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柔らかな朝の光が、重厚なカーテンの隙間から細い筋となって差し込んでいた。
まどろみの中で真っ先に感じたのは、これまでの人生で一度も味わったことのないような
圧倒的な安心感と重み。
いつもなら冷たいシーツの感触に孤独を噛み締めて目覚めるはずなのに、今は身体の芯までとろけるような熱に包まれている。
(……あれ?)
ゆっくりと、重い瞼を持ち上げる。
視界いっぱいに広がっていたのは、見慣れた天井ではなく、丁寧にアイロンがけされた質の良いシャツの白い生地だった。
そして、私の背中と腰を、逃がさないようにしっかりと支える逞しくて熱い腕。
私は、レオナルド様の腕の中にすっぽりと収まった状態で、彼と同じ体温を共有しながら朝を迎えていたのだ。
「……あ」
控えめな声を漏らしながら見上げると、すぐ間近にレオナルド様の寝顔があった。
いつもは「氷の狂犬」と恐れられ、険しく結ばれている眉間の皺が、今は嘘のように緩んでいる。
無防備で、少しだけ幼く見えるその寝顔を見つめていると、心臓がトクンと大きく跳ねた。
昨夜、過去の亡霊に怯えて取り乱した私を、彼がずっと、こうして抱きしめていてくれたのだ。
その事実に気づいた瞬間、顔がみるみるうちに火照っていくのが自分でも分かった。
「……ん。……起きたのか」
不意に、上から降ってきたのは、寝起きの低くて甘い声。
レオナルド様が微かに身じろぎをしてゆっくりと目を開ける。
私を視界に入れるなり、その鋭い銀灰色の瞳が、溶け出した氷のように慈愛に満ちた色に染まった。
「気分はどうだ? まだ、苦しくはないか」
「あ、はい……。あの、レオナルド様。ずっと、こうしていてくださったのですか?」
「ああ。君が俺の手を離してくれなかったからな」
そう言って、彼がわずかに力を緩めた手元を見て、私は息を呑んだ。
私の指が、彼のシャツの裾を……まるで命綱でも掴むかのように、ぎゅっと握りしめたままだったから。
自分の子供じみた執着が恥ずかしくて、私は真っ赤になって俯いた。
そんな私に、彼は優しく、けれどこれまでにないほど真剣な声音で問いかけてきた。
「……アネット。昨夜、君が戦っていた『恐怖』について……話してくれる気にはなれないか」
「無理にとは言わない。だが、君を苦しめるものの正体を、俺も知っておきたいんだ。……二度と君に、あんな悲鳴を上げさせないために。君を支えるために」
彼の手が、私の頬に触れるか触れないかの距離で止まる。私は一瞬、迷いから唇を噛んだ。
思い出すだけでも震えが止まらなくなる記憶。
けれど、今の彼の瞳には、以前感じていたような威圧感は微塵もなかった。
そこにあるのは、ただひたすらに私を案じる、濁りのない誠実さだけだ。
私は深呼吸をひとつして、絡まった糸を解きほぐすように
ポツリ、ポツリと、今まで誰にも話せなかった暗い過去を話し始めた。
「……実家が没落しかけていた頃、私を『売り物』としてしか見ていなかった父の周りには、卑劣な男たちがたくさんいました。彼らは私が怯えるのを楽しんで、わざと逃げ場を塞ぎ、無理やり腕を掴んだり、耳元で酷い言葉を囁いたりして……。だから、男性の手が近づくと、どうしてもあの時の感覚が蘇って、身体が勝手に強張ってしまうんです」
話し終えると、部屋に深い沈黙が流れた。
窓の外で雪が落ちる音さえ聞こえそうな静寂の中
レオナルド様の腕に、ミシリとグッと力がこもるのを感じるのを感じた。
「……そうだったのか。そんな連中に、君は……」
彼の声は、地を這うような怒りと、そしてそれ以上に、自分を責めるような深い表情で震えていた。
「すまなかった、アネット。俺のこの図体も、強面も、君にとっては恐怖の記憶を呼び起こす装置でしかなかったはずだ」
「それなのに君は、自分を責めてばかりで……俺が、君と再構築したいがために感情を押し付けてしまった面が大きいと思う。本当に申し訳ない」
「いいえ…っ、今は分かります。レオナルド様の手は、あの人たちとは違う。昨夜、地獄から私を救ってくれたのは、この…このレオナルド様の温かい手でした」
私は勇気を出して、彼の大きな掌に自分の手をそっと重ねた。
レオナルド様は一瞬、弾かれたように目を見開いたあと、感極まったように私を再び強く抱き寄せた。
折れてしまいそうなほど強く、けれど愛おしさが爆発したような、そんな抱擁だった。
この日を境に、レオナルド様の「溺愛」は、もはや周囲が心配し、執事たちが遠巻きに見守るほどのレベルへと進化を遂げた。
「アネット。少し顔色が白い気がする。今日は一日、寝室で休んでいろ。仕事はすべてここに持ち込むことにした」
「レオナルド様、流石にそれはお仕事の邪魔に……。公爵家としての公務もあるでしょう?」
「邪魔なものか。お前の寝顔を見ながらの方が、効率が上がる。書類が三倍の速さで片付く」
そう言って、彼は本当に私のベッドのすぐ横に
職人仕立ての豪華なデスクを運び込ませ、そこで執務を始めた。
ペンを走らせる音が室内に響く中、私が少しでも「あの」と声を上げれば
彼はすぐさま鋭い眼光を向けてくる。
「どうした?」「欲しいものがあったら言ってくれ」と、まるで見えない尻尾を振っているかのような勢いで飛んでくるのだ。
「レオナルド様、少し喉が渇いただけですから、自分で……」
「座っていろ。俺が淹れる。君は一歩も動かなくていい…疲れているだろ?」
「そ、それはレオナルド様の方じゃ…?」
「君を癒すことが俺の癒しにもなる、だから待っていてくれ」
本来なら、王宮でも通用するような一流の給仕人が淹れるべき最高級の茶葉。
それを、帝国の経済を動かす「氷の狂犬」が、眉間に皺を寄せながら必死に黄金比を測って淹れている。
そのあまりに真剣で、どこかシュールな光景を見ていると、胸の奥から温かいものが込み上げてきた。
「……ふふっ。レオナルド様、やりすぎですよ」
思わずこぼれた私の笑い声。
それまで完璧な動作で紅茶を注いでいたレオナルド様は、一瞬呆けたように動きを止め
それから耳の先まで真っ赤にしてぷいっとそっぽを向いた。
「……笑いすぎだ」
「!す、すみません…」
「いや、怒ってはないぞ。君に頼られたのが、その……初めてだったから、嬉しくて仕方がないだけだ」
コワモテのまま、少年のような純情さを隠しきれずに口を尖らせる私の夫。
実家との決別や、本当の意味での「夫婦」になるための試練は、これからも続くのかもしれない。
けれど、この人の隣なら。
この大きな手に守られているなら、きっとどんなトラウマも乗り越えていける。
そう確信しながら、私は彼が差し出してくれた
熱くて甘い紅茶を、心からの幸せな気持ちで受け取ったのだった。