テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
実験当日の朝。
施設全体が異様な静けさに包まれていた。
研究員たちは忙しく行き来し、大型モニターには実験データが映し出されている。
その中心に記されていた文字。
融合実験 Phase-1
被験体 No.0124
朔水はまだ何も知らなかった。
白い部屋で、窓のない壁を眺めている。
ガチャ。
扉が開いた。
博士だった。
今日は珍しく、トレーの上に朝食だけではなく、小さな包みが載っている。
「父さん?」
博士は辺りを確認し、小さく微笑んだ。
「誰もいない。」
その言葉だけで、朔水は安心したように笑う。
「父さん!」
博士は頭を撫でた。
「今日は……その呼び方でいい。」
朔水は嬉しそうに博士へ抱きついた。
「どうしたの?」
「今日は優しい。」
博士は答えない。
代わりに包みを差し出した。
「開けてごらん。」
中には、小さな黒い狼のぬいぐるみが入っていた。
手のひらに乗るほどの大きさ。
「かわいい!」
朔水は胸へ抱き寄せる。
「これ、ぼくの?」
「ああ。」
「今日だけは持っていていい。」
朔水は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう!」
その笑顔を見て、博士は胸が締め付けられる。
(……最後になるかもしれない。)
そんな考えを振り払うように、朔水の頭をもう一度撫でた。
午前十時。
地下実験室。
巨大な装置が低い音を立てて動いている。
理事長がゆっくり立ち上がる。
「被験体No.0124を搬入。」
朔水は研究員に連れられて歩いてくる。
博士を見つけると、小さく笑った。
「父さん。」
理事たちの視線が一斉に博士へ向く。
博士は苦しそうに目を閉じる。
「……No.0124。」
その一言だけで、朔水は笑顔を消した。
それでも博士が困ると思ったのか、小さく頷く。
「……はい。」
その返事に、博士の心は引き裂かれそうだった。
金属製の台へ横になる朔水。
手首と足首が固定される。
「父さん。」
「すぐ終わる?」
博士は嘘をつけなかった。
黙っているしかない。
朔水は少しだけ不安そうな顔になる。
「怖い。」
123
Smile
14,812
264
16
「……。」
「終わったら。」
「絵本、読んで。」
博士はゆっくり頷く。
「ああ。」
「約束だ。」
実験開始。
「遺伝子注入。」
透明な液体がゆっくり体内へ流れ込む。
最初は何も起きなかった。
数秒後。
「っ……!」
朔水の身体が大きく震える。
「痛い……。」
背中が弓のように反る。
「熱い!」
モニターの数値が急上昇する。
「適合開始!」
研究員が叫ぶ。
その瞬間だった。
「うああああああぁぁぁっ!!」
絶叫が地下施設中へ響く。
骨が軋む音。
筋肉が膨張する。
朔水は何度も身体をよじる。
「父さん!!」
「助けて!!」
博士は一歩前へ出た。
「中止だ!」
理事長が叫ぶ。
「止めるな!」
「成功率が上がっている!」
「しかし!」
「このままでは!」
博士は叫ぶ。
「この子が壊れる!!」
だが理事長は冷たく言い放つ。
「被験体だ。」
「壊れたら次を探せばいい。」
その一言で、博士の中の何かが切れた。
「……貴様。」
白衣の胸ぐらを掴む。
「人間だ!」
「この子は!」
「朔水は、人間なんだ!!」
研究室が騒然となる。
研究員たちが博士を取り押さえる。
「先生!」
「落ち着いてください!」
その間にも実験は続いていた。
「ぁ……あ……。」
朔水の呼吸が乱れる。
頭から、黒い髪の間を突き破るように灰色の狼耳が現れた。
「耳が……!」
研究員が叫ぶ。
続いて、腰の辺りから太く大きな尻尾が生え始める。
ふわりとした毛並み。
だが、その変化は美しいものではなかった。
皮膚が裂け、血が流れる。
朔水は涙を流しながら叫ぶ。
「痛い!」
「父さん!」
「助けてぇ!!」
博士は拘束を振りほどいた。
一直線に朔水の元へ駆け寄る。
「朔水!」
理事長が怒鳴る。
「先生!」
「実験中だ!」
「知るか!!」
博士は初めて理事長へ怒鳴り返した。
「私には研究より大切なものがある!」
朔水の手を強く握る。
「父さん……。」
「ここにいる。」
「離れない。」
「だから頑張れ。」
朔水は泣きながら博士の手を握り返す。
「……うん。」
その瞬間。
モニターの警報音が止んだ。
研究員が画面を見つめる。
「安定……?」
「適合率九十八パーセント!」
「成功です!」
部屋中が歓声に包まれる。
だが博士だけは笑わなかった。
目の前には、息も絶え絶えになった朔水がいる。
狼耳と尻尾を生やしたまま、静かに眠っていた。
博士はその小さな身体を抱き寄せる。
「……よく頑張った。」
震える声で囁く。
「お前は、本当に強い子だ。」
その夜、誰もいない病室で博士は眠る朔水の手を握り続けた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「約束する。」
「もう二度と、お前を一人で苦しませない。」
しかし博士はまだ知らない。
理事会が次に計画していたのは、狼の実験よりもさらに危険な――鮫との融合実験だった。
朔水の運命は、まだ終わってはいなかった。
コメント
1件
第六章、読み終わりました……胸がぎゅっとなりました。博士が「父さん」と呼ばせて、ぬいぐるみを渡す優しさと、その後の実験の痛々しさのギャップが堪らなかったです。朔水くんが「痛い」「助けて」と叫ぶシーンは、読んでいるこちらまで息が苦しくなりました。それでも博士が「研究より大切なものがある」と理事長に怒鳴り返したところ、震えました。ラストの「約束する」の言葉に、もう涙が出そう。でも次に待つ鮫との融合実験が気掛かりです……朔水くんをこれ以上苦しめないでほしい、と心から願っています。