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「読書する人間って案外、社交的なんだと思うよ。ひとと関わるのが好きな人間が多い」
思い切って断言してみると彼女の唇が動いた。「……ですか?」
「だね」と広坂は首肯する。かたかた揺れる、電車のかすかな振動が心地よい。「ぼっちな人間が多いと思われがちだけど、読書は、他者の思考を自分の内側に取り込みたいという欲求の表れであるからね。また、その行為だ。
……きみは、いつもお昼休みに本を読んでいるよね? 読書のどこが好き……?」
「あーわたしは」一瞬、窓の外の夜景に視線を走らせると彼女はうえを向き、「そうですね……いままでに見たことのない世界に連れてかれる感じが好きだったりします。自分じゃあ絶対に思いつけないことを、作者は軽々とやってのけるじゃないですか……あの浮遊感というか、作品という名の列車に乗って知らない世界に連れてかれる感じが、たまらないです……」
――きみも、電車に乗ってぼくの世界に連れていかれようとしている。そのことについてはどう思う?
この時点では、まだ聞けない。それだけの信頼性を構築出来ていない。――焦るな。時間はたっぷりある。
「きみは、映像型なんだね」と広坂。「小説を読む人間の類型は概ね、三つに分類される。……映像型。目に映像が浮かぶタイプ。映画を見ているかのような感覚で小説を読む。
続いて、音声型。音で小説を読むタイプだね。音楽を聴く感覚で小説を読む。
最後が、文字型。文字そのままを取り入れる。英語を体得した人間が、都度和訳するのではなく、『chair』であれば『chair』そのものを、字面そのままに取り入れる、そういう特性を持つ。
ぼくは音声型寄りの文字型とのハイブリッドでね。地文の声音が合わなければ読めないってタイプだ。たとえどんなにみんなが絶賛する文章であってもね。ほら小説読むとき、頭んなかに自動的に音声が流れ出すだろう? あの声が、喋り方が、自分にとって気持ちのいい小説でなければならない、ぼくの場合はね。ブレスのタイミング、言葉の使い方、ひらがなと漢字の字面のバランス……すべてが自分にとって気持ちのいいものじゃないと許せないんだ。好みの偏屈な快楽主義者だ。だからきみのように、ばーっと映像世界が広がるタイプが羨ましかったりする。
……きみは、ファンタジーが好きなんだね」
「……よく分かりますね」
「映像型はファンタジー好きが多い。そもそも世のウェブ小説は異世界ファンタジーが主流だからね。みんな、酔いたいんだね。忘れたい現実があったりと、……逆に、いま自分の生きている世界がそれほど物足りないのかと、おにーさんとしては心配になったりする……」
「わたしがウェブ小説を好きだというのを、どうして……」
「これでも課長職に就いているからね」人間観察はお手の物の広坂。「スマホをいじるときの目線や手つきで分かるよ……ゲームであればもっと鬼気迫る表情して横方向に向けたスマホ必死に指で叩いてるし、SNSはもうね、一発で分かる。スワイプしまくってるからね。残りは……音楽鑑賞か。きみは、イヤホンしてないからね」
「音楽は、ipodで聴くんです。スマホだと機種変したときに面倒なのかなあって……不安があって」
「結局読書って、他人を知ることによって自分を知る行為なんだと思うよ」シルバーの手すりを掴む広坂は、「あれに触れてどう感じるのかは、ひとそれぞれだから。であるから他人の評価が気になり、amazonなんかチェックする。自分の感覚が他人とどれだけズレがあるのか……それもまた、他者を『気にする』行為だ。だから、読書好きは結局、内的に他者との会話を重ねているんだね……」
「広坂さんは、小説だとどんな小説がお好きですか?」
