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この主人公はあなたです。
なのであなたを『君』で現します
ー始まりの喫茶店ー
突然の雨に降られ、君が逃げ込んだのは古びた喫茶店だった。
カラン、と乾いた鐘の音が響く。
店内は妙に冷え切っていて、コーヒーの匂いよりも、埃と「古い紙」の匂いが鼻を突く。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から声をかけてきたのは、白いシャツを端正に着こなした青年。
整った顔立ちだが、その瞳には光がなく、まるで精巧な作り物のようだ。
彼は何も言わず、君の前に一冊のノートを置いた。表紙には何も書かれていない。
「当店の決まりです。そこに、あなたの『一番大切な人の名前』を書いてください。
それが、コーヒーの代金になります」
君は冗談だと思って、軽い気持ちでペンを取った。
さらさらと、大好きな人の名前を書き込む。
その瞬間。
「あ……」
君の指先から、色が消えた。
いや、指先だけじゃない。
ペンを持つ感覚も、雨音を聞く耳も、自分の心臓が打つ鼓動さえ、「文字」になってノートに吸い込まれていく。
「ごちそうさまでした。素晴らしい『人生』という名の物語だ」
青年が微笑む。
君が最後に見たのは、ノートのページをめくる彼の指。
そこには、君が今書いた名前の隣に、君自身の名前が、本人の筆跡でくっきりと刻まれていた。
視界が真っ暗になる。
カラン、と鐘が鳴った。
次に店に入ってきた客は、誰もいない店内で、ポツンと置かれた一冊の新しい本を手に取ることになるだろう。
ー救いのない結末ー
君が書いた「大切な人の名前」がノートに染み込んだ瞬間、喫茶店の風景がぐにゃりと歪んだ。
「あ…が、あ……」
声が出ない。喉にどろりと熱いインクが詰まったような感覚。
ふと見ると、君の目の前に座っていたはずの青年の姿が消えている。
代わりに、店内の壁一面を埋め尽くす無数の本が、一斉にガタガタと震え始めた。
「君が書いたその人は、もう、どこにもいないよ」
天井から降ってきたのは、青年の楽しげな声。
パシャリ、と足元で音がした。見下ろすと、床が底なしの真っ黒なインクの海に変わっている。
君がノートに書いた「大好きな人」。
その人は今、この瞬間に世界中の人々の記憶から消え、戸籍からも消え、最初から存在しなかったことになった。
そしてその代償として、君という存在もまた、「その人を説明するためだけの注釈」へと成り下がる。
君の体は、指先からパラパラと剥がれ落ちる紙片へと変わっていく。
「ひどいな。自分の存在を差し出してまで、その人をこの『書庫』に閉じ込めるなんて」
青年の手が、虚空から伸びて君の頬を撫でた。その指先は氷のように冷たい。
「安心するといい。君たちはこの本の中で、永遠に一つだ。……二度と読み返されることのない、絶版の悲劇としてね」
君の意識が完全に文字へと分解される直前、ノートの最後のページが見えた。
そこには、君が書いた名前の上に、無慈悲な「検閲済」の赤いスタンプが、血のような色で押されていた。
カラン、と乾いた鐘の音が響く。
雨は止まず、店はまた静寂に包まれた。
ー新たな客ー
雨音に混じって、再びカランと鐘が鳴った。
新しく入ってきたのは、びしょ濡れのコートを着た中年の男。
彼は疲れ果てた様子でカウンターに座り、君だった「本」の隣に置かれたノートを手に取る。
「……何でも、望みが叶うというのは本当かね」
男が震える声で呟くと、どこからともなく青年が姿を現した。その手には、見覚えのある銀色のハサミが握られている。
「ええ、もちろんです。そのノートに名前を記せば、対価と引き換えにどんな願いも綴り直しましょう」
青年が男の背後に立ち、その影にハサミを近づける。チョキン、と音がした。
男は気づかない。自分の「過去」という名の影が、
少しずつ切り取られ、君が閉じ込められたノートの余白に継ぎ接ぎされていることに。
男がペンを走らせるたび、君という物語の上に、知らない誰かの未練や呪いが上書きされていく。
文字が重なり、黒く潰れ、君の自我は完全に闇の中へ消えていく。
ふと、青年がこちら(本)に目を向けた。
「おや、まだ意識が残っていましたか。不完全な物語は、再利用(リサイクル)されるのがこの店のルールでしてね」
彼は君を閉じ込めた本のページを、無造作に一枚破り取った。
それを丁寧に折り畳み、男に差し出すコーヒーに添える砂糖の包み紙へと変えてしまう。
「さあ、お召し上がりください。それはかつて『あなた』と呼ばれた何かが、最後に流した涙の味がするはずですよ」
男がカップに口をつけた瞬間。
君の意識は、熱い液体に溶けて、誰かも知らない男の内臓へと流れ落ちていった。
ー古い墓地ー
男の喉を通った君の意識は、肉体という檻に閉じ込められた。
しかし、それは「融合」ではなかった。君という物語が、男のこれまでの人生を内側から食い破り始めたのだ。
男が激しく咳き込むと、口からこぼれたのは血ではなく、大量の「文字」が印字された紙の欠片だった。男の皮膚の下を、
無数の活字が虫のように這い回り、彼の記憶を、骨を、肉を、一枚の平坦な「紙」へと作り替えていく。
「な、んだ……これは……!」
男が悲鳴を上げようとした瞬間、彼の顔面が中央からパカリと割れた。
そこには肉も脳もなく、ただびっしりと文字が書き込まれた「背表紙」が存在していた。
青年は満足げに、人だったもの——今や巨大な一冊の全集へと成り果てた塊——に手を触れる。
「素晴らしい。犠牲者が次の犠牲者を飲み込み、
物語はより重厚に、より残酷に成長する。これこそが、この書庫の『完全な結末』だ」
青年は、机の上に一輪の白い花を置いた。
その花びらさえも、よく見れば薄い紙でできており、そこには君の、そして男の断末魔の叫びが微細な文字で綴られている。
店内の明かりがふっと消えた。
次に明かりが灯ったとき、そこには喫茶店など存在しなかった。あるのは、ただの古い墓地。
君たちが閉じ込められた「本」は、
今はもう、誰にも読まれることのない苔むした墓石へと姿を変え、永遠に雨に打たれ続けていた__
ー終わりー