゃ、ない……れおなるどさまは……怖く……ない、んです……っ」
涙が次から次へと溢れて、視界がぐちゃぐちゃになる。
過去に私を苦しめた男たちの手は、あんなに冷たく、心まで凍えさせるものだった。
けれど、今こうして必死に掴んでいるこの手は、火傷しそうなほど熱くて、そしてどこまでも力強い。
「お願いします……っ、ひとりに、しないで……っ、ううぅ……!」
私は縋るように、彼の大きな手のひらに自分の顔を埋めて泣きじゃくった。
もう、避けることなんてできない。
隠すこともできない。
私は、この人の体温を求めている。
この人の隣で生きていきたいのだと、私の魂が叫んでいた。
「……アネット…っ
」
レオナルド様は一瞬、雷に打たれたように硬直した。
しかし、やがて彼は、世界で一番大切な壊れ物を扱うような祈るような手つきで、私をその逞しい胸の中に抱き寄せた。
「ああ……ここにいる。どこへも行かない。……ここにいるぞ」
彼の大きな腕が私の震える背中を包み込み、耳元で響く力強い心臓の音が、過去の忌まわしい記憶を一つずつ上書きしていくようだった。
私は彼のシャツを強く握りしめたまま
その熱い温もりに溶けるように、二年間一度も得られなかった深い安らぎの中へと落ちていった。