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4月の新学期。桜の花びらが舞う中、すちは新しい教室に足を踏み入れた。高校二年生。教室のざわめきと窓から差し込む陽の光が、新しい日々の始まりを告げていた。
「あ、すち! 後ろの列らしいよー!」
「うん、ありがと」
荷物を持って自分の席に向かいながら、すちは何気なく教室を見渡した。名前も顔も知らない生徒がたくさんいて、それぞれが新しい友達との会話に花を咲かせている。そんな中――
その一角だけ、まるで空気が違っていた。
最後列、窓際の席。カーテンが半分だけ引かれていて、その内側にひとりの生徒がいた。小柄な体を机に寄せ、光を避けるようにうつむいてノートに目を落としている。
「……あの子、なんであんなとこに?」
まるで、世界から自分を遮断しているようだった。
昼休み。クラスメイトと昼食をとっている最中、すちは思い切って問いかけてみた。
「ねぇ、あの窓際の……みことって子? なんであんなにひとりなの?」
「え、あー……あの子、たしか病弱で日光アレルギーってやつらしいよ?」
「日光アレルギー?」
「うん。外に出ると皮膚とか目がやばいとか。前のクラスの子が言ってた。体育もずっと休んでたんだって。」
「へえ……」
すちは再びその席に目をやった。みことは、弁当も食べず、ただ静かに教科書を読んでいた。誰とも話さず、まるでそこに“いない”ような存在。
けれど、どうしても目が離せなかった。
放課後。教室にはもう誰もいなかった。すちが筆箱を忘れて取りに戻ったとき、教室の奥からかすかな物音がした。
カーテンの向こう。まだみことが残っていた。
「……ねえ、みことくん?」
彼は驚いたように顔を上げた。透き通るように白い肌と、くすんだ瞳が、微かに揺れた。
「……なにか?」
「いや、ごめん。筆箱忘れてさ。でもさ、なんか……」
すちは少し迷ってから、率直に言った。
「ずっとひとりでいるの、寂しくない?」
みことはしばらく黙っていた。けれどやがて、小さな声で答えた。
「……慣れてるから、平気だよ。」
その言葉に、すちは胸の奥がぎゅっと痛くなった。
翌日。すちは放課後、ある決心をして美術部の部室に向かった。部員がほとんどいない部活で、静かな空間が好きだった。でも今日は、違う目的があった。
「……ねぇ、みことくん。ここ、暗いけど。落ち着く?」
突然呼び出され、きょとんとした顔のみこと。部室の中は陽の光を遮るすだれとカーテンが引かれ、穏やかな照明が柔らかい陰影を作っていた。
「うん……。ここなら、大丈夫そう。」
「よかった。あのさ……ちょっとお願いがあるんだけど」
「なに?」
「君を、描きたいんだ。」
みことは目を丸くしてすちを見つめた。
「……僕を?」
「うん。俺、美術部でさ。人を描くのが好きなんだけど……君、光のない場所で綺麗に見える。儚くて、でもちゃんと生きてる。なんか……ちゃんと残しておきたくなった。」
みことはしばらく黙っていた。けれど、やがて静かに頷いた。
「……いいよ。」
その日から、ふたりだけの放課後が始まった。
みことはモデルとして静かに座っていた。すちはキャンバスに向かい、何度も彼の輪郭をなぞる。沈黙は、なぜか心地よかった。時折交わす会話が、少しずつみことの心をほどいていった。
「……ねえ、すちって、不思議。」
「またそれ言うの?」
「うん。だって……こんなふうに誰かと話すの、久しぶりだから。」
「俺も、君と話してると、心が落ち着くよ。」
「……そっか」
みことはほんの少し笑った。その笑みは、今にも崩れてしまいそうなほど壊れやすく、それでも確かにあたたかかった。
