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――ピピピピピッ!
耳元で鳴り響く目覚ましの音に、僕は顔をしかめながら手を伸ばした。
「うーん、朝か〜……。」
カーテンの隙間から差し込む光がまぶしい。
布団の中はあったかいけど、現実は残酷だ。今日も学校、か。
僕の名前は山田たける。
どこにでもいる、ごく普通の高校二年生。
成績も中の上、運動もそこそこ。
クラスでは、目立つでもなく、埋もれるでもなく。
……まぁ、悪くない位置だと思う。
「さて、と。」
のそのそと起き上がって制服に袖を通しながら、僕は頭の中で今日の予定をざっくり考える。
特に何もない、はず――いや、たぶん。
ただ、僕の周りは“普通”でいられない奴らばっかりだ。
チャラくていつも金欠の佐藤。
ゲームとお菓子が生きがいの前田。
そして、冷静沈着なブレーンの藤原。
三人が揃うと、教室の空気が一瞬で騒がしくなる。
そんな連中に囲まれてるけど、不思議と嫌じゃない。
むしろ、こういう日々がちょっと楽しい。
そして、もう一人――。
「……おはよう、山田くん。」
玄関を出てしばらく歩いた先、
いつもの場所で待っていたのは、無口でクールな女の子、佐藤冬菜。
同じクラスで、家も近所。
毎朝こうして一緒に登校するけど、会話はあまり多くない。
「お、おはよう冬菜。」
「……うん。」
それだけのやり取り。
でも、なぜか心が少し温かくなる。
彼女は、僕のことをどう思ってるんだろう。
たまに腕を組んできたり、ふと見つめてきたり――。
掴めそうで掴めない距離感。
そんな僕たちの日常が、
まさか“あんな爆弾ゲーム”で変わるなんて、
このときの僕は、まだ知らなかった。
目の前に現れたのは、どこからともなくやってきた一匹の猫だった。
黒猫、いや、灰色がかった毛並みのその猫は、無防備に座り込んでいる。
ちょうど僕と冬菜が歩く道の真ん中、突然現れて、まるで僕らを待っていたかのようにじっとしていた。
「お、猫だ。」
つい、声をかけた。
猫はその声に反応して、のんびりと目を細める。
あまりにもかわいかったので、僕は自然にしゃがみ込んで、猫の頭を優しく撫でた。
その感触は、ふわっとした温かさと少しの柔らかさが心地よくて、つい気分が落ち着いた。
「にゃー。」
猫が一声鳴いた。
その瞬間、僕は思わず笑みをこぼす。
「お前、めっちゃかわいいな。」
ふと横を見ると、冬菜が無表情で猫を見つめている。
いつも通り、彼女の顔は変わらない。
まるで、その猫が存在しないかのように、目を合わせることすらしない。
この無表情な感じが、冬菜らしいといえば冬菜らしいんだけど、
どこか冷たいようにも感じる。
その時、後ろから声が聞こえた。
「あの人、無表情じゃない?」
女子高生AとBが、ちょうど通りかかった。
二人とも、思わずその一言を発したのは、冬菜がいつも通りの無表情だからだろう。
それが不思議だったのか、二人はちらちらと冬菜を見ながら歩いていく。
「あー、やっぱり。」
女子高生Aが小声で言う。
「でも、すっごい綺麗じゃない?人形みたい。」
僕はその言葉に、心の中で答える。
(そう、冬菜は無表情で綺麗な女の子だから、みんなからは『人形』って呼ばれているんだ。)
人形。
その言葉がぴったりだと思う。
冬菜の顔はまるで感情がないかのようで、それがまた魅力的なんだ。
だから、彼女を知らない人たちが見ると、怖くもあり、どこか不気味に映るのかもしれない。
でも僕は、そんな冬菜が嫌いじゃない。
