テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第三十五話:紅き疾風と、地の底からの誘惑
「――来たにゃ! 空から真っ赤なのが突っ込んでくるにゃ!」
お凛の耳が鋭く反応し、空を指差した。
朧月館の上空、朝の清浄な空気を切り裂いて、一筋の紅い閃光が凄まじい速度で接近してくる。それは「翠嵐の摩天楼」の主、紅羽。だが、その気配に以前のような「支配者」としての優雅な余裕は微塵もなかった。あるのは、焦燥と、渇望と、なりふり構わぬ執着だけだ。
「……あるじ様ぁぁぁッ! 私も! 私も救って、壊して、愛してぇぇぇッ!!」
狂乱した叫びが隠り世の空に響き渡り、紅羽が庭園へと急降下しようとしたその時――。
「マジでいい加減にしろっつーの! 旦那様の休息を邪魔する奴は、アタシが、マジで、許さないし!!」
庭園の中央に、工具箱を蹴り飛ばしてカノンが立ち塞がった。彼女の手には、昨晩から一睡もせずに組み上げたという、奇妙な形状の機械装置が握られている。
「カノン、危ないよ! 彼女は自暴自棄になってる!」
僕の制止を、カノンは不敵な笑みで振り返って制した。
「旦那様、見てて。アタシはエンジニアだから剣は振れないけど、旦那様の霊力を『最も効率よくお仕置き(デバッグ)に使う方法』なら、誰よりもわかってるから! これが天才の仕事だし!」
カノンが装置のレバーを引くと、装置の先端にある黄金のクリスタルが僕の金角と共鳴し、眩い光を放った。
「システム起動! 旦那様の霊力と同期、ターゲット・紅羽! 『王の慈悲・お仕置きモード』、射出ッ!!」
カノンが引き金を引くと、装置から放たれたのは破壊の光ではない。それは黄金の「網」となって空中で広がり、突っ込んできた紅羽を優しく、けれど絶対に逃がさない強固な力で包み込んだ。
「なっ……!? 何よこれ、動けない……! 霊力が……旦那様の霊力が、私の中に流れ込んできて……強制的に鎮められる……っ!? ぁ、あああぁッ!」
黄金の網に捕らえられた紅羽は、そのまま庭園の芝生の上へと引きずり下ろされた。カノンの発明品は、あるじの霊力を抽出・変換し、女王たちの暴走する魔力を強制的に鎮静化させる「強制ヒーリング・デバイス」だったのだ。
「……あ、……あぁ……っ。これ、旦那様の力……。あったかい……でも、動けない……っ」
網に縛られたまま、紅羽が屈辱と恍惚の混ざった表情で身悶える。そこへ、僕はゆっくりと歩み寄った。
「紅羽。……無茶しすぎだよ。羽がボロボロじゃないか」
「……旦那……様……。だって……瑞稀たちがズルいんですもの……。私だけ置いていかれるなんて、耐えられなかった……っ。お願い、私にも……あの二人にしてあげたように、して……っ!」
紅羽は網の中で、天狗の誇りなど微塵も感じさせない姿で、僕を見上げて涙を流した。その瞳に宿っているのは、かつて僕を支配しようとした醜悪な欲望ではなく、一人の女性としての、痛々しいほどの「純愛」だ。
僕はカノンに合図し、網の出力を下げさせた。そして、震える紅羽の頭を優しく撫でる。
「カノン、ありがとう。助かったよ」
「……ふんっ。旦那様がそう言うなら、今回は見逃してあげるし。でも次は、マジでもっと強力な『矯正具』作るからね! 宿のセキュリティ、マジでザルすぎてエンジニア的に許せないし!」
カノンが頬を膨らませてそっぽを向く中、僕は紅羽の下腹部に手を当てた。
「紅羽……君も、もう自由になっていいんだ。……呪いで繋がるのは、おしまいにしよう。これからは、君の意志で会いに来てほしい」
