ユカリを小脇に抱えたまま《熱病》は放たれた矢の如き速さで空高く迷いなく飛んで行く。どのような風でもグリュエーでもこれほどの速度は出せないだろう。熱病に過ぎない呪いの化身といえども、夜の女王の眷属という地位に恥じない力を秘めているのだ。
天頂へと真っすぐに昇る《熱病》と魔法少女の放つ淡い光は、この夜の夢の外で病の呪いに咽ぶエベット・シルマニータの市民の誰もが目にし、美しくも不吉な兆しとして後の世に語られることとなる。
高く打ちあがるその光の先端でユカリは高さと寒さに苦しむ。《熱病》の片腕で両腕ごと抱えられ、ほとんど身動きが取れずにいた。病を退ける魔導書は離さず手に持っているが、手首の可動範囲でしか動かせない。冬の先駆けのような冷たい風が轟々と、容赦なく全身に吹き付ける。いくら寒さが得意なユカリといえど、今にも凍え死にかねない。グリュエーが何事かを喋っている気がするが、気圧の変化による耳鳴りが邪魔して殆ど聞き取れなかった。
雲の多い日の星空のような地上から瞬く間に離されていく。アルダニの大地が、二本の大河が遠ざかっていく。代わりに世界を覆う尊大な夜空に近づく。か細い月のいやらしい笑みをユカリは睨みつけた。
その時、神々しく力強い、まるで救いのような橙色の光がユカリを照らし出した。丸い地平線の陰から再び夕日が現れる。地上と違ってまだ上空には今宵が届いていないのだった。わずかばかりだが、偉大な天の温もりがユカリの震える心身を労う。
それでも夜の女王たる月の眷属である《熱病》の力に衰えるところはない。月は変わらず控えめに輝いている。
とうとう《熱病》は上昇を止めた。一番星にも手が届きそうな空は冬のような冷たい空気に満たされている。
ユカリは白い息を吐いてもがくが、《熱病》の腕はきつく縛る鎖のようにユカリの体を戒め、どうにもならない。変身による体格差を利用して、このような状況から逃れたことはある。しかし、いま魔法少女の小さな体から元に戻れば、万力のように締め付ける《熱病》の腕の中で圧死してしまうかもしれない。
「グリュエー! 助けて!」とユカリは乞うように叫ぶ。
「いいけど、大丈夫? 死なない?」とグリュエーは心から心配そうに言う。
「やっぱりやめて。死ぬかもしれない」
この冷たい空気の中でグリュエーが吹けば、心臓まで凍り付くだろう。しかしこのままこうしていてもやはり同様に凍え死ぬだけだ。ユカリは何とか病を癒す魔導書の羊皮紙を《熱病》に押し当てようとするが、手首の関節が今よりも柔らかかったとしても届きそうにない。
一方で《熱病》とて、片腕を使えないこの体勢では弓を引くこともできないだろう、とユカリは高を括った。
しかし《熱病》はもう一方の手で箙から禍々しい矢を一本引き抜くと、それをそのまま地上へと投げつけた。
「何それ! ずるい!」ユカリはもがきながら抗議するように言う。
弓にて放たれた時に比べれば自由落下の矢はとても遅いが、それでもぶれることなく、まるで獲物を見定めた猟犬のようにまっすぐに空を落ちていく。《熱病》には距離など関係なく呪う相手が見えているのだろう。少なくともただの人間であるユカリの目には、このような上空から遥か地上に哀れな獲物の姿は見えない。ただぽつりぽつりと灯る営みが見えるだけだ。
いよいよ打つ手が思いつかない。やはり身を凍らせる覚悟でグリュエーに抵抗してもらうしかないだろうか、と考えたその時だった。
「お姉さん。僕が助けてあげるよ。お母さんの所へ連れてきてくれたお礼にね」
全くもってこの場に似つかわしくない幼気な声を聞き、ユカリは恐怖に近い驚きで声の主を探す。ここは鳥も寄り付かない遥か上空だ。子供が迷子になってやってくるような場所ではない。
