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「31日目の花びら」
彼女を見つけたのは、四月一日だった。
駅前の桜が、まだ咲ききっていない頃だった。彼女は落とした手帳を拾い上げると、表紙についた花びらを指で払った。その仕草が、なぜか僕の一日を変えた。
それから僕は、彼女を見るようになった。
最初の一週間は、偶然だった。
同じ時間の電車に乗り、同じ通りを歩く。彼女はいつも窓側の席に座り、途中の駅で一度だけスマートフォンを見る。雨の日は傘を少し傾ける。右肩が濡れていた。
僕はそれを知っていた。
二週目になると、偶然は予定になった。
彼女が立ち寄る店を遠くから眺めた。ガラス越しに、彼女がスープを飲む姿を見た。何を食べたか、誰と話したか、何時に店を出たか。ノートに書き留めた。
書くたびに、彼女との距離が近づいた気がした。
もちろん、彼女は僕の存在など知らない。
だからこそ、僕だけが彼女を知っていることに価値があると思った。
三週目の月曜日、彼女は駅で誰かを待っていた。
男だった。
男は彼女に手を振り、彼女は笑った。その笑顔は、僕が一ヶ月かけて集めたどの表情よりも明るかった。
僕はその場を離れた。
家に戻ると、ノートを開いた。彼女の行動を書いたページが、びっしりと並んでいる。好きな飲み物。歩く速度。信号を渡る前に一度だけ空を見上げる癖。
けれど、そこには彼女の気持ちは一行も書かれていなかった。
僕は彼女を見ていた。
見ていただけだった。
四週目、彼女は駅に来なかった。
次の日も、その次の日も。
朝の電車に乗り、いつもの道を歩き、いつもの店の前に立った。店員は僕を覚えていたが、何も聞かなかった。
彼女のいない場所は、急に広すぎた。
僕は初めて、自分が彼女を観察していたのではなく、彼女の生活に自分の時間を縛りつけていたのだと気づいた。
五月一日。
一ヶ月前と同じように、駅前の桜は散っていた。
僕は彼女の姿を探した。探しながら、見つからないことを願っていた。
改札の横に、小さな掲示板がある。そこに一枚の紙が貼られていた。
『不審な行動をする人物について、駅員へご相談ください』
具体的な名前はなかった。
それでも、僕には自分のことだとわかった。
彼女は、僕を見ていたのだ。
見られていると感じていたのだ。
僕はノートを閉じた。そこに書かれた一ヶ月分の記録は、思い出ではなかった。彼女の知らないところで、彼女の自由を削っていた証拠だった。
その日、僕は駅員室へ向かった。
自分のことを話すためではない。
もう彼女を探さないために、どうすればいいのかを聞くためだった。
外へ出ると、風が吹いた。
桜の花びらが一枚、足元に落ちる。
僕はそれを拾わなかった。
コメント
1件
うわ、これ、めっちゃ怖いまで美しい話だわ……。「見てたのは自分だけだと思ってたのに、実は見られてた」って構造、鳥肌立った。しかも最後の「拾わなかった」で、初めて線を引いた感が滲んでる。一話完結でありながら、余韻がずっと残る。ゆろさんの筆致、好きです。続きがあるなら読みたいし、これで終わりならそれで完璧だと思います。
ゲスト
26
Sa・-・na (*^^)v
80