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日が傾きはじめると、校舎の一角はオレンジ色に染まる。
だが、美術室の中はその光を遮るように、すだれと厚手のカーテンがぴたりと引かれていて、外の喧騒から切り離されたような、静かな空間だった。
すちはキャンバスに向かい、みことの輪郭を描いていた。
逆光の差さないこの部屋では、光と影の境目が曖昧で、みことの姿は柔らかく空気に溶けるようだった。
「……眠くなってきた」
モデル台に座ったみことがぽつりと呟いた。
「まぁ、こんなに静かだもんね。寝てもいいよ?」
「……え、でも絵……」
「だいじょうぶ。寝顔も描いてみたかったんだ」
冗談交じりのすちの声に、みことが小さく笑った。
「すちって……へんなの」
「褒め言葉として受け取るよ」
みことは少しだけ目を閉じた。ほっそりとした指が膝の上で重なり、呼吸が静かに深くなっていく。
すちはその様子を目に焼きつけるように、そっと筆を走らせた。
「……ねえ、すち」
「ん?」
「人って、あったかいものなの?」
「……急に、どうしたの?」
「僕……家でも、誰にも触られないから。怒られるときも、ただ言葉だけで。手も、声も、冷たいのが普通だったから……」
言葉はさらりと語られたが、その向こう側にあるものを、すちは理解していた。
すちの手が、そっとみことの手に触れる。
指先はひんやりとしていたけれど、それでもみことは拒まなかった。
「人はあったかいよ。少なくとも、俺は。……触れてもいい?」
みことはほんの少しだけ間を置いて、小さく頷いた。
すちは手をそっと握った。自分の体温がみことに伝わるように、力を込めすぎず、けれど離れないように。
「……すちの手、あったかい」
「みことが冷たいだけなんじゃない?」
「ちがうよ……すちが、ちゃんと……生きてるって感じがする」
その一言が、すちの胸に深く沁みた。
ある日、いつものように部室で絵を描いていると、突然みことが言った。
「ねえ、すち」
「ん?」
「僕……絵の中で、外に出てみたい」
「……外に?」
「本物の空じゃなくていいの。すちの描く、空と、太陽と……その下で、笑ってる僕。……見てみたい」
しばらく黙っていたすちは、ゆっくりと頷いた。
「じゃあ……仕上げは、太陽の下の君を描くよ」
みことは少し目を伏せた。
「きっと眩しくて、目を開けられないけど……」
「いいよ。俺が描く君は、目を細めてても、ちゃんと笑ってるから」
10月、秋が始まりかけの午後。絵が完成した。
キャンバスには、青く抜けた空と、白い雲。その中心に、光を浴びながら、こちらを向いて微笑む少年――みことが描かれていた。
「……こんなの、僕じゃないよ」
完成した絵を見た瞬間、みことの声が震えた。
「でも……ありがとう。……こんなふうに笑ってみたかった」
ぽたぽたと、涙がこぼれ落ちた。
「すち。ありがとう、ほんとうに。……生きてて、よかった」
その夜、みことからすちにメッセージが届いた。
「すちの絵の中みたいに、ちょっとだけ外に出てみたいと思った」
「すちが描いた僕に、なりたいって思ったんだ」
「明日、ちょっとだけ……太陽の下、歩いてみようと思う」
そして、次の日――
みことは、陽の下に出た。
どれだけ外にいたのだろうか。
皮膚は赤く腫れ、目は真っ赤に充血し、呼吸も浅くなっていた。
病院に運ばれたときには、すでに危険な状態だった。
元々体が弱いみことは闘病するも冬に別の病気をこじらせ――息を引き取った。
すちは葬儀に参列した。
みことの両親は、遠くから来た親戚のような表情で立っていた。
涙は一滴もなく、周囲に向けての謝罪ばかりを繰り返していた。
すちは棺に入ったみことに、小さな声で語りかけた。
「……あの絵、君のままだよ。誰にも見せない。俺の中だけで、生き続ける」