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「九時半……」
正しくは二十一時半。
夜に染まった空の下、華やかな光を放つ歓楽街に清心は来ていた。
昼間の件がまだ胸に引っかかっているが、今は白露のことに集中したい。努めて忘れようとした。
駅から離れた裏路地を歩く間、これからホテルへ行きそうなカップルと何組もすれ違った。自分も以前は彼らと同じ。寧ろよっぽど本能に従順で、性に奔放だった。
「ん?」
ポケットの中の振動に気付き、スマホを取り出す。着信がきてるので通話に出ると、
『もしもし! 悠、今から店に来ることできる?』
ゲイの知り合い、翔真からだった。
騒がしい音楽が通話口から聞こえてくる。どうやらバーにいるみたいだ。
「今から? 悪いね、俺今日はそんな気分じゃなくて……」
何より、今は白露に会いにいかないといけない。そう思ってやんわり誘いを断ろうとしたが、溜息まじりの低い声が聞こえてきた。
『そっか、困ったなぁ。匡君覚えてる? 前に悠がお持ち帰りした子。あの子が今日も来てるんだけど、何か具合悪そうなんだよ。だから早く帰れって言ってんだけど、……お前が来るまで帰らないって言い張ってんの』
「は……はぁ?」
匡は確かに、以前バーへ行った時に一度だけ寝た青年だ。人形のように綺麗な、整いすぎて怖いぐらいの美青年。
しかしそれより印象に残っているのは、とにかく無気力ということ。常に半分頭が寝てるような青年。それが彼。
電話番号を交換したものの、あの夜から一度も連絡を取ってない、セフレとも言い難い関係。なのに何で、そんな突拍子もないことを言ってるんだか。素直に疑問だった。
『悠ー、やっぱ来られない?』
翔真の困ったような声が鼓膜に張り付く。
交差点へ向かおうとしていた……清心の脚は、逆方向へ回る。
「……今から行く」
溜息を飲み込み、スマホを電話を切った。
断ろうと思えば断れたのに、口は心と正反対の言葉を紡いだ。
正直な話、匡の顔も忘れかけている。「綺麗だった」ことしか覚えてなくて、似てる芸能人の顔に例えることもできない。
それでも気になる。匡はきっと善人でも悪人でもない。
空っぽなんだ。ふらふら、ふわふわと漂いながら生きている。突き飛ばせば簡単に骨折してしまいそうな青年だ。
だから余計に世話を焼いてしまうのかもしれない。
重たかった脚はやがて軽やかに前へ進み、夜の道を駆け抜けた。