「あ、ぁ……旦那様……っ!!」
僕が光を灯すと、彼女の腹部に刻まれた黄金の刻印が、眩い光と共に蝶となって舞い上がった。支配の鎖が消え去り、彼女の魂があるじ様の慈悲によって「解凍」されていく。
「……ぁ、ぁああああああ……ッ!!」
紅羽は僕の足に縋り付き、慟哭した。これで四人。瑞稀、狂骨、紅羽、そして玉藻。
だが、その安堵の瞬間を狙うように、庭園の地表がどろりと黒い液体に変わった。
「ふふ……みんな、ちょっと騒ぎすぎじゃない? ……あるじ様を、そんなに疲れさせちゃ可哀想でしょ?」
地の底、「忘却の霊池」の女王、雲華が姿を現した。彼女は他の女王たちのように特攻してくることはなかった。代わりに、庭園全体に甘く、意識を蕩けさせるような香りを漂わせ、僕の足元から霊池の水をせり上げさせる。
「雲華……! 君まで来たのか」
「お迎えに来てあげたわ、あるじ様。……そんなにボロボロの娘たちを抱えてちゃ、あなた様が壊れちゃうでしょ? ……ねえ、わたくしの霊池へいらっしゃいな。あそこなら、王様としての重圧も、外の世界のうるさい喧騒も……ぜーんぶ、忘れさせてあげるから……」
雲華の操る水が、僕の足を優しく包み込み、地の底へと引きずり込もうとする。それは攻撃ではなく、甘美な「誘惑」。一度浸かれば二度と戻りたくなくなるような、猛烈な安らぎの罠だ。
「おい、そこな女! アタシの目の前で旦那様を拉致しようとか、マジでいい度胸してるし!」
カノンが再び装置を構えるが、雲華は余裕の笑みで、水飛沫を散らしてそれを軽く弾き飛ばした。
「エンジニアさん、わたくしは力でねじ伏せに来たわけじゃないの。……あるじ様。あなたは、お優しいわ。だからこそ、もう疲れちゃってるはずでしょ? ……わたくしの中で、永遠に眠りにつかない?」
雲華のしなやかな腕が僕の首に回される。だが、僕は彼女のどこか寂しげな瞳の中に、自分を求めて震える『刻印』の輝きを見た。彼女もまた、この甘い誘惑という手段を取らなければ、自分も狂ってしまうほどにあるじを求めていたのだ。
「……雲華。全部忘れさせてくれるんじゃなくて、君が僕を『独占』したいだけなんだろう?」
僕の言葉に、雲華の眉がぴくりと跳ね、余裕の笑みが一瞬だけ崩れた。
「……っ。……あは、やっぱり……お見通しなわけ? ……そうよ、あの子たちなんてどうでもいいの。……わたくしだけの、あるじ様になって……お願いだから」
彼女が僕を強く抱き寄せた瞬間、僕は彼女の下腹部――ドレスの奥にある刻印に、掌を押し当てた。
「君も、一人で暗い地の底にいるのは寂しかったんだね。……もう、いいよ。独り占めしなくても、僕は逃げないから」
黄金の光が、雲華の纏う黒い水を一瞬で浄化し、彼女の刻印を光の粒子へと変えた。
「……あ、……あぁ。……溶けちゃう……。わたくしの……孤独が、あなたの光で……っ」
雲華は力なく僕の腕の中に崩れ落ち、その瞳からは、数千年もの間溜め込んできた孤独の涙が、霊池の水となって溢れ出した。
これで四人。残るは二人、「霰」と「伊吹」。
朧月館の庭園は、今や救済された女王たちと、彼女たちを献身的に支える仲間たちで、かつてないほど賑やかで、そして壊れそうなほど美しい秩序に満たされていた。
「……旦那様、マジでモテすぎ。……これ、マジで宿の増築、エンジニア総動員でも追いつかないし! 予算度外視でやるしかないし!」
カノンが呆れたように、けれど嬉しそうに笑い、僕の肩を叩いた。