「あーぼくは」彼女の目をじっと見つめる。背が低いんだなこの子、と思いながら、「ミステリィかな。自分では絶対思いつけない謎とか仕込まれるとぞくぞくする……色々読むよ。好みなのは京極夏彦や宮部みゆきに湊かなえかな。ミステリィって三人称小説が多いからね、あの俯瞰した視点で淡々と語る、ドライな語り口を保つものが好みだね。湊かなえは一人称も多いけれど、やはり、『告白』は外せないなあ。……よかったら今度きみに貸してあげるよ」
ええ、と答える彼女の唇のいろに密かに魅せられながら、
「恋愛ものや流行りものもチェックするよ。仕事柄、現代女性がいったいなにに重きを置いて生きているのか、知る必要に迫られるんだ。最近読んだなかでは『マチネの終わりに』が面白かったね。『恋愛小説なんてぺらっぺら』、……ていう思い込みを払拭してくれる快作だった。だって一時期、必ずヒロインヒーローのうちどちらかが死ぬとか病気にさせるとかで泣かせる系が流行ったじゃない。うーん、おにいさん的には、命の価値をなんだと思っているのだろうと、……嘆かわしかったね。特に若い子のあいだであれが受けてるってことに衝撃受けた。いまはまぁ、ハッピーエンドが好まれる傾向にあるから、ちょっと……ほっとしてるけど」
「流行りましたものねえ」と頷く彼女。「わたしも、ハッピーなものがいいなあ。恋愛ものであれば結ばれるものが。だって、現実は悲しい辛いことばかりじゃないですか。小説のなかでくらい、……幸せになりたいですよね」
彼女のその発言に広坂の胸が痛んだ。この子はそう、……何年も交際していた恋人から、あろうことか結婚相手が懐妊をカミングアウトされるというかたちで失恋した。
幸せにしてあげたい。そのためなら、どんな犠牲をも払うつもりでいる。そのためには――
「……着いたよ」目的地に着いたことを知らせ、彼女を誘導する。「――さ。美味しいものを食べに行こう……。楽しみだね」
「はい」素直に答える彼女が愛らしい。人ごみの流れに従い、ホームから繋がる階段を下りながら、「わたし焼肉大好きなんです。幸せな気持ちになれますよね?」
この発言から、いかに彼女が幸せに飢えているかが読み取れる。――やはり、山崎との交際は、彼女のこころをあたためるものではなかったのだ。広坂は確信する。そして――決意する。
どんな手段を用いても、きみを幸せにする。
改札を抜けると、思い切って手を繋いでみた。夏の夕方の、湿気に満ちた、されど暑すぎず寒すぎずの気候が出迎える。金曜日ということもあり、こころなしか街の表情は晴れ晴れとしている。
「……課長」
彼女がそっと口にする。「その、あの……。広坂課長の手って、大きいんですね……」
ちょっと力を与え、自分の隠し持つ恋を表明してみる。露骨に彼女の顔が赤らんだ。下を向き唇を噛む有り様で。……へえ。照れ屋さんなんだ。ときめく自身を感じつつも、広坂の大部分が彼女を注視している。肩よりもすこし長い髪を毎朝毎朝、ヘアアイロンで手入れをし、まっすぐに整える……あくまで常識的な、他人から見て自分がどう映るのかに気を払う、平均的なタイプの女性だ。服装も、いつも流行を取り入れたもの。ノースリーブよりもちょっと袖のある、水色のさらりとしたトップスに、紺のフレアスカート。かつかつと、控えめに彼女が歩くたびにヒールが鳴る。この爽やかな装いの裏に、いったいどんな自分を隠し持っているのだろう……広坂は興味が湧いた。会社で装着する仮面の裏に隠された真の彼女に。
ときは、2019年6月7日、金曜日。いまだ頬の赤い彼女を見て広坂は決意した。……失恋の痛手から立ち直る手助けをしたい……いや、きみのなかをおれでいっぱいにしてやりたい。彼女のしっとりとした手の感触を味わいながら広坂は足を進める。彼女のいる、夢いっぱいの未来のほうへと。――シンデレラはきみなんだ。ぼくにとって唯一無二のシンデレラ……。
店の前に辿り着いた。広坂は、茶色いドアについたシルバーのドアノブに手をかけると、気取ったお辞儀をして広坂は彼女に笑いかけた。
――さあ、いらっしゃい。見たことのない世界を、見せてあげるよ。
*