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焼きたてのトーストの香りと、
妹・美音の眠たげなあくび。
「お兄ちゃん、今日の目玉焼き、ハート型じゃない?」
「……ただの失敗だ」
海外赴任中の両親の代わりに
家を守るのが、もう当たり前になっていた。
ただ、クラスのみんなには
この生活のことを何一つ話していない。
だから――
学校でさやかが突然こう言った時、
心臓が跳ねた。
「ねぇ神崎くん。
今日、放課後あなたの家に行っていい?」
秘密だらけの日常が、
今日から大きく揺れ始める――。
チャイムが鳴った瞬間、
教室のざわめきが一気に膨らんだ。
窓際の席からそっと立ち上がった俺の背後で、
さやかの声が響く。
「じゃあ、約束どおり神崎くんちね!」
周囲が「え?」「家?」とざわつく。
心臓が嫌な音を立てた。
——なぜ放課後、
よりによって俺の家に来たいなんて言ったんだ。
「いや、その……部活とかあるだろ」
「今日は休み。ほら、私、家庭科の課題もあるし!」
にこりと笑うその顔は、
押しも引きもしない完璧な“決意”の笑顔だった。
逃げ道は、なかった。
家の前まで来ると、
さやかは興味津々といった様子で玄関を見回した。
「わぁ、神崎くん家って想像より広いんだね」
「普通だ。……あんまり騒ぐなよ」
靴を脱ぐとき、
妹の美音の声が奥から聞こえてきた。
「お兄ちゃん、おかえり……えっ」
美音の瞳が一瞬で驚きに染まる。
さやかはすぐに頭を下げ、
満面の笑みで自己紹介をした。
「初めまして! 渉くんのクラスメイト、白石です!」
美音は小さく会釈しながらも、
視線をそらした。
そのわずかな仕草に、
胸がざらつく。
リビングで課題の布を広げるさやか。
横でお茶を出す美音。
その空気は、どこか張りつめていた。
「神崎くんって、料理もできるし家もきれいだし、
お兄さんとして完璧なんだね」
さやかが何気なく放ったその言葉に、
美音がほんの一瞬だけ眉を寄せた。
気づかれないように俺は
キッチンの奥で深呼吸する。
——秘密が多すぎるこの家に、
新しい風が入り込んできた。
それが良いことなのか、
まだわからない。
けれど、
この放課後を境に
俺たち三人の“日常”が揺れ始めたことだけは、
はっきりと感じていた。
――美音視点――
放課後の教室。
兄・渉とさやかが小声で話しているのが耳に入った。
さやかの笑顔は柔らかいけど、どこか遠い。
兄はその距離を埋めたくて、
不器用に言葉を重ねている。
「好きって言葉、簡単じゃないから」
兄のその一言に、私の胸もざわめいた。
恋を怖れる兄。
だけど、その目はもうさやかしか見ていない。
――さやか視点――
文化祭の準備。
渉が段ボールを抱えながら笑った。
「これ持つよ」
その何気ない一言に心が温まる。
ストーカー被害に怯えた過去。
怖さは消えていない。
でも渉の手の温かさに、
“もう一歩進んでもいいかも”と
初めて思えた。
――美音視点――
部屋で見つけた一枚の写真。
兄がさやかと笑って映っていた。
ただの文化祭スナップ。
なのに心がざわつく。
二人の絆が、家族とは違う形で
静かに育っているのを
私は確かに感じていた。
――渉視点――
「映画……行ってみない?」
勇気を振り絞った。
さやかが驚いたあと、
「うん」と小さく微笑む。
スクリーンの光よりも
その笑顔の方がずっと眩しくて
言葉を忘れた。
――さやか視点――
映画の帰り道。
街灯の下で、過去を話した。
「昔……怖い目に遭って」
声が震える。
渉は黙って私の手を握った。
「大丈夫。俺がいる」
その一言で、
胸の奥の氷が少しだけ溶けた。
――美音視点――
兄がさやかを家に連れてきた。
母の作るカレーの匂いが
不思議とあたたかい空気を作る。
“怖い世界”を知っているさやかが
笑って食卓を囲んでいる。
それだけで、
世界が少し優しくなる気がした。
――渉視点――
夜の帰り道。
街の明かりが遠くに滲む。
「さやか」
呼ぶ声が震える。
「好きだ」
その瞬間、
さやかの瞳が涙で揺れた。
「私も……好き」
世界が音を失ったみたいに静かで
二人の鼓動だけが響いた。
――さやか視点――
恋人になって初めての休日。
手をつないで歩く。
ただそれだけで胸が高鳴る。
過去の恐怖を思い出しても、
渉の隣なら前を向ける。
この“普通”こそが奇跡だと
心の奥で噛みしめた。
――美音視点――
二人が幸せそうに笑うたび、
私は嬉しさと同時に
言い知れぬ不安を覚える。
兄がいつか家を出る日。
その未来が怖かった。
でも同時に、
兄の選んだ幸せを
私も応援したいと強く思った。
――渉視点――
大学進学の春が近づく。
離れ離れになる前の夜、
公園でさやかを抱きしめた。
「これからも一緒に未来を作ろう」
さやかが頷く。
街の光がふたりを包み、
新しい季節が静かに始まった。
――美音視点――
兄は都心の大学へ、
さやかは地元に残った。
それでも二人は
週末のビデオ通話で
笑顔を交わし続ける。
距離はただの数字に過ぎない――
その強さに、私は胸を打たれた。
――渉視点――
社会人三年目の冬。
イルミネーションが街を染める夜、
小さなケースを握りしめた。
「さやか、これからも一緒に歩きたい。
家族になってほしい」
指輪が街の光を映す。
さやかは涙を浮かべ、
「はい」と笑った。
――美音視点――
白いチャペルに柔らかな音楽が流れる。
兄とさやかが指輪を交わす瞬間、
二人のこれまでの季節が
一気に胸にあふれた。
「おめでとう」
私の声に兄が微笑む。
“家族”という言葉が
静かに、でも確かに
新しい形に縫い直された。
――物語は終わらない。
未来へ続く糸は、
今日も光を放っている。