むしろ、そんな無表情が彼女の一部みたいで、どこか安心する。
「冬菜、猫、可愛いよね。」
僕はなんとなく話しかけてみた。
でも、彼女は一切反応しない。
「……うん。」
ただそれだけの一言が返ってくる。
彼女らしい、何の感情も込められていない返事。
でも、それでいい。
僕はそれが冬菜の一部だから。
その後、僕は猫と一緒に歩きながら、
「なんか、今の女子たちの話、聞こえてた?」と冗談っぽく言ってみた。
「人形みたいってさ。」
冬菜は無表情のまま、ほんの少しだけ目を細める。
その表情が、なぜか僕の胸を少しだけ高鳴らせた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、教室の中が一気にざわめき出した。
弁当の蓋が開く音、友達同士の笑い声、廊下を走る足音。
いつもの昼の風景――のはずだった。
「おーい!みんなーっ!」
突然、教室の後ろから声が響いた。
声の主はもちろん、チャラ男代表の佐藤だ。
両手を広げて満面の笑みを浮かべながら、いつものようにテンション高めに登場する。
「おいおい、また何か始まったぞ……。」
前の席で弁当を開けていた僕は、ため息まじりに呟いた。
佐藤は机の上にどんっと教科書サイズの箱を置いた。
その箱には手作り感満載のガムテープが貼られていて、
中央にでかでかと「爆弾ゲーム」と書かれている。
「よっしゃー!昼休み恒例、爆弾ゲームの時間だぁーっ!!」
「お、やるやる!」とノリよく反応したのは藤原。
彼は冷静な頭脳派だけど、こういう遊びになると不思議とノッてくるタイプだ。
「……しょうがない、やるか。」
と苦笑しながら言ったのはアルト。
完璧爽やか男子の彼が少しだけ肩をすくめて、机の上の箱を見つめている。
クラスの女子が「アルトくんもやるの!?」とざわめくが、
本人はあくまで穏やかな笑みのまま。
そして、ゲーム好きの前田が箸を置きながら、にやっと笑った。
「お、じゃあ冬菜もたけるもやろうぜ!」
「え、僕も!?」
スプーンを持ったまま固まる僕に、佐藤がニヤニヤしながら近づいてくる。
「当然だろ、たける!お前抜きじゃつまんねーよ!」
「いや、僕こういうの苦手なんだけど……。」
と言いつつも、断れない僕はいつも通り流されてしまう。
「冬菜もやるよな?」と前田が振ると、
冬菜は少しだけ首をかしげた。
「……別に、いいけど。」
その無表情な一言で、クラスの空気がふっと変わる。
何気ない返事なのに、なぜか周りの空気をピタッと静かにさせる冬菜の存在感。
でも、佐藤たちはそんなの気にせずテンション最高潮だ。
「よーし!全員参加だな!」
「今回のテーマはなんだ?」と藤原が聞くと、
佐藤はにやっと口角を上げて答えた。
「ふっふっふ、今回のテーマは……“好きな人”だ!!」
「はぁ!?」
僕の声が思わず裏返る。
「お前、それ罰ゲームどころか地獄だろ!」
周りの男子たちは爆笑し、女子たちはざわざわと顔を見合わせる。
アルトは苦笑しながら、「また過激なテーマ選んだな」と呟く。
冬菜は――相変わらず無表情のまま。
「そして!タイマーが鳴った瞬間に答えられなかったやつは、罰ゲーム決定!」
佐藤が胸を張って宣言する。
「罰ゲームは……何にする?」と藤原が聞くと、
佐藤はいたずらっぽく笑った。
「ふっ……今回の罰ゲームは――告白だ!!」
「マジで!?」
「本気のやつ?」
クラスが一斉に盛り上がる。
僕の背中に冷や汗が流れた。
まさか、こんな軽いノリが、
あの“偽カップル事件”の始まりになるなんて――
このときの僕は、まだ知る由もなかった。
――ピピピピピピッ!!!
