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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
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太い罫の外側が、ほんの少しだけ、三角に削れている。
米粒の半分ほどの、小さな欠け。
刷った紙の上では、誰も気づかないだろう。気づいたとしても、刷りのかすれだと思うだけだ。
けれど、私の指先は、その形を覚えていた。
ルーペを外して、目をこすった。
もう一度、当てる。
欠けは、消えなかった。
ほかの三つの角も、もう一度見直した。どれも、きれいに留まっている。欠けているのは、左下の、太い罫の外側だけ。
指の腹で、そっと紙の上の欠けに触れた。
紙の上に、凹みなどあるはずがない。それなのに、指の先が、ちくりと痛んだ気がした。
真鍮の冷たさと、敷石の上で跳ねた、あの高い音。
この欠けを、私は知っている。
*
大正七年の、五月だった。
私は十五で、女学校から帰ると、袴のまま店の植字台に向かうのが日課だった。
店の中は、いつもインクと油と、鉛の匂いがした。
奥では刷り機が、がしゃん、がしゃんと規則正しく鳴っている。左利きの吉さんが、赤鉛筆を耳に挟んで、校正刷りを睨んでいた。
その日は、大きな注文の組版だった。罫紙二千枚。旧藩士会の御用だと、父は言った。
「急ぎだ。今週中に納める」
父は、朝からずっと機嫌が悪かった。
真鍮の罫を、ピンセットではなく指でつまんで、枠の角に合わせる。太い罫と細い罫を二本並べる子持ち罫。太いほうの端を、細いほうよりわずかに長く出して留める。父に仕込まれた組み方だった。
その罫が、指から滑った。
真鍮の細い棒が、植字台の縁で跳ねて、土間の敷石に落ちた。
ちん、と、高い音がした。
拾い上げると、太い罫の角が、ほんの少し欠けていた。
「栞」
父の声が、店の奥から飛んできた。
「罫を落とすやつがあるか。罫は職人の顔だぞ」
私は、欠けた罫を握りしめて、首をすくめた。
「替えを切ります」
「そんな暇があるか。先方は急ぎだ」
父は、私の手の中の罫を取り上げ、明かりにかざして、ふんと鼻を鳴らした。
「刷りゃあ、わからん。このまま組め。……次は落とすな」
その様子を、店の入口で見ていた人がいた。
海老茶の袴に、編み上げのブーツ。自転車を格子戸の脇に立てかけて、千鶴さんが笑っていた。
女学校の帰りに、ときどきこうして寄ってくれたのだ。
「栞の失敗が、二千枚も刷られるのね」
「千鶴さん、笑いごとじゃありません」
「笑いごとよ。だって、どこかのお屋敷で、何十年も先まで、栞の傷が残るんだもの」
千鶴さんは、八重歯を見せて、声を立てて笑った。
私も、つられて笑ってしまった。叱られたばかりなのに、どうしても止まらなかった。
父が奥で、わざとらしく咳払いをした。
夕方、最初の刷り上がりが出ると、千鶴さんはその一枚を窓の明かりにかざした。
「どこ? 栞の傷」
「探さないでください」
「いやよ。……あ、見つけた。ほら、ここ。左の下」
千鶴さんは、得意そうに、指の先で小さな欠けを押さえてみせた。
「覚えたわ。どこで会っても、この子だってわかる」
罫紙に向かって、子、と言った。それがおかしくて、私たちはまた笑った。
*
ランプの芯が、じじ、と鳴った。
私は、帯の内側から、もう一枚の紙を出した。
十二階の写真屋で、千鶴さんが遺していった雁皮紙。本物の罫紙を下に敷いて写した、子持ち罫の角。左下の太い罫の外側に、墨を濃くして描かれた、小さな三角の欠け。
余白の字。この欠けを、栞なら知っている。
二枚を、並べた。
雁皮紙を罫紙の上に重ねて、ランプにかざす。
欠けの位置も、大きさも、向きも。
透けて重なった二つの欠けは、ぴたりと一つになった。
千鶴さんは、あの家で、この欠けを見つけたのだ。
二人で笑った、あの日の欠けを。
だから写しを取って、十二階に預けた。私にだけ、わかるように。
「……千鶴さん」
声に出したら、喉が詰まった。
あなたは、こんなところで、私を待っていてくれたの。
けれど、と私は思った。
