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僕の計画は、静かに、そして着々と進んでいた。日中の掃除で燃えやすいものを集め、頭の中でシミュレーションを繰り返す。そして毎週火曜の終業後、僕は食糧庫に入り、油とマッチを確保する。その日も、僕はいつものように、彼らの巡回が終わるのを待っていた。深夜、冷え切った廊下に、僕の足音だけが響く。いつものように食糧庫に向かおうとした、その時だった。
廊下の奥から、激しい口論の声が聞こえてきた。それは、ストロン博士とカリーナ叔母さんの声だった。僕は物陰に身を潜め、耳を澄ます。
「ねぇお願いよ!こんな研究、もうやめてちょうだい!」
カリーナ叔母さんの悲痛な声が響く。
「カルシアが……病院で、一人で苦しんでいるのよ! 容態が急変して、もう長くないかもしれないって連絡があったのよ!あなた、それでも研究を続けるっていうの!?…お願いよ、もうこれ以上は……!自分の娘を助けるためなら、どれだけの命を犠牲にしても構わないとでも言うの!?」
彼女の言葉は、悲しみと絶望に満ちていた。僕は、彼女の感情が、まるで自分のことのように理解できた。娘が死の淵にいる絶望。夫がその現実から目を背けていることへの怒り。僕も同じような経験をした。自分の存在が、家族に絶望をもたらすという呪いを背負って。
しかし、僕には、彼女が何を言っているのか理解できなかった。ただ、感情的に怒鳴り散らしているだけの愚かな女。博士の言葉が、その思いを確信に変える。
「馬鹿なことを言うな、カリーナ!まさに今こそ、この研究を完成させなければならないのだ!時間が無い!カルシアの命が、風前の灯火なのだぞ!私は医者として、父として、ただあの子を救うためにここにいる!あの子を救うためなら、どんな犠牲も厭わない! カルシアは、私の全てだ!この研究は、全てあの子のためにあるのだ!」
ああ、やはり愚かだ。博士は、自分の研究が、もうカルシアを救うためには間に合わないことを分かっていない。それとも、見ないふりをしているのか。どちらにせよ、彼の自己中心的な「正義」は、僕の復讐を完遂させるための、絶好の機会を与えてくれる。
「全てはカルシアのためですって!?違うわ!あの子は、こんなことで救われても決して喜ばない!… あの子は、優しい子なのよ?多くの命を犠牲にした結果で自分が助かったと知ったら、深く苦しむわ! …私はせめて、あの子が穏やかに、残りの時間を過ごせるようにしてあげたいの!だから、お願いよ!こんな研究はもうやめて!いい加減現実を受け入れてちょうだい!」
「では、お前はカルシアの命を見捨てろと言うのだな!?」
「カルシアは、私の、たった一人の娘だ!あの子の命を救うためならば、私はどんなことでもする!今、カルシアが生きているという現実を見ているから、私はこの研究を続けているんだ!」
博士の叫びは、まるで、壊れたオルゴールのように同じ言葉を繰り返しているだけだった。もはや、彼に残されたのは、自分の「正義」への固執だけ。そして、その固執が、彼の全てを破壊するのだ。
僕は静かに、彼らの口論が終わるのを待った。そして、足音を立てぬよう、静かにその場を立ち去る。
地下フロアに戻ると、僕は一人、不敵な笑みを浮かべた。
「……良いね、絶好のタイミングが来たみたいだ」
カルシアの命がもう長くないと知れば、博士はさらに焦燥に駆られるだろう。その焦りが、彼の判断を鈍らせ、僕の計画を阻む可能性をゼロにしてくれる。
僕は、燃えやすいものを隠してある場所へと向かった。埃を被った段ボールと、シュレッダーの紙屑。これに油を染み込ませ、マッチで火をつければ、もう二度と止めることはできない。
「これで、全ての準備が整った。あとは決行するだけだね……どんな顔を見せてくれるのか、期待してますよ。ダグラス博士」
僕の心の炎は、今にも燃え上がりそうだった。
一週間が過ぎた。
僕の心は、静かで、穏やかだ。この一週間、決行のタイミングを見計らっていた。そろそろ頃合いだろう。
終業時間が過ぎた頃。僕は、いつも通り霊安室で解剖前の遺体の様子をチェックしていた。その時だった。
「クロム、いるか?」
霊安室の分厚い扉越しに誰かが僕を呼ぶ声が聞こえるが、僕は返事をせず、作業を続ける。
「いるなら返事してくれ。クロム」
よく聞けば、それはセレンの声だった。僕は、作業を中断して霊安室を出た。
「…何だい?」
「忙しいところ、悪いな。お前に聞きたいことがあって来た」
「聞きたいこと?…別にいいけど、僕はまだ仕事中だから、手短に頼むよ。」
「分かった。じゃあ、早速聞かせてもらう。お前の知るダグラス家について教えてほしい」
彼の表情から、真剣な思いが伝わってくる。彼らは、あの口論を聞いていたのだろう。そして、僕がダグラス家の人間であることを知った上で、何かを確かめに来たのだ。僕に取っては、どうでも良いことだ。
「…あぁ、聞いてたんだね。この前の。まぁ、そんなことどうでも良いか…分かったよ、教える。元々、そういう約束だったしね」
僕が交わした約束など、ただの口約束でしかなかったが、今ここでそれを破る必要はない。むしろ、破る方が彼の警戒心を一層強め、僕の計画を阻む可能性が高い。
「僕から見た博士は、目的と手段を履き違えて、大事なものを見失ってる、ただの馬鹿だよ。…叔母さんも似たようなものだね。少し冷静になれば、あんな馬鹿、何も怖くないって分かるのに……まぁ、そういうことだ。賢いセレンお兄さんなら理解出来てると思うけど、一言で言えば、あの人たちは呪われてるんだよ」
僕は、彼の問に悠然と答えた。彼らが「呪われている」というのは、僕から見た純粋な事実だ。感情に支配され、非効率的な行動を繰り返し、それが自分たちを苦しめていることにすら気が付いていない愚か者と、そんな愚か者を恐れ、自身の意志に反する行動を取り続け、結果苦しんでいる愚か者。この目の前すら見えていない視野の狭さは、呪われているとしか言いようがない。
「そうか、分かった。ありがとうな、クロム」
彼はそう言うと、僕の頭を撫でて、去っていった。本当に訳が分からない。僕はしばらく、撫でられた部分の髪に触れることしか出来なかった。
しかし、この感覚は僕の心をほんの少し乱しただけで、変えることはない。この研究所の終焉は、もうすぐそこまで来ているのだから。