教室にけたたましい電子音が鳴り響いた。
一瞬で笑い声が止み、みんなの視線が一点に集まる。
タイマーの赤いランプが、僕の手の中で点滅していた。
「……え?」
一瞬、状況が飲み込めない。
だって、たしか今のテーマは「好きな人」――。
「っしゃーっ!」
佐藤が勢いよく立ち上がる。
「罰ゲームは……たけるに決定でーす!!!」
「おいおい、マジかよ!」
僕は思わず机を叩くが、周りのクラスメイトたちは大爆笑。
「やったなー山田!」
「これはもう運命だよ運命!」
みんなが囃し立てる中、藤原は静かに腕を組み、
「……ふむ、これは見ものだな。」と興味深そうに呟いた。
前田が、にやにやしながら僕の背中を押す。
「ほらほら、言っちゃいなよ〜!告白タイム、スタート!」
「ちょっ……ま、待って、準備が――」
言い訳をする間もなく、教室の視線が一斉に僕へ集まる。
心臓がバクバクとうるさいほど鳴っている。
目の前には、無表情で立つ冬菜。
いつも通り感情の読めないその顔が、今だけ少し怖く見えた。
けど――逃げられない。
ゲームとはいえ、みんなが見ている。
僕は一度深呼吸をして、顔を上げた。
「……冬菜、君のこと、好きなんだ。
付き合ってください!」
教室が一瞬静まり返る。
時間が止まったような感覚。
冬菜はその場でじっと僕を見つめていた。
何の表情も浮かべないまま、ただ静かに言葉を落とす。
「……なんで?」
小さく、それでいて胸の奥を刺すような一言。
クラスがざわつく中、僕は焦って言葉を重ねる。
「だって……! 一生君のそばから離れないから! お願い!」
その瞬間、ざわめきが笑いへと変わった。
「うわ〜マジで言った!」
「たける、熱すぎだろ!」
「青春かよ〜!」
けど、冬菜だけは違った。
彼女は無言のまま、すっと僕の方へ歩み寄る。
そして、誰にも聞こえないように僕の耳元で囁いた。
「……じゃあ、罰ゲーカップル。
偽物のカップルだけど、周りからは本当のカップルだと思われる。
それでいい?」
息がかかるほど近い距離。
僕は一瞬、頭が真っ白になった。
でも――その声が少しだけ優しく感じた。
「……うん。」
僕は小さく頷いた。
冬菜が少しだけ離れ、僕の方を見て小さく言う。
「じゃあ、よろしくね。」
僕は顔を赤くしながら、クラスのみんなに向き直った。
「……オッケーだって。」
次の瞬間、教室が大歓声に包まれた。
「おおおーーーっ!!」
「やばっ!マジで成立した!」
「爆弾ゲーム神すぎる!!」
笑い声と歓声が飛び交う中、
冬菜は無表情のまま、ほんの少しだけ視線をそらしていた。
けれど、その頬が――ほんのり赤く染まっている気がした。
次の日の昼休み。
いつもと変わらない日常――のはずだった。
だけど、昨日の爆弾ゲームがあってから、
クラスの空気がどこか違っていた。
登校のときから、妙に視線を感じる。
廊下ですれ違う女子たちはこそこそ話をし、男子たちはニヤニヤ笑う。
「おい、見た?」「本物っぽくね?」――そんな声が耳に入るたび、顔が熱くなる。
そう、昨日の“罰ゲーカップル”宣言。
まさかあんなノリの一言で、
こんなにクラス全体を騒がせることになるなんて……。
そんな中、昼休み。
僕が弁当を広げようとしたその時――。
「たける〜っ!!」
元気いっぱいの声が、教室の後ろから響く。
案の定、チャラ男・佐藤が笑顔で手を振っていた。
「な、なんだよ佐藤。」
「鬼ごっこしようぜ〜! 昼休み限定、廊下全域バトルだ!」
「またかよ……。」
でも、正直少し楽しそうだった。
昨日のこともあるし、こういうバカみたいな時間が恋しくなっていた。
「まぁ、いいよ。久々に体動かすのも――」
そのときだった。
不意に、僕の肩に何か柔らかいものが当たる。
と思った次の瞬間、
背中に重みがのしかかる。
「……だめ。」
静かな声。
でも、耳のすぐ後ろで囁かれたその一言に、体が固まる。
振り向くと、冬菜が僕の背中に半分覆いかぶさるようにして立っていた。
その腕が、僕の肩越しにぎゅっと回される。
「た、冬菜っ!?」
彼女は顔を僕の肩に寄せながら、静かに言った。
「だめ……たけるは私と図書室で、二人きりで読書するんだから。」
……。
一瞬、時間が止まった。
周囲も固まっている。
教室の空気が“パチン”と弾けるように静まり返った。
「うおおおお!?」
最初に声を上げたのは佐藤だった。
