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何の前ぶれもなく、ひとりの男がここを訪ねてきた。
そのせいでここ数日のあいだ、高阪伸太郎のはらわたは煮えくり返っていた。
ようやく残りの人生を過ごすための楽園を見つけたはずが、半年足らずで邪魔者が現れた。その現実が高阪には耐え難いものだった。
最初に男を発見したとき、無防備にも背中をさらけ出して立っていた。
自分が近づいていることも知らずに扉に触れていた。
触れてはいけない錠前だった。
よりによってこの砦の中で、唯一開けてはならない部屋に入ろうとしていたのだ。
楽園の核心を踏みにじろうとする男を、そのままにしておくわけがなかった。高阪はためらうことなく、侵入者の背中にナイフを刺し込んだ。
死なない部位に、そして抵抗できない程度に自由を奪った。
男は柱のうしろに隠れてへたり込み、逃げるために走りだした。しかし深手を負った体では、有能な猟犬の包囲網を突破するなどできようはずもない。
そうして侵入者はキッチンに囚われの身となった。
あれから数日。
結局男は脱出を試みた。
つまり、管理下に入ることを拒んだのだ。
純粋な子どもとはやはり違っていた。
脱出は非常に計画的であり、同時に十分な覚悟が見て取れた。文字通り命をかけて逃げ出そうとしたのだ。
徹底したシミュレーションを経ていたようで、危うく逃がすところだった。
どうにか再び閉じ込めることは成功したが、状況はこれまでとは異なっている。
男を縛っていたロープはもうない。
4つの壁に囲まれたキッチンの中に限り、男は完全なる自由を得た。
「最後まで面倒なヤロウだ」
高阪伸太郎はベッドに座り、壁にかかった猟銃を見つめた。
「この銃さえ使えれば、何も恐れることはないのに……」
最も単純な対処法は、猟銃で男の脳天を撃ち抜くこと。
キッチンの扉を開け、男に照準を合わせて引き金を引く。ただそれだけだった。
しかしそれはできない。
ゆっくりと育んできたこの楽園の中に、銃声音が鳴り響くことは許されない。
万が一銃声を聞いた誰かが、この場所を特定するなどあってはならない。銃が奏でる鋭い音は、山を下った猟場でしか鳴ってはいけない。
高阪はグラスに入った焼酎を飲み干した。
ここは俺だけの楽園……。
廃墟と化した木材工場を、人が住めるよう改造するのにほぼ半年を要した。
キッチンと猟犬の家を作り、自分の部屋もこしらえた。過去に木材の運搬車両が通っていた山道を木々が生い茂る自然へと戻し、ここへと通じる道をすべて遮断した。
ところが男はこの場所にやってきた!
長い時間をかけてようやく砦を築いたというのに!
どのような経緯でここまでこれたかはわからないが、おそらく山中をさまよった末に偶然たどり着いたのだろう。
ボロボロの服に、びっこを引いた姿。
ナイフで背中を刺さずとも、数日放置しておけばそのまま朽ち果てていたかもしれない。
水と食料を求めてきたのだろうか。
だからといって立ち入っていい場所ではない……!
その上、脱出を試みるなど言語道断。
俺のイノシシを食いやがったくせに。
俺が山から汲んできた水を飲みやがったくせに。
俺の猟犬を殺しやがったくせに!
そして今、俺を殺そうとキッチンで息を潜めている。
厚顔無恥にもほどがあるではないか。
絶対に許さねえ。
「……忌々しいヤロウだ。恩を返すでもなく、最後まで抵抗するなど」
高阪伸太郎は眉間に深いシワを刻んだまま立ちあがり、キッチンとつながる壁に耳を当てた。音はまったく聞こえない。
そのまま自分の部屋を出て、廃工場の最奥にある錠のかかった部屋を開けた。
ふたりの少女が、壁にもたれたまま座っている。
皿の上の猪肉は半分以上残っていた。
「なぜ肉を残した?」
「ご主人さま。となりの部屋にいる人を殺すんですか」
姉の日沖かなが、高阪の視線を避けながら言った。
「おまえが気にかけることではない」
「人をころしたらダメです。ご主人さま」
妹の日沖りんが訴えるように言った。
「ひとつ教えてやろう。もしここに他の人間が入ってきたら、その時は新しいご主人さまが現れたと考えろ」
「ご主人さまはどこかに行くんですか」
「その時は、俺はこの世にいない」
高阪は肉の乗った皿を持って部屋を出ようとした。
「ああ、それともうひとつ。当分キッチンが使えないから昼食はナシだ。夕食は残り物をもってきてやるから、それまで我慢していろ」
「……ご主人さま、死んじゃダメです」
「……」
日沖かなの一言に高阪は振り向いた。
姉妹は高阪とは目を合わせず、床に視線を落としたままだった。
なぜだ?
なぜ死ぬなと言った?
詳しく話を聞いてみたくなった。
しかし言葉が出なかった。
どういった気持ちで、今そんなことを言ったんだ。
死についてまだよくわかっていないからか。
それとも……。
――3ヵ月前。
ここへきてから、決して多くはないが言葉を交わした。
最初は恐怖によって、ただ部屋の隅で猫のように震えていた。しかしある日突然、姉の日沖かなの口から思いもよらない言葉が出た。
「ご主人さまの……名前はなんですか?」
高坂はすぐには反応できなかった。
生まれつき人生に不必要な会話が苦手であり、また人とはうまく共感できない病を抱えているためでもあった。
不意に他人がかけてくる言葉が、高阪には不協和音のように耳元で変換されて聞こえるのだ。
高阪は結局、返事をしないまま部屋を出ていった。夕食をもって入ったところ、再び日沖かなが声をかけた。
「ご主人さまは、なぜここに住んでいますか?」
その瞬間目の前が真っ白になり、高坂は意識を失った。
しばらくしてから我に返ると、子どもたちが涙を浮かべてすすり泣いていた。
夕食の肉や野菜が、部屋中のあちこちに散らばっている。
おそらく自分が激高したせいだ。
高阪は黙って掃除をはじめた。
姉妹は部屋の隅で抱き合って泣いていた。
その30分後。
2度目の夕食が段ボールテーブルの上に置かれた。
「俺の名前……そんなものはない。俺はただのご主人さまだ。それと人間が嫌いだからここに住むことになった」
姉妹の反応はなく、部屋には沈黙が流れた。
高坂は気にすることもなく部屋を出ようとした。
そのとき日沖かなが言った。
「……なんで人がきらいなんですか? じゃなんでわたしたちはここにいるんですか?」
「おまえたちは……」
そう、復讐のための道具。
「おまえたちは……ただいるだけだ」
「ただいるだけって何ですか? どういう意味かよくわかりません」
「知る必要なんてない。ただおとなしくここにいればいいいだけだ」
「……はい」
姉妹はそれ以上何も言わなかった。