ケヴィンの荷馬車が館の結界を出て行くのを見送ってから、ベルと葉月がホールに戻ると、ソファーのいつもの場所で白黒の猫は丸くなっていた。客人が帰るのをどこで見ていたのか、何事も無かったかのようにしれっと出て来てくつろいでいる様子に二人は顔を見合わせた。
「まだ、先生とは会う気はないのね」
くーの警戒が解けない内は、この存在は隠し通すつもりだ。猫を聖なる獣だとするなら、無闇に人目に晒すのは避けるべきだというのが、ベルの考えだった。
葉月はというと、愛猫の性格からして無理に出そうとしても隠れてしまうだろうし、事前に上手くケージに閉じ込めておくなりしないと人間の都合ではどうにもならないと思っていた。まあ、今のくーならケージも簡単に破壊して脱走してしまうだろうから、どう考えても無理だ。
人見知りの基準についてはよくは分からないが、少なくともケヴィンは猫受けは悪いタイプだということは確かだ。
「父にまた手紙を書かないといけないわね」
まだ最初の返事も来ていないのに、と小さく笑う。両親との仲は良い方で、幼い頃には武勇伝を含めたいろんな話を聞かせてもらっていたはずだが、それでも知らないことが多くて驚いていた。
「猫が三匹とかって、どんなモフモフ天国なんですか」
「どうしてうちに、初版本が無いのかしらね」
ケヴィンが話していた虎が三匹出てくる物語に二人は興味を惹かれているようだった。例の初版本がその冒険譚の主人公の家に一冊も無いのは不思議だ。重版分からの設定の変更と何か関係があるのだろうか。
ソファーの真ん中を陣取っている猫は丸まって二本の前足で顔を覆うようにしていたが、隠しきれていない耳は時折ピクピクと動いていた。まるで二人の会話を聞いているかのようだった。
その横に腰掛けて、葉月はそっと毛並みに沿って愛猫を撫でる。
「くーちゃんは、どうしてここに来たの?」
人差し指で眉間の毛流れをなぞると、気持ちが良いのか顔から前足をどけて、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。長い尻尾も身体に沿わせるように丸めている。
「……この子は、どっちの世界の子なんでしょう?」
いつかは帰るつもりがあるのかな? そう思った時に、葉月はふと疑問に思ってしまった。
元々、この子はどちらの世界にいるのが本当なんだろうか、と。
葉月の知っている世界の猫がこちらに来たら、全ての猫に翼が生えて聖獣に進化するのかと考えると、決してそうじゃない気がする。くーだから、翼が生えて光魔法を使いこなせるようになったのでは、と。それはこの子が元から持っていた力だったのではないか、と。
「くーちゃんは、ここの子なのかな」
ぽつりと呟く。歳下の少女の寂し気な表情にベルは何も言えず、そっと向かいの席に腰掛け、マーサに二人分のお茶を頼んだ。淹れて貰ったお茶の温かさに、葉月はふぅっと息を付く。カップを持つ手がじんわりと熱を帯びた。
たまたま葉月も一緒に来てしまったけれど、あの時のくーは一匹だけで光の中に入ろうとしていた。だとしたら、あの夜に鳴き声に反応して目を覚ましていなかったら、葉月は翌朝になるまで猫が家から居なくなっていることには気付かなかったんだろう。それはとても悲し過ぎる。
そして、この世界の子ならば、もう一緒に家に帰る気は無いのだろうか?
何の為に、あの世界とこの世界を行き来していたのだろうか?
ケヴィンの仮説に基づけば、葉月が戻れるかどうかは転移の魔法を使う猫次第。くーの転移の目的を探れば、何かが分かるかもしれない。
「くーちゃんは、この森に用があるのかしら」
この森の、あの場所が転移先に選ばれた理由。そして迷いなく、この館に向かって歩み進んでいた理由。
それらが分かれば、愛猫のこの世界に転移してきた理由が明らかになりそうなのだが。
葉月がくーを保護したのは10年前のことだった。
小学校からの帰り道に立ち寄った公園の植木の陰で、荒い息で横たわる白黒の猫を見つけた。血を流してかなり衰弱した状態だったので、慌てて半泣きになりながら抱き抱えて家に帰ったことは今でもはっきりと憶えている。
すぐに母親と一緒に連れて行った動物病院では、怪我の様子から車にでも跳ねられたんじゃないかと言われた。その際に、まだ小柄だから成猫になる前だと診断されたけれど、その時と今とはあまり大きさは変わってない気もする。
もしあの時もすでに成猫だったとしたら……。
「くーちゃん、一体いくつなの?」
聖獣って何年生きられるんですか? とベルにも聞いてみるが、森の魔女も困ったように首を傾げるだけだった。さすがにそれは専門家でも答えられる者はいないのではないだろうか。
この世界で何があって、何年生きた後に葉月と出会うことになったんだろうか。答える術を持たない猫は、すやすやと丸くなって眠っていた。
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