ヘレンは昨日の謎の病の苦しみからすっかり復帰していた。今になって思い返せば朧気に覚えているのはモートの顔だけだった。
モートのお蔭で、あの壮絶な苦しみがほんの数分だけの苦しみだったようにも思えてきた。呼吸ができず体中が悲鳴を上げるかのような激痛は、本当に苦しいことだったのだが、今では酷い悪夢を一瞬垣間見ただけだったかのように感じた。
元気も取り戻し、また気を取り直してジョン・ムーアの秘密を探ることにした。あの男には必ず何かがあるのだ。
ふと、あのモートが産まれた絵画と同じ絵がノブレス・オブリージュ美術館にあるのではという考えが浮かんだ。
それは、広い美術館のことだ。数十枚もあるかも知れない。
ただの勘だが、何かがあるはず。
漠然とした勘だけに、モートには何も言えなかった。
だが、それだけたくさんあればモートの秘密にも繋がっていく。そして、やがてジョン・ムーアの持つ何らかの真相が浮かび上がるのでは?
そこまで考えて、今日の朝早くにヘレンはモートに絵探しを頼んだのだ。
「ひとまずはジョン・ムーアにまた会わないと……モートとオーゼムさんも一緒に来てくれるのよね」
ヘレンは遅めの昼食を頼みにベルを鳴らそうとしたが……。
モートからの電話で昼食を早めに食べることになった。
厚底のブーツで、グランド・クレセント・ホテルの玄関へと急いで向かうと、丁度道路の反対側の路面バスからオーゼムが降りるころだった。
これから、オーゼムとノブレス・オブリージュ美術館に一緒に行くのだ。
ヘレンはオーゼムに笑顔で挨拶をしたが、オーゼムは難しい顔を終始していた。
灰色の空からは粉雪が舞っている。
オーゼムの顔色と同じく気温は下がり気味だった。
外套の雪を払いながら、オーゼムは玄関の回転扉の前でヘレンにこう言った。
「一つも黒い魂が見当たらないのです……けれども、ウエストタウンの一角で灰色の魂が物凄い勢いで集っています。これは一体何でしょう? 凄く嫌な胸騒ぎがします」
ヘレンは何を言っているのかは理解できるが、それが何を意味しているのかは皆目見当が付かなかった。
「さあ、行きましょう。モート君が待っている。そして……今にも大勢の命が危険に晒されているかも知れません……」
ヘレンは突然に考え込みだしたオーゼムとノブレス・オブリージュ美術館へと向かった。停留所でバスを待っている間も、それからオーゼムは一言も話さなかった。
時間通りに到着したノブレス・オブリージュ美術館行きの16時12分の路面バスの中で、オーゼムは考え込んでいたが、ハッとして突然に大声を発した。
「そうだ! ダンスホールだ! ここホワイト・シティに唯一あるんだ! ウエストタウン! そこに灰色の魂が集まっているんだ!」
オーゼムは驚いているヘレンを放っておいて、運転手にすぐに停まるように叫んだ。驚いた運転手は急ブレーキをした。
大きな様々な悲鳴と共に路面バスが急停車した。
オーゼムはバスから飛び降りると、真っ先に近くの店に入った。
ヘレンはしばらくして冷静さを取り戻すと、オーゼムは電話を借りに行ったのだと考えた。
Lust 3
「え! なんだって! ウエストタウンのダンスホールにすぐ行ってくれだって?!」
オーゼムからの切羽詰った電話を切ると、モートはノブレス・オブリージュ美術館の絵探しを中断して、アリスとシンクレアにここに好きなだけいてくれと言い残し、ウエストタウン行きのバスを探しに大急ぎで館内を出た。
ウエストタウン行きの路面バスはすぐにつかまった。
嬉しいことにダンスホールまで2ブロックのところに、バスの停留所がある。薄暗くなった空には美しい白い月が浮かび上がっていた。
モートは交差する車や歩行者を通り抜けながら、道路と建物を真っ直ぐに突き進んでいく。かれこれ奇跡的にエンストを起こさなかったバスから降りてから30分が過ぎていた。
モートの目にも見えて来た。
ホワイト・シティに唯一あるダンスホール。「パラバラム・クラブ」だ。それは地下一階から二階にかけて広がる巨大なダンスホールだった。モートは迷わず黒い魂が密集した地下二階へと向かう。
カラフルなライトが明滅した赤煉瓦が囲む地下のダンスホールだった。そこにお洒落な恰好の男や女がダンスに熱中していた。だが、皆、アッパー系の危険な麻薬や毒のようなものが体内にあるのか、正気の者は一人もいなかった。目は虚ろで、涎を垂らし、まるで何時間も踊っているかのようだった。全員が恍惚な表情をしていて踊りの動きはとても激しかった。
モートは辛抱強く壁に寄り掛かり人々を観察していると、定期的に全ての男や女がダンスホールの片隅にあるバーに通っていた。数分で行き来している人たちもいた。バーテンダーの魂は黒。モートはそこで、ビールを頼み口に含んだ。それには、やはり高濃度の麻薬か毒が入っていた。
モートはすぐさま主犯格を探しに辺りを窺った。
ダンスホールのカラフルなライトに照らされた中央に、疑わしいその人はいた。
ライトアップに照らされた一冊の本を持つ女性だった。
すぐさまモートは熱狂の嵐の中。人々を通り抜けて一冊の本を刈りとった。恐らくこの本がグリモワールだろうとモートは考えた。
「残念! ……ね!」
女性は蠍を肩に持っていた。蠍を片手に持ちモートに襲い掛かる。
モートは女性の持っている大き目の蠍の尾からの毒を警戒した。
蠍から吐きつけられた毒を避けた。
「私たちの遊びを邪魔する奴は、全て・死・苦しみ・奈落の底・よ! あなたのことはジョンから聞いているのよ!」
女性は狂人のように笑いだし、激しいダンスの中で叫んだ。
今までダンスに夢中だった男や女もモートに襲い掛かる。騒音ともいえる音楽の中で、モートは通り抜けることが出来るが、一旦、更に地下へと床を通り抜けようと下へ向かった。
「追え!」
女性は全員に命令した。
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