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「今夜は、あのラウンジへ行ってみませんか?」
彼と待ち合わせて会うと、そう不意に切り出されて、
「えっ、あそこへ?」と、戸惑いが浮かんだ。
初めて彼に食事に誘われた、あのホテルのラウンジのことだと知れると、かつての苦い思い出が頭をよぎるようだった。
「あの場所は、好きではないですか?」
「いいえ…」と、緩く首を左右に振る。
「……そうじゃないですが、でも……」
まだ嫌悪感しか持たずに目の前の人を見ていた頃の気まずい思いが、俄に込み上げる。
「何を、思い出されているのです?」
横で車を運転しながら、私の心の内をわかっていてなのかいないのかそう問いかけてくる彼に、
「……あそこには、いい思い出がそんなに……」
俯いてぼそぼと小さな声で答えた。
「初めて食事をした時のことを、気にかけられているのですか?」
「だって……あの時の私は、あなたを好きになることすらできなくて……」
車が赤信号で止まり、俯けた私の顔が彼の両手に包まれる。
「初めから、互いの全てがわかっていたわけではないでしょう? 私も、君をどんな風に見ていたか……」
目の奥がじっと覗き込まれ、
「それは、そうですけど……」
と、言い淀む私の目蓋に、軽く唇が寄せられる。
「……それでは、上書きをしてみますか? かつての互いの気持ちを上書きして、あの場所をいい思い出に変えるために……」
「……上書き、ですか…」まだ少しためらいがちに口にすると、
しっとりとした彼の唇が「……いいですよね?」言い聞かせるかのように、ふっと私の唇に触れた。
キスにほだされるように、「はい……」とだけ頷く。
「ラウンジには先に行って待っていてください。あの時と、同じシチュエーションになるように」
ホテルの前で車を停めると、彼が話して、
「先に…ですか?」
またも不安が頭をもたげた。
「ええ。私も、後からすぐに行きますので」
そう言い残して、彼はまたハンドルを握り何処かへ車を走らせて行ってしまった。
一人ホテルの前へ降ろされて、あまり落ち着かない気持ちでエレベーターを待つと、かつての時のようにラウンジのある最上階へと向かった──。