千鶴さんは、あの家で、何に書かれた欠けを見たのだろう。
隆之様が言っていた。家じゅうの古い紙を引っ張り出しては、明かりに透かしていた、と。
千鶴さんは、何かを探していたのだ。そして、見つけた。
この罫紙が、二千枚。
四年前に、うちの店で刷られて、あの家へ納められた。その一枚に、侯爵様の字で、小夜子様の死を偽れという手紙が書かれている。
残りの紙は、どこへ行ったのだろう。何に、使われたのだろう。
*
もう一度、ルーペを当てた。
今度は、罫紙の上の端の紋を見る。
四月に家令室で、百通の礼状を書いた。あの罫紙の紋なら、目をつぶっても描ける。輪の中に、葉が五枚。
この紋は、違った。
輪が細い。葉の先が丸く、数も一枚少ない。
同じ久遠寺の紋なのに、どこか古めかしい形をしている。
見覚えがあった。
父が昔、旧藩士会の会報の表紙に刷っていた紋だ。明治の頃の形だと、父は言っていた。先代様の代の半ばに、少し形が改められたのだと。
礼状の罫紙には、欠けもなかった。百通書いて、一枚も。
あの家には、紋の違う二種類の罫紙があるのだ。今の紋の、欠けのない紙。古い紋の、欠けのある紙。
そして私は、後のほうを、今夜初めて手にしている。
ルーペを、右下の欄外へ滑らせる。
医院のカルテには、九・三と刷られていた。刷った年月を入れるのは、店の慣わしだった。六号の数字を二本と中黒を一本、その小さな活字を嵌めこむのは、私の役目だった。
この罫紙の隅には、何もなかった。
入れてくれと言われりゃ入れる。入れるなと言われりゃ入れん。
父の声が、耳の奥で鳴った。
*
その夜は、ほとんど眠れなかった。
朝、父が粥をすすり終えるのを待ってから、私は罫紙を出した。
墨の字のところは、折り返して隠した。紋と、子持ち罫の左下の角だけが見えるように。
これを、父にだけは読ませたくなかった。冬馬、という名も。病名は流行性感冒と記されたし、という一行も。
言うべきか、一晩迷った。
父は、あの火事で胸を焼かれた。借金を背負い、娘を侯爵家に差し出した。そのうえ、自分の刷った紙が人の死に使われたと知ったら。
けれど、私一人では、この紙がいつ、誰の注文で刷られたものか、確かめようがない。
刷った仕事は、刷った店に必ず残る。それを教えてくれたのは、父だった。
「お父さん。この紙、見てくれる」
父は、怪訝な顔で、紙を受け取った。
ルーペを渡すと、火傷の痕の残る指で、それを目に当てた。
最初に、紋を見た。それから、角へ。
左下の角で、父の指が止まった。
父の顔から、血の気が引いていった。
「……栞」
声が、かすれていた。
「どこで、これを」
「久遠寺のお屋敷で」
父は、それきり黙った。
指先で、紙の端を、そっとこする。生成りの、少し黄みがかった厚手の和紙。それから、紙を裏返して、刷りの押しの具合を、親指の腹で確かめた。
職人の手つきだった。火事のあと、一度も見せなかった手つきだった。
罫紙を膝に置いたまま、長いあいだ、障子の桟を見ていた。外の路地で、豆腐屋の喇叭が鳴って、遠ざかっていった。
やがて、父は、布団の端に手をかけた。
私が嫁ぐ日に押し戻した、あの敷布団だった。
父は、その下から、分厚い帳面を引き出した。
表紙の角が、焦げて丸くなっている。火事の夜、父が火傷を負ってまで抱えて出てきたもの。
うちで刷った仕事の刷り見本を、一枚ずつ綴じた見本帳だった。
父は、震える指で、頁をめくりはじめた。
大正五年。大正六年。
めくる手が、だんだん遅くなる。
そして、ある頁で、止まった。
「この仕事は、覚えている」
父は、頁から目を上げずに言った。
「……あの火事の、二年前だ」
コメント
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このエピソード、本当に胸にくるものがありました……。栞さんが少女時代に欠けてしまった罫紙の小さな傷が、何年も経って千鶴さんからの《私だけにわかる》遺言になるなんて。千鶴さんの「覚えたわ、どこで会ってもこの子だってわかる」という台詞が、今になってこんな重みで返ってくるんですね。罫紙に刻まれた傷、職人の名誉、そして火事で焼かれた過去——すべてが一つに繋がっていく展開に、背筋が震えました。続きが本当に気になります🌷