『回遊者は、自由の舞台で』
手は手の針、顔は鈍器そのもので、
あるか。方舟で、あるか。
目が衰えれば他のものが優れる
深海だと使い方次第で、強者に。
石を拾うのが好きだった、よく気に入った石を手に握りめたり、ポケットに突っ込んだり、未だに学校帰りや、何処に出かける時、気に入った石を見つけては手に握りしめ、洗面場である程度の汚れを落とし、タオルやテッシュで拭く、そして飾ったり、コレクションの仲間入りをしている。しゃがめば、地面には石がある、よく目を凝らせば面白い表情をしている、形、色、触り心地、珍しさ、平凡さ、特有の魅力に飲み込まれるで、
あるか。
薬指は薬であるが掻き回すには程遠い状態、支離滅裂、矛盾で形成された物を語りと呼ぶには、少し、いや、とてもじゃないが当てはまらない、話が変わるがノアの方舟はご存知か?方舟はあるかである、どうせ調べもしない輩であるから教えてやった。無知は罪、それは御尤も、そう無知は罪である、言葉通りである、知らぬならば調べれば良いものを、知ろうとすればいいものを、どうしても理解または、意味が分からないならば、気軽に聞いてしまえば良いものを、君達にはそんな言葉が無いであろうな、何故ならば「無知」であるから、ここは何処か知っているか、闇でしかない自由の舞台、君達には見えるものがある、「回遊者」には見えないもの、見えないと言葉を聞くと「自由」の舞台では無いかと疑問にするのを前提に、話をさせてくれ。確かにぱっと考えて見れば自由には程遠い状態である、目が見えない不便さ、本が読めないのは当たり前であるが、満足に運動いや、歩くのも困難かもしれない、いや、一人では不可能であろうな、どんなに空間認識能力が良くても無理である、人間という生き物は五感が無ければ生きれるのは数日程度。何故、五感が無いとあまり生きれぬことを知っているか?それは簡単、昔に聞いた事があるのだ、ここで一つ訂正をしたい五感が無ければ死ぬと言ったが、実を言うとそうでは無い、何故死ぬという言葉を使ったか、それは生きながらに死んでいる、例えるならば、「脳死」に近い脳死は目を覚ます事は無いが、五感が無くなっても目を開けることは出来るがそこには何も見えない、暗闇のみである、自分が起きているのか、寝ているのか分からず、ずっと独りで話す、通称独り言で気を紛らすことは出来ない、声が出たとしても、聞こえないのだから、脳をフルで使って人格を作り会話をすれば紛らすのは可能かもしれない、だが、やはり心はゆっくり確実に、死んでゆくのだ、そして体も。見えないから自由の舞台がある、見えるから無い物、見えないから気にしない、見えてしまうから気にする、見て聞こえるから気にする、見えないが聞えるが気にする必要はあまり無い、精神の自由、周りの目を無くて済むということは素晴らしいことであるのだ!期待は無価値でしかない、頑張れと言われれば何故頑張らないといけないという疑問が浮かぶ、頑張れと言われるたびに「頑張らない」と答えているのに何故わざわざ「頑張れ」と言う、嫌がらせか?それとも皮肉か?。自分にしか見えない物、得体のしれないものを人は否定または批判か、軽くあしらう、真に受けるか受けないか、どちらにせよ、ナイフで腹を抉るか、刺す行動で、あるか。足は鎖、脳は無に脳で、心臓は健全者、肺は煙であり、腸は全てで、あるか。方舟は犠牲、要らぬ者、いる者、要らぬ者、ゴミをポイ捨てする必要がある。深海に、ロウソク灯す、回遊者、瞳を閉じて、自由の舞台。この濁り腐った世界は素晴らしき世であるか。ロウソクが無ければ見づらい、鳥目だと見えないだろう、ロウソクがあれば生きやすい、ロウソクが無ければ、周りが自分が見づらい、見えない生きづらいで、あるか。犠牲は付き物それは、そうだ、ならば自分を、体を犠牲にする、いや、進化だ退化じゃない。回遊者は、自由の舞台で、深海魚頭に発光する物つけて回る游ぶ、見えない目は進化。ロウソクを灯して、照らして、齧り付く、異常じゃない、刹那、君に疑問と不明が纏わりつく、切り取る、良い所だけ見ない、このせかいはしんじつ、このせかいは?しんじつ?しんじつ、このせかいは。切り取れば人生十つ。僕の思い出、嫌な思い出、楽しかった悲しかった、嫌だった好きだった、笑った泣いた、憎んだ嫉妬に溺れた、欲に溺れた、手を伸ばして彗星の隣、春の彗星の隣に、手を伸ばして、手を開いて閉じて。両手を合わせて、薬指と小指を折り曲げて手の内側にしまう、中指を人差し指に引っ掛ける、その状態を維持したまま、手が痛くなるまで壁や机に、打ち付ける、これで終わりだ、やってみてくれたまえ、次の文書を読む前にやってくれ。大丈夫だ、これをしたからって呪われること何か無い、安心したまえ。今話したのはエジプト中王国時代にあったとされる、まじないのやり方だよ、ある時期にぽっと出てきてそこから広まったとされている、効果などそうゆうのは一切わからない、さて、ここから話すのはただの戯れ言だと思ってくれてもいい、このまじないはエジプト中王国時代に出たのは間違いない、だが、古代ドルイドたちの儀式図に、これと全く同じ仕草をしたものがある、この意味は私達は神の生贄である。神の生贄系には対処しようがない、やってしまった人は諦めてくれたまえ、誰のせいでもない、しいて言えば自業自得、君のせいだ。さて、見えると見えない、死ぬのがバットエンドそれが常識のように成りかけているが、死ぬのがハッピーエンドであるのだよ、快楽は見えることで出来ること、欲に飲み込まれて、衝動に任せて、回遊者、海の最深部で、あるか。ノアの方舟は実は、深海に沈んでいる未来があるかもしれない。ノアの方舟、犠牲は付き物なんだ。
進化は「見えない」
このせかいは『しんじつ』
快楽、「見えてしまう、見える」
このせかいは『うそ』
回遊者は、自由の舞台で、あるか?。
階段の先には何が見える?回遊者は、自由舞台で、あるか?
繋がりのない世界、静寂で健全者は、果たして本当に、健全者で、あるか?敷かれたレール、外れてしまえば、バケモノを見る目、見えないならば「深海に、ロウソク灯す、回遊者、瞳を閉じて、自由の舞台」が当てはまるだろうか。まさに、あっぱれ見えないものは見えない、聞こえないものは聞こえない、五感が無ければ繋がりなんか、理解不明。探求それは、恋だ、無我夢中に突き進めば愛となる。このせかいはしんじつか?
冒進、探求に恋した
くる光は嘘だ
瞳を閉じて舞台に、退化じゃない、進化だ
灯すそれはロウソクを
独りではないのは、それは、しんじつ
じゃない、退化じゃない
冒進、回遊者になれば見えるか?
苦じゃない
だけ。
夢じゃない、妄想じゃない
「回遊者はロウソクを灯す」から
このせかいはしんじつ。
人生十つ。
十に色がつく。
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