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今中希美
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923
#魔法使い
MOCHI076
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最終日の展示室は、思ったより静かだった。
入口の看板には、『推敲の跡 ――ある作家の手書き原稿展』と書かれている。
小さな美術館の、二階の一室。休日の午後でも、人影はまばらだった。
仁人は、朝、いつもどおり起きた。
窓を少し開けて、湯を沸かし、本を数ページ読んだ。
それから、ゆっくり支度をしてここに来た。慌てて来る場所では、なかった。
ガラスケースの中に、原稿が並んでいる。
万年筆の細い字。余白の書き込み。消し線の下に、うっすらと残る文字。
読めそうで、読めない。説明の板には、こう書かれていた。
『作家は、書いた言葉より、消した言葉を、最後まで手元に置いていた。』
仁人は、同じケースの前に、長く立っていた。
一枚の原稿の二行目。消された言葉の、最初の一文字だけが、かろうじて判別できる。
何と書いて、何を消したのか。想像するだけで、時間が過ぎていく。
三つ目のケースの前で、ふと顔を上げた。
展示室の奥に、見覚えのある背中があった。
ダークのコート。背が高い。展示物を見ているというより、ただ歩いている、という歩き方だった。
ケースの前で止まらない。止まっても、すぐに次へ行く。落ち着かない歩き方だった。
勇斗だった。
仁人は、足が止まった。
以前の自分なら、こう思っていた。
また、先回りか。どうせ、偶然を装って。
そう決めて、何も聞かずに背を向けていた。
けれど、その「どうせ」を、今は、胸の中で止めた。
勇斗が、振り返る。目が合う。
一瞬、固まったあと笑った。
「たまたま。近くに、用事があって」
嘘だった。仁人には、分かった。この男は、嘘をつくとき、いつも先に笑う。
分かった上で、仁人は、少し間を置いて言った。
「……なんで、来たの」
責める声ではなかった。ただ、聞く声だった。
自分でも、驚くほど静かに出た。
勇斗の笑顔が、すっと消えた。何かを、探すような目になる。
逃げ道を探しているのではなく、なんと言ったらいいか、探している目だった。
「……覚えてた」
「何を」
「この展示のこと。前に、お前が、この作家好きだって言ってただろ。最終日だって、知って」
仁人は、言葉に詰まった。
確かに言った。ずっと前に。
何かの拍子に、一度だけ。この作家の名前を出して、いつか原稿を見てみたい、と。
独り言のような、口調で。
「……そんなこと」
声が、小さく漏れた。
「……そうですか」
そんなことを。
仁人は、胸の中で繰り返した。そんなことを、覚えていてくれたのか。
驚きの下から、じわりと、嬉しさが上がってくる。
それを、顔に出さないように、仁人は展示ケースに目を戻した。
敬語に、戻っていた。距離を、取り直すために。
勇斗は、何も言わなかった。ただ、隣に来た。
二人は、並んで次のケースを見た。
仁人は、また、同じ原稿の前で、動かなくなった。
いつもそうだ。一つの前に長く立つ。
昔、勇斗は、その間に先へ進んで、全部見て戻ってきた。
今日の勇斗は、動かなかった。
仁人が立ち止まっている間、隣で同じケースを、黙って見ていた。十分近く動かなかった。
「……消した方が」
勇斗が、ぽつりと言いかけた。
「本音っぽい、よな」
「そう、でしょうか」
仁人は、ケースを見たまま返した。それ以上は、続かなかった。勇斗も、続けなかった。
二人とも、同じケースの、同じ消し線を見ていた。
閉館の放送が、流れた。
二人は、美術館の前の石段に立った。
夕方の風が、冷たい。空が、薄い橙から青へ変わっていく。
「じゃあ」
勇斗が言った。
「はい」
仁人が答えた。駅の方向が、同じだった。
並んで、歩き出す。
何も話さない。それでも、気まずさは薄かった。
勇斗は、歩きながら、さっきの「なんで、来た」を、頭の中で繰り返していた。
責める声では、なかった。
昔の仁人は、聞く前に、決めてしまう人だった。
それは、自分も同じだった。聞いてもらえたことが、嬉しい。
そして、少し、怖い。
聞かれれば、答えなければならない。
答えれば、その先を、また聞かれる。
十分近く、同じケースの前に立っていた。
先を見るのが、癖だった。
目の前の一つより、その次の、また次の何かを。
仁人が立ち止まっている間、先に進まなかったのは、我慢ではなかった。
ただ、動きたくなかった。この人の隣に、立っていたかった。
「覚えてた」じゃなくて、「会いたかった」と言いたかった。
それは、言えなかった。
言えなかった言葉が、また、手の中に一つ、増えた。
駅の分かれ道で、二人は、足を止めた。ここから先は、別々の方向だった。
「……あのさ」
勇斗が、言いかけた。
仁人が、こちらを見る。待っている。
今度は、止まらなかった。
「ありがとう」
先に言ったのは、仁人だった。
勇斗は、一瞬、聞き違えたのかと思った。
「展示、見られてよかった」
「……ああ」
勇斗には、それしか言えなかった。
仁人は、目を逸らして背を向けた。
歩き出す。
今度は、一度だけ振り返った。
振り返って、すぐに前を向いた。
勇斗は、その背中が見えなくなるまで立っていた。
手の中の、言えなかった言葉は、増えたままだった。
けれど、胸の中には、ありがとうが一つ、残っていた。
コメント
1件
うわあ……美術館の静けさがそのまま文章に染み込んでるみたいだった。消した言葉の展示、って設定がもう洒落てる。「覚えてた」じゃなくて「会いたかった」って言えなかった勇斗の気持ち、すごく分かるし、仁人が「ありがとう」を先に言えたのも尊かった。前の自分だったら背を向けてたのに、ちゃんと聞く声が出せたのが成長だよね。ずっと読み継ぎたい話だわ。