テラーノベル
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その夜。
シェアハウスの廊下は、
いつもより静かだった。
雨も降っていないのに、
空気が重い。
リビングのソファ。
そこに、
こさめと、
いるまがいた。
他のメンバーは、
気を遣ったのか、
誰も来なかった。
「……さっきは」
こさめが、
小さく言った。
「……ありがとう」
いるまは、
少しだけ肩をすくめた。
「……別に」
ぶっきらぼうな返事。
でも、
帰ろうとはしなかった。
隣に、
座ったまま。
沈黙。
時計の音だけが、
聞こえる。
「……いるま」
「……なに」
「……話してもいい?」
その声は、
震えていた。
いるまは、
少しだけ、
こさめを見た。
そして、
短く言った。
「……うん」
それだけ。
「話せ」とも、
「無理するな」とも言わない。
ただ、
ここにいる、
という返事だった。
「……ぼくね」
こさめの手が、
ぎゅっと、
自分の服を握る。
「……ずっと」
「……」
「殴られてた」
空気が、
止まる。
「……最初は」
「……」
「普通だったの」
「……」
「でも」
息が、
少し乱れる。
「……お母さんがいなくなってから」
いるまの指が、
わずかに動く。
でも、
口は挟まない。
「……変わった」
「……」
「ぼくを見るたびに」
「……」
「怒るようになった」
こさめの目から、
涙が落ちる。
ぽたり、
ぽたりと。
「……なんでかわからなかった」
「……」
「ぼく、ちゃんとしてたのに」
「……」
「いい子にしてたのに」
声が、
崩れる。
「……でも」
「……」
「殴られるとね」
少し、
笑った。
壊れた笑顔。
「……だんだん」
「……」
「ぼくが悪い気がしてきた」
いるまの奥歯が、
強く噛み締められる。
「……ぼくが」
「……」
「いるから」
「……」
「ダメなんだって」
消えそうな声。
「……だから」
「……」
「逃げた」
「……」
「でも」
涙が、
止まらない。
「……追いかけてきた」
「……」
「さっきみたいに」
こさめは、
俯いた。
「……怖い」
本音。
隠していた、
一番の本音。
「……また」
「……」
「連れて帰られるんじゃないかって」
そのとき。
そっと、
手が触れた。
いるまだった。
今度は、
テーブルの下じゃない。
ちゃんと、
見える場所で。
こさめの手を、
握った。
「……大丈夫」
小さな声。
「……っ」
こさめの目が、
見開かれる。
「……絶対」
いるまの声は、
震えていなかった。
「守る」
たった一言。
でも、
それは、
今まで誰も言ってくれなかった言葉だった。
「……なんで」
こさめが、
泣きながら聞く。
「……」
「なんで」
「……」
「そんなこと言えるの」
いるまは、
少しだけ、
困った顔をした。
「……わかんねぇ」
正直な言葉。
「……でも」
少しだけ、
手に力を込める。
「……消えてほしくない」
心臓が、
止まりそうになる。
「……ここから」
「……」
「いなくなるの」
「……」
「嫌だ」
それは、
初めての、
独占みたいな言葉だった。
こさめの涙が、
止まらなくなる。
「……いるま」
名前を呼ぶ。
いるまは、
逃げなかった。
こさめは、
ゆっくり、
いるまの肩に、
額を預けた。
拒否されなかった。
いるまも、
少し迷って、
それから、
こさめの頭に、
手を置いた。
撫でる。
ぎこちなく。
でも、
確かに。
「……もう」
こさめが、
小さく言う。
「……ひとりじゃない?」
いるまは、
迷わなかった。
「……うん」
その瞬間、
こさめの中で、
ずっと張り詰めていた何かが、
静かに、
ほどけた。
この場所で、
初めて、
本当の意味で、
泣いた夜だった。
そして、
いるまの中にも、
初めての感情が、
はっきりと形になっていた。
守りたい。
この壊れた少年を、
自分の手で。
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