「な、なんだよその展開!! リアルカップルすぎるだろ!」
「やば、冬菜さんがたけるにくっついてる……!」
「これマジで“罰ゲー”じゃなくね!?」
「読書(意味深)」
周りのざわめきが止まらない。
僕は顔が真っ赤になって、どう反応すればいいのかわからない。
「え、えっと……冬菜?」
「……なに?」
「図書室って……その、昨日の“罰ゲーカップル”の……?」
冬菜はほんの一瞬だけ目を細め、
小さく微笑んだ――ような気がした。
「そう。
“偽カップル”なら、ちゃんとそれっぽくしないと。」
その言葉が胸の奥に刺さる。
でも、なぜか悪い気はしなかった。
むしろ、鼓動が少し早くなっている。
「……じゃあ、行こ。たける。」
冬菜はそう言って、僕の手首を取った。
教室中の視線を集めたまま、
僕らはそのまま廊下へと歩き出す。
背後から佐藤の叫び声が飛ぶ。
「たけるぇぇぇぇ! 裏切り者ぉぉぉ!!」
僕は苦笑しながら、冬菜の背中を見つめた。
その横顔はやっぱり無表情だけど――
どこか、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
図書室へと消えていったたけると冬菜。
残された教室には、妙な静けさが流れていた。
その沈黙を破ったのは、もちろん――佐藤だった。
「たける〜〜〜〜〜っ!!」
窓の外に向かって、魂の叫びを放つ。
「お前は一生の女たらしだぁぁぁ!!」
彼は机に突っ伏し、ぐしゃぐしゃにした髪をかきむしる。
「昨日まで“純情男子代表”だったくせに! 一日で彼女持ちかよ!?」
前田がため息をつきながら、机に肘をついた。
「はぁ……俺たちだけ、黒歴史になりそう。」
「なにそれ?」佐藤が顔を上げる。
「だってさ、たけるだけ物語進んでんじゃん。
俺らずっと同じステージで止まってるみたいだろ?」
「やめろ、その言い方地味に刺さる……!」
佐藤が胸を押さえて悶絶する。
藤原は、そんな二人を横目にノートを閉じ、
淡々と呟いた。
「……俺たち?」
二人が同時に振り向く。
「いや、俺、クラスの女子と付き合ってんだけど。」
「……は?」
空気が一瞬止まった。
「いや、昨日普通に告白された。
席後ろの桜井さん。」
沈黙。
前田が、箸を落とした。
「……お前、さらっと爆弾落とすなよ。」
佐藤は目を見開いたまま、口をパクパクさせる。
そして、ゆっくり立ち上がり――叫んだ。
「藤原ーーー!! 裏切り者ーーー!!」
「うるさい。」藤原が冷静に返す。
「うるさいじゃねぇよ! お前いつの間にそんな進展してんだよ!」
「まぁ、タイミングかな。」
「タイミング!? 俺らにそんな“タイミング”来たこと一度もねぇよ!」
前田が肩をすくめて、弁当の残りを口に入れる。
「……なんか、俺たちだけ平行世界に取り残されてる感じ。」
「俺ら、恋愛偏差値0組だな。」
「0どころかマイナスだよ。」
そのあとしばらく、教室には彼らのため息と笑い声が響いていた。
「……くそ、たけるも藤原も、勝ち組め。」
「次の爆弾ゲーム、恋愛禁止テーマにしようぜ。」
「いや、もう爆弾ゲームで人生変わるの、こりごりだわ。」
三人は顔を見合わせ、同時に笑った。
昼休みの図書室。
放課後の喧騒とは違い、ここだけ時間がゆっくり流れていた。
窓から差し込む光が、机の上の本をやさしく照らしている。
ページをめくる音と、遠くで時計の針が進む音だけが響いていた。
僕と冬菜は、いつものように並んで座っていた。
でも――今日は違う。
冬菜は僕の肩に、そっと顔を寄せていた。
髪の先が頬に触れるたび、心臓が変なリズムで跳ねる。
「……あ、あのさ、冬菜?」
小声で呼びかけるけど、彼女は何も言わない。
ただ、僕の肩に軽く頭を預けながら、静かにページをめくっている。
その横顔は穏やかで、まるで世界のすべてが止まって見えるほど綺麗だった。
……やばい、顔が熱い。
僕の頬は少し赤くなっているのが、自分でもわかる。
そんな時――
「……冬菜さん?」
静かな声が後ろから聞こえた。
図書室の司書の先生が、困ったようにこちらを見ている。
「えっとね、冬菜さん。ちょっと離れようか。」
優しく注意するような声。
でも、冬菜は顔を上げて、先生の方をじっと見つめた。
その目は、どこか真剣だった。
そして、ほんの少し間をおいてから、