しかし《熱病》のすぐそばで同じように少年が空に浮いていた。その少年はデノクの要塞で何度か見かけ、話しかけた少年だった。普通のどこにでもいる少年だ、とユカリはこの瞬間までそう思っていた。
大地をひっくり返したような混乱がユカリの頭の中を占拠して、何をするでもなく喋るでもなく、ただ見開いた瞳で少年を見つめ、口をぱくぱくと開閉することしかできなかった。
何も言えないユカリに少年はもう大丈夫だとでもいうように微笑みかけ、《熱病》の腕をこじ開けようとする。
ようやくユカリも頭が働く。このまま落ちるわけにもいかない。ユカリは《熱病》の腕に掴まりつつ、《熱病》に腕を掴まれつつ、してやったりという気持ちを込めて全力で魔導書を《熱病》の腕に叩きつける。
しかしユカリの期待していた反応は得られなかった。病を退ける魔導書といういかにも天敵のような存在から逃れるように身を捩り、恨めしそうな悲鳴をあげて霧散する、と思っていた。期待していた。願っていた。
しかし《熱病》は少し鬱陶しそうにするだけで、まるで意に介さず、何も変わらず矢を次々に落とし、地上の罪なき女たちを呪い続ける。
この《熱病》はあくまで呪いの化身であって病そのものではない、ということだとユカリは悟る。病そのものなのは矢の方だろうか。
だとすれば上空へユカリを連れてきたのは魔導書を恐れて先に始末したかったわけではなく、ただ単にエベット・シルマニータの街を魔導書の奇跡の範囲外にするためだったということだ。
それは魔導書が熱病に力負けしていないということでもあるが、今のところ熱病の矢は消え失せたりしていない。もしくはこの魔導書は病を癒し、退けるものなので、魔導書から離れていく病を消し去る力などない、ということかもしれない。
ユカリは魔導書を持つ手を伸ばし、今度は箙に押し付けるが、矢に直接触れることはできない。《熱病》がユカリの腕を掴んで手を伸ばし、それを拒んだのだ。やはり矢そのものには触れさせたくないらしい。ユカリは親猫に運ばれる子猫のように宙づりになる。
「それなら」ユカリは病を癒す魔導書を手放した。魔導書はひらひらと地上に舞い落ちる。「グリュエー。魔導書をベルニージュに届けて」
「でも、ユカリは?」とグリュエーは心配そうに吹き寄せる。
「届けたらすぐに戻ってくるんだよ。じゃないと私、死んじゃうんだからね。急いで」
グリュエーが気合を放ち、唸りとともに地上へ向けて吹き降りる。まるで嵐か突風のようだ。《熱病》の矢よりもはるかに速い速度で羊皮紙の魔導書が落ちていく。
次の瞬間、ユカリの体が空に解き放たれる。《熱病》に放り投げられたのだった。魔法少女の小さな体が自由落下する。母なる大地が空も飛べない哀れな魔法少女を受け止めようとその胸を広げる。ユカリの肉と骨と内臓と魂が寄る辺なき自由に恐れ戦く。
「そうきたかあああ!」とユカリは叫ぶ。
「お姉さん!」
少年が咄嗟にユカリの手を掴むが落下速度はほとんど変化しなかった。
「もうちょっと頑張って!」
ユカリは片手を上げた態勢になり、足から落下する。
「ごめんね。僕、《熱病》対策に作られた存在だから、《熱病》相手だと少し力持ちになれるんだけど」
その時、二人を追い抜くように《熱病》が地上へ向けて飛んで行く。ただ落下するよりもはるかに速い。《熱病》の放つ矢よりも速い。そしておそらくグリュエーよりも。
魔導書を届けることも、戻ってきてユカリを助けることも、全てはグリュエーにかかっていた。
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