テラーノベル
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第1話 名前を検索する夜
年齢は二十代前半。
髪は耳にかかる長さで、寝ぐせが少し残っている。
薄い灰色のフード付き上着を羽織り、袖口がわずかに擦れている。
細身の端末を両手で持ち、指先が落ち着かず画面の縁をなぞる癖がある。
視線は画面に沈み、瞬きが少ない。
窓の外に走る音が一つだけ落ちて、すぐに消えた。
部屋の灯りは落としてある。
端末の光が、机の木目を薄く浮かせる。
椅子に腰を下ろしたまま、背中をまっすぐに保っているのが苦しくなり、肩を一度すくめる。
呼吸は浅く、喉の奥に乾きが残る。
画面には、検索欄。
指が触れる。
文字が出る。
消える。
また出る。
また消える。
打った綴りは、短い。
短いほどいい、と思う。
短いほど、もうない、とも思う。
指先が、ほんの少し震える。
それを隠すように、端末を机に置き直す。
検索。
結果。
表示が並ぶ。
使用中。
使用中。
使用中。
目線が下に落ちる。
そのまま、戻らない。
ひとつだけ、意味のない記号みたいな並びが目に入る。
値段が付いている。
数字が付いている。
安い。
安すぎる。
親指が、画面の端で止まった。
もう一度、検索欄へ戻る。
今度は、音を変える。
少しだけ遠回りにする。
一文字増やす。
検索。
結果。
未使用。
その二文字が出た瞬間、息が遅れて出る。
胸の奥が一度だけ軽くなる。
未使用。
まだ誰のものでもない。
その言い回しが、妙に冷たい。
言葉の端が、硬い。
端末を持ち上げ、角度を変えて眺める。
自分の顔が薄く映る。
映っているのに、はっきりしない。
この名前で呼ばれる場面を、頭の中で並べる。
店の注文。
配送の受け取り。
通りすがりの呼びかけ。
想像の中で、誰かが口を開く。
音が出る直前で止まる。
指が、購入の手前で止まる。
机の上に、コップ。
水は半分。
手を伸ばして、飲む。
喉が鳴る音が、部屋の静けさを割る。
画面に戻る。
未使用の表示はそのまま。
別の候補も探しておきたい。
そう思うのに、指が動かない。
このひとつで終わる気がしている。
検索欄の上に、小さく現在の名義が出ている。
仮の表示。
初期のまま。
誰に呼ばれても振り向きたくない音。
親指で、その表示をなぞる。
何も変わらない。
画面の下へ送る。
同じ名前の検索結果はもう出ない。
未使用の表示が、ひとつだけ孤立している。
部屋の時計を見る。
針が進んでいるのに、手元の時間は止まったみたいだ。
窓の外で車が通る。
遠くの音が、短く尾を引く。
端末の光が、指の関節を白く見せる気がして、手を引っ込める。
代わりに膝の上で指を組む。
目を閉じる。
呼び名を、胸の内で一度だけ鳴らす。
悪くない。
良くもない。
でも、ここに置ける。
目を開ける。
購入。
押す前に、もう一度だけ画面を確かめる。
綴り。
音。
余計な飾りがないか。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
押す。
画面が切り替わる。
確認。
指が止まる。
心臓が、端末の振動より先に鳴る。
押す。
小さな読み込みの輪。
回って、止まる。
完了。
それだけ。
派手な音はない。
紙が一枚増えたみたいに、静かだ。
画面の上の表示が変わる。
仮の名義が消え、新しい綴りが座る。
見慣れないのに、もう自分のものだ。
端末を伏せる。
そのまま、机の上に掌を置く。
冷たい。
指先が、机の表面を一度だけなぞる。
窓の外の音が遠ざかる。
呼ばれる準備が、部屋の中でひっそり整っていく。
この夜はまだ、終わらない。
名前だけが先に、明日へ触れていた。
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