ゆっくりと、はっきりと言った。
「嫌です。」
その場の空気が止まる。
先生も、僕も、思わず固まった。
冬菜は僕の肩に顔を戻し、
そのまま小さな声で続ける。
「昨日……たけるが言ってくれたんです。
“ 一生君のそばから離れないから ”って。」
その言葉が静かに空気を震わせた。
僕の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「それが……うれしかったんです。
だから、私も――一生、たけるから離れたくないです。」
冬菜の声は静かだったけど、
その一言一言に、確かな温度がこもっていた。
先生は一瞬驚いたような顔をしたが、
すぐに小さく微笑んで言った。
「……そっか。じゃあ、静かにね。」
そう言って離れていく。
静寂が戻った図書室。
僕は何も言えずに、ただ横にいる冬菜を見つめた。
彼女は本のページを見ながら、少しだけ笑っていた。
それは、無表情な“人形”じゃない、
本当の“佐藤冬菜”の笑顔だった。
そして僕は――
その笑顔を見た瞬間、心のどこかで思った。
(もしかして……この“罰ゲー”、本当に罰なんかじゃないのかもしれない。)
次の日の朝の教室。
冬菜がいつもの席に着くと、たけるの姿が見当たらなかった。
「……たける?」
無表情の彼女の声には、どこかほんの少しだけ不安が混じっていた。
その時、佐藤が隣の席からニヤリと笑いながら言った。
「おっと、冬菜。今日のたけるは風邪で休みだってさ。」
「えっ?」
冬菜の目が一瞬だけ、驚きで大きくなる。
「昨日、ちょっと咳してたしな。無理させちゃいけねぇよな。」
「そう……」
冬菜はしばらく黙ってから、ゆっくりと頷いた。
教室の空気は少しだけ重くなり、周りの生徒たちもちらちらと彼女の様子をうかがっていた。
「まあ、たけるがいないと静かでいいな」なんて声も聞こえたけど、
冬菜の表情はそんな冗談を笑い飛ばせるものじゃなかった。
机の上に置かれたたけるの教科書を見つめながら、
冬菜の心はどこかでそわそわと落ち着かなかった。
(たける、大丈夫かな……)
その日は、普段よりも長く教室の窓の外を見つめる冬菜の姿があった。
たけるの部屋は静かだった。
窓の外からは、時折風が吹き込んでカーテンが揺れている。
彼は布団に寄りかかりながら、教科書を開いていた。
咳が何度も喉から漏れる。
「……はぁ、まだ治らないな。」
たけるは少し苦しそうに喉をさすったが、勉強を止めることはなかった。
ペンを手に取り、ノートに文字を書き続ける。
その目は真剣そのものだった。
なぜ、こんなに頑張るのか――。
それは、彼の密かな夢があったからだ。
(高校を卒業したら、帝京平成大学に入りたい。)
たけるは自分の夢を決して口に出したことはない。
でも、その目標があるからこそ、今の自分を諦められなかった。
「絶対に、夢を叶えてみせる……」
たとえ今は風邪で体が弱っていても、
心の中の炎は消えていなかった。
ページをめくりながら、たけるはそっと呟いた。
「冬菜にも、ちゃんと見せたいんだ。俺の頑張る姿を……」
窓の外の青空が、少しずつ明るくなっていくように、
たけるの決意も静かに強まっていった。
次の日の学校。
たけるの席は空のままだった。
教室の空気は、どこか静かで少し寂しい。
そんな中、アルトがふと口を開いた。
「たけるなら大丈夫だ。」
クラスメイトたちが顔を見合わせる。
「え? どうして?」
アルトは微笑みながら、自信満々に話し始めた。
「俺が言えるのはな……俺はたけると、小学生のころからの大親友だからだ。」
クラスがざわつく中、アルトは続けた。
「たけるは昔、小学校でドッジボールを顔面に3回連続で当てられたけど、無事だった。」
「マジかよ!」
「しかも、ブランコから落ちても平気だった。」
「嘘だろ!」
笑いが起こるが、アルトは真顔で続けた。
「そう、たけるは不死身の男なんだ。」
その言葉に、クラス中の空気が少し明るくなった。
「だから、たけるは絶対に戻ってくる。生きて、また俺たちと一緒に笑うんだ。」
その言葉に、みんなが静かに頷いた。
アルトの確かな信頼は、クラスメイトたちにも伝わっていった。
誰もが、たけるの復活を心のどこかで信じていた。
夜の10時を過ぎたころ。
冬菜の部屋には、机の上のランプの明かりだけが灯っていた。
宿題のノートを開き、静かに鉛筆を走らせている。
