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第1話「娘の命。そして……」
雨上がりの空には、薄い虹がかかっていた。
鳥取の春は、まだ少し肌寒い。夜の冷えが残っていて、布団から出るのがつらい。
佐藤門はスマホのアラーム音と共に目を覚ました。
「……寒いな、布団から出たくねぇな」
隣では、娘の飛鳥が少し不機嫌そうに寝ている。
「だよな。寒いと機嫌悪くなるよな……でも、こいつの飯作らねぇと」
うちには母がいない。数ヶ月前、神社に行ったきり行方不明になった。
門はキッチンへ向かった。
キッチンの真ん中に、ぽつんと小さな箱が置かれていた。
木でできた、手のひらサイズの古い箱。雨上がりの湿気を吸ったのか、表面が少し黒ずんでいる。
「……こんなの、昨日あったか?」
門は近づいてしゃがみ込む。触れようとした瞬間、指先が止まった。
バチッ!
強烈な痛みが走った。
「痛って!静電気かよ。まあ、そういう季節だしな」
門は箱をゴミ袋に詰めた。
「なんか気味が悪いし、今日出しとこう」
ゴミ袋の口を縛った瞬間、咳が出た。
ゴホッ、ゲホッ!
「……もうマジでこの季節嫌いやわ、寒いし静電気起きるし風邪ひくし」
ゴミ袋を放り投げ、台所に立った。そしてお米を炊いた。
その時、声が聞こえた。
オジサン……タスケテ……
「ああ、仕事の疲労で幻聴聞こえてる」
門はそう言いながら炊飯器のスイッチを押した。
だが胸の奥がざわつく。さっきの声は、疲れた大人の幻聴にしては、あまりにも“はっきり”していた。
オジサン……タスケテ……
思い出そうとすると喉がひりつき、また咳が出る。
「寒気もするな」
熱を測ってみた。
「三十六度五℃」
平温だった。
「あれ、絶対熱あると思ったのに」
そこへ娘が起きてきた。
「お父さん…ゴホッ、風邪っぽい……」
飛鳥は目をこすりながら、ふらふらと門の足元に寄ってきた。
顔色が少し白い。でも、熱はなさそうだ。
「お前もか。とりあえずお粥とサラダ作ってるから食べたら病院行こう」
「うん」
門はテーブルに皿を並べた。
「お父さん、塩…かけてもいい?」
「ダメ、風邪悪化するよ」
すると飛鳥は急に顔を赤らめて必死になった。
「嫌だ!なんでか分からないけど…塩を取らないといけない気がするの」
門は驚いて目を丸くした。
「バカな妄想はやめろ!」
「だったら…お父さんの日本酒を……」
飛鳥は日本酒のビンを両手で重そうに持つ。
「ダメ!二十歳未満はダメだ!」
門は慌てて酒を取り上げた。
(飛鳥の変な行動……まさか!インフルエンザか。あれ変な動きするっていうしな)
「……飛鳥、食べたら病院行くぞ」
飛鳥はスプーンを持った。だが手が震えている。
「なんか、寒気がする」
「俺もだ」
「あと夜中、目が覚めたら黒い男性のようなものが乗っていて動けなかった。金縛…りなのか?」
「心配するな、それは睡眠麻痺だ。横向けで寝れば改善する」
飛鳥は震える指でスプーンを握りしめたまま、視線を落とした。
「……でも、あれは夢じゃなかった。息がかかるみたいに……重くて……」
「入眠時幻覚だね、簡単に言うと睡眠に失敗して現実のようなリアルなのが見えるんだよ。例えば自分の部屋を目を閉じたまま見えたり……」
「そんなのじゃない、もっと……こう…」
「さっさと食べてさっさと病院行くぞ」
(正直……異常なのは分かってる。けど…科学以外信じたくない)
飛鳥はゆっくりとスプーンを口に運んだ。だが手はまだ震えている。
門はコートを掴み、玄関へ向かおうとした。
ピンポン!
「ごめんください」
「はーい」
門は扉を開けた。
「こんにちは。私は観音院の住職です」
門は反射的に返事をした。
そして何も考えずに扉を開けてしまった。
冷たい外気が流れ込み、門の頬を撫でた。
「こんにちは。私は観音院の住職です」
「……何の用だ、忙しいんだ早くしてくれ」
「ご失礼いたしますが、お宅から邪気がだだもれで。中へ少し入れていただけないでしょうか」
「うるさい、風邪菌かウイルスの間違えだろ!非科学的なことを話すな」
門は乱暴に戸を閉めた。金具がガチャンと鳴り、家の中に重い静寂が落ちた。
飛鳥は椅子の上で小さく震えている。
「……お父さん……」
門は深呼吸し、自分を落ち着かせようとした。
「科学が全て、科学が全て……」
自分に刻み込むように唱えた。
コン……コン……
「おーい、いれてください」
門はブチ切れた。
「もういい、警察呼んでやる!」
門がスマホをタップするとき、住職は荒い息で困った声を出した。
「娘さんが危ないんです」
「なぜ知っている。危ないから病院に連れて行くんだろ普通」
住職はもう、分かってもらえないと確信した。
そしてその場を去った。
「……キクの花買お」
住職の足音が遠ざかり、玄関の前は再び静かになった。
門は深く息を吐いた。
「……ったく、なんなんだよ。邪気?霊?ふざけんな」
そう言いながらも、胸の奥のざわつきは消えなかった。
飛鳥は食べ終わっていた。
「ごちそうさまでした」
「行こうか」
玄関を出た時、体が軽くなった。
「お父さん、なんか急に体調よくなった」
門は一息ついた。
(やっぱ霊障じゃなかったか)
「免疫細胞が頑張ってくれたんだね。でも念のためいこっか」
「そうだね」
――病院にて。
「検査しましたが特に異常なしですね、明日にはよくなるでしょう」
医師の言葉に、門は肩の力が抜けた。
「良かったね」
飛鳥も小さく笑った。
「うん……よかった……」
二人は病院を出た。夕方の光が差し込み、さっきまでの寒気が嘘のように消えていた。
門は胸を撫で下ろした。
(やっぱり……全部気のせいだったんだ。睡眠麻痺と風邪の前兆。それだけだ)
そう思い込むように、門は深く息を吸った。
「帰ったら温かいもの食べような」
「うん」
二人は並んで歩き出した。
家に戻り、簡単な夕食を済ませた。
飛鳥は病院で言われた通り、薬を飲んで布団に入った。
「おやすみ」
「…うん、おやすみ」
門はリビングに行き、日本酒を手に取った。
「ふう、気分いいな。」
門は三時間酔い続けた。
「あ、ゴミ出し忘れてた。まあいっか」
すると、突然悲鳴が聞こえた。
ギャアアアア!タス、ケテ。
「強盗か!?」
酔いが一瞬で吹き飛ぶ。
門は廊下を走り、飛鳥の寝室のドアを乱暴に開けた。
「飛鳥!大丈夫か!」
飛鳥は床に倒れていた。目は閉じ、呼吸は浅い。
「おい、大丈夫か!?」
肩を揺さぶっても反応がない。
そのとき――門の視界の端に“それ”が映った。
飛鳥のすぐ横に、あの箱が置かれていた。
朝、ゴミ袋に入れたはずの箱。
門は震える声で呟いた。
「なんで……ここに?いや、そんなことより救急車を呼ばないと」
――そして。
「……残念ながら、死亡しています」
医師の声は淡々としていた。
門は理解できなかった。
「……なんで……さっきまで……普通に……」
世界が、音を失った。