外は風の音がする。
一日の終わりを告げるような静けさだった。
――そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には「たける」の名前。
冬菜は一瞬だけ驚き、すぐに通話ボタンを押した。
「……たける?」
スピーカーの向こうから、少しかすれた声が返ってきた。
「……冬菜、今、話せる?」
「うん。どうしたの? 体調、悪いの?」
「うん……まあ、悪いっちゃ悪いんだけど。」
たけるの声には、どこか冗談めかした響きがあったが、
その裏に隠された不安を、冬菜はすぐに感じ取った。
「……ねぇ、冬菜。」
「なに?」
「僕、もうすぐ死ぬ――っていうか……この世界から“いなくなる”みたいなんだ。」
「……え?」
冬菜の手が止まる。鉛筆が机から落ちる音が、部屋に響いた。
「どういうこと……? 冗談、でしょ?」
「ごめん。本当なんだ。」
たけるの声が少し震えていた。
「僕の病気……“思春期出発症候群”っていうんだ。
これにかかると、今日の夜12時を過ぎた瞬間に、
この世界の全ての人に“存在を忘れられる”んだって。」
「……そんなの、あるわけ――」
「信じられないよね。でも……本当なんだ。」
冬菜の喉の奥が熱くなる。
目の前の空気がゆらいで見えた。
「でもね、冬菜だけは……きっと僕のこと、忘れないと思う。」
「なんで……そんなこと言えるの?」
「だって……君は、僕に“本気で繋がってくれた”人だから。」
「……っ!」
たけるの声が少し途切れる。
電話越しに、かすかな息遣いが聞こえる。
「僕、今までいろんなこと諦めてきたけど……
冬菜と出会って、初めて“生きてたい”って思ったんだ。」
「……たける。」
冬菜の声は震えていた。
「だから、お願い。僕のことを、忘れないで。」
しばらくの沈黙。
そして、冬菜は唇を噛みながら、静かに言った。
「――絶対、忘れない。」
その言葉は、たけるの胸の奥にまっすぐ届いた。
「……ありがとう。冬菜。じゃあ……また、どこかで。」
その言葉を最後に、通話はぷつりと途切れた。
冬菜はスマートフォンを胸に抱きしめ、
声を出さずに涙を流した。
時計の針は――11時57分を指していた。
朝の光が、冬菜の部屋にやさしく差し込んでいた。
まだ少し眠そうな目をこすりながら、彼女はベッドの横に置かれたスマホを握りしめていることに気づいた。
「……あれ?」
小さな声で呟いた。
「なんで私、スマホを持ってるんだろう?」
昨日の夜のことが、頭の中をかすめるが、詳細はぼんやりしていた。
「別に、特に用があったわけじゃないのに……」
ぽつりとつぶやきながら、冬菜は涙が自然に頬を伝うのを感じた。
「なんでこんなに涙が出るんだろう?」
理由もわからず、ただ胸の奥から溢れてくる切なさに戸惑う。
スマホの画面には、たけるの名前が残っている。
でも、まるで昨日の電話の内容が記憶の底から溶けていくように、
彼の声も姿も、ぼんやり霞んでいく気がした。
「たける……」
彼女はそっとつぶやいたけれど、誰にもその声は届かなかった。
窓の外の風は、いつもと変わらず優しく吹いている。
それなのに、冬菜の胸はひどく重たかった。
「――私は、どうしたらいいんだろう?」
問いかけは、誰にも答えられず、静かな部屋にだけ響いていた。
朝の教室。
ざわめく声、笑い合う友達たち。
でも――冬菜には、その喧騒が遠くに聞こえていた。
彼女は、教室の入り口で立ち止まりながら、
心の中でひとつの名前を確かめるように呟いた。
(……たける。)
その名前は、まだ胸の奥に温かく残っていた。
でも、なぜかその“存在”だけが、どこにも見当たらない。
不安を押し殺しながら、冬菜は一番近くにいた佐藤たちに声をかけた。
「ねぇ、佐藤……“たける”っていう人、知ってる?」
佐藤はきょとんとした顔で首を傾げる。
「たける? 誰だそれ?」
冬菜の心臓が、ドクンと大きく鳴った。
「……ほら、クラスにいたでしょ? 優しくて、ちょっと天然で……」
前田が首をかしげながら言った。
「うーん……たぶん有名人の名前じゃない? テレビかなんかで見たとか?」
藤原が腕を組んで考える。
「いや、そんな有名人、いたっけ?」
その瞬間、冬菜の頭の中で何かが崩れ落ちたような感覚がした。
(まさか……本当に……?)
彼女は足早に教室を出て、廊下を駆け抜けた。
――アルトのいる教室へ。
ドアを開ける勢いのまま、彼の前に立つ。
「アルト、たけるって知ってる?」
アルトは驚いたように目を瞬かせ、それから首を傾げた。
「誰だそんなやつ?」
その言葉は、冬菜の胸に冷たい刃のように突き刺さった。
教室の空気が一瞬止まる。
冬菜の唇がわずかに震える。
(……みんな、本当に、忘れてる。)
頭では理解していても、心が追いつかない。
涙が込み上げそうになるのを必死にこらえて、
彼女はただ呟いた。
「……うそ、でしょ。」
その声はかすれて、誰にも届かないほど小さかった。
窓の外では、太陽がまぶしく照っていた。
まるで、世界そのものが“たける”の存在を消し去ってしまったかのように。
放課後。
冬菜は校門を出たあと、どこかに引っ張られるように走っていた。
スマホを握る手が震えている。
(たけるが……いる?)
心臓が早鐘を打つ。
あの夜の電話の言葉が頭の奥で反響していた。
「僕はこの世界の全ての人に忘れられる」
――でも、もし、それが間違いだったら。
「……冬菜さん?」
声の主は、藤原の彼女・桜井だった。
放課後の光の中で、彼女は優しく笑っていた。
「来てくれてありがとう。……こっち。」
桜井が指差した先。
そこには、校庭のベンチで、見慣れた横顔があった。
たける。
いつもの制服、いつもの姿。
けれど――その目に、冬菜の姿は映っていなかった。
隣には桜井が座っていて、楽しそうに話している。
まるで何もかも“普通の日常”のように。
冬菜の足が止まった。
喉の奥が熱くなり、何も言葉が出てこない。
(……生きてる。本当に、たけるだ。)
その瞬間、たけるがこちらを見た。
けれど、その目は冷たく、まるで初対面のようだった。
「……誰だよ、おまえ。」
風が一瞬止まった気がした。
冬菜の頭の中が真っ白になる。
言葉の意味が、脳に届かない。
「え……たける、なに言って……」
桜井が立ち上がり、楽しそうに肩をすくめた。
「ざ〜んねん。たけるくん、あなたのこと――ぜんっぜん覚えてないみたいよ?」
その一言で、冬菜の中の世界が崩れた。
「う、そ……でしょ?」
頬を伝う涙を拭う暇もなく、冬菜は走り出した。
誰も呼び止めない。
足音がコンクリートを叩くたび、胸の奥の何かが砕けていく。
(たける……なんで……どうして、そんな顔をするの?)
夕焼けの中、冬菜の姿が小さく遠ざかっていく。
涙の向こうに見えたたけるの笑顔は――
もう、彼女を知らない人のものだった。
夕焼けが夜に溶けていく頃。
桜井とたけるは、校舎裏のベンチに座っていた。
静かに吹く風が、二人の間をすり抜けていく。
桜井は、さっきまでの明るい笑顔を失っていた。
唇を噛みしめながら、ぽつりと呟く。
「……これで、よかったんだよね?」
その声は、どこか自分に言い聞かせるようだった。
たけるは、空を見上げながら静かに頷いた。
「うん。僕が……あと8時間後に消えるって知ったら、
冬菜は、きっと悲しむと思うから。」
桜井は目を見開く。
その言葉が、夜の冷たい空気に溶けていく。
「……本当に、消えちゃうの?」
「うん。時間が経つにつれて、身体が少しずつ“存在”を薄めていく感じがする。
みんなが僕を忘れたのは、その前兆なんだ。」
たけるの声は穏やかだった。
でも、その笑顔の奥には、微かな痛みが隠れていた。
「冬菜には……ちゃんと笑っててほしいんだ。
僕がいなくても、ちゃんと前を向けるように。」
桜井は小さくうつむき、拳を握った。
そして、少し震える声で言った。
「……じゃあ、最後に――私と付き合う?」
風が止まった。
たけるは目を閉じて、少しだけ間を置いた。
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「……ごめん。」
「どうして……?」
「僕には、“冬菜”っていう女の子がいるから。」
その名前を口にした瞬間、
たけるの胸の奥がかすかに熱くなった。
――記憶にはない。
でも、確かに“心”が覚えている。
桜井は驚いたようにたけるを見つめた。
「冬菜……?」
「そう。誰なのかは……思い出せない。
でも、その名前を言うと、涙が出そうになるんだ。」
たけるは小さく笑って、空を見上げた。
夜の星がゆっくりと瞬いている。
「たぶん――僕が、本当に好きだった人。」
桜井は何も言えず、ただその横顔を見つめていた。
彼女の瞳にも、静かに涙が滲んでいた。
風が吹き抜け、夜が少し深くなる。
消えゆく時間の中で、たけるの心だけが、確かに“冬菜”を呼んでいた。
夜の風が吹き抜ける。
冬菜は息を切らしながら、真っ暗な校門を駆け抜けた。
校庭の奥、かすかな光が漏れている。
(たける……そこにいるの?)
脳裏に、遠い記憶が蘇る。
――入学初日。
春の風の中で笑っていた少年の声。
「僕、絶対に冬菜と一緒に卒業する。」
その言葉が、まるで導くように胸の奥で響いていた。
(忘れてない……私も、ずっと覚えてた。)
足が止まる。
目の前、校舎の影から、ひとりの少年が現れた。
「……冬菜!」
たけるの声が、夜を裂くように響いた。
その瞬間、冬菜の涙があふれた。
「――ばか!!」
冬菜は駆け寄って、彼の胸を叩いた。
「なんで私から離れようとするの!?
なんで、一人で抱え込むのよ!!」
たけるは苦しそうに顔をそむけた。
その瞳には、罪悪感と恐怖が混じっていた。
「だめだ……冬菜、離れて!」
「いやよ!」
「近づいたら――君も、僕みたいに消えてしまう!」
冬菜の動きが止まる。
「……え?」
たけるの声が震えていた。
「“思春期出発症候群”は、もう僕の中で限界なんだ。でも、この病気は“想いが強い人”に感染する……。
冬菜が僕に近づいたら、
君まで今日の夜、12時に――消えてしまう。」
冬菜は唇を噛みしめ、涙をこぼした。
「……そんなの、関係ない。」
「関係ある!!」
「私ね、思い出したの。入学した日の約束。」
冬菜は涙の中で微笑む。
胸が痛いほどに熱くなる。
涙が止まらない。
「冬菜……僕、君を守りたかったんだ……」
「だったら、守ってよ!」
冬菜が一歩踏み出す。
「“一緒に消える”ことも、あなたと一緒なら怖くない!」
「だめだ……!」
たけるは後ずさりしながら叫ぶ。
「君だけは、生きててほしいんだ!」
冬菜は首を振った。
「あなたがいない世界なんて、生きてる意味ない!」
夜風が強く吹き、校舎の影が二人の間を揺らした。
その距離は、たった数メートル。
でも――その一歩が、永遠を分ける
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
鳥の声が穏やかに響く。
昨日の夜のことが――まるで夢のように感じられる朝。
たけるは制服の襟を直しながら、鏡の前で軽く笑った。
不思議なほど、身体が軽い。
まるで重荷が全部溶けてなくなったように。
そして、玄関の扉を開ける。
「冬菜! 早く来ないと、遅刻するぞー!」
朝の風に、少年の明るい声が響いた。
少し離れた道の向こうから、慌てたように走ってくる少女の姿。
「待ってよ〜、たける!」
息を切らしながらも、冬菜は笑顔だった。
その笑顔を見て、たけるも自然と笑う。
二人は肩を並べて歩き出す。
いつも通りの通学路。
けれど、その“いつも通り”が、何よりも尊く感じられた。
冬菜は横目で、たけるの横顔を見つめる。
柔らかな光の中で、その姿は確かに“ここに”あった。
(――よかった。本当に、よかった。)
冬菜は胸の奥でそっとつぶやく。
「たけると私が消えなかったのは、
きっと……私の“想い”が強かったから。」
昨日の夜、あの校舎で見た光景が頭をよぎる。
たけるの手を握った瞬間、
あたたかい光が二人を包み、すべてが白く染まった。
“思春期出発症候群”――
人の記憶から消えてしまう不思議な病。
でも、想いの強さが、それを打ち破ったのだ。
冬菜は空を見上げる。
青い空。流れる雲。
そして隣で笑う、彼。
(私の“青春”は、まだ終わっていない。)
たけるが少し前を歩きながら、振り返った。
「なにボーッとしてんだよ、冬菜!」
冬菜は笑いながら答える。
「……なんでもない。ただ、今がすごく幸せだなって思っただけ。」
「なんだよそれ、変なの。」
二人の笑い声が、朝の通学路に響く。
風がやさしく吹いて、制服の袖を揺らした。
――そうして、今日もふたりの時間は始まる。
どんな運命が待っていても、
ふたりの想いがある限り、もう何も怖くない。
「ねぇ、たける……次は“本物の恋”しようね。」
「ああ。今度は、罰ゲームじゃなくて――」
「罰ゲーカップル」――
それは、たったひとつの“本物の恋”の物語だった。