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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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背中に、棚の段が当たった。
保存箱の角が、肩甲骨に食い込む。正面からは、もう一つの書架の背が迫ってくる。
空の箱を抱えたまま、私は体を横に向けた。
「誰ですか」
声が、天井に反響した。
返事はない。カラ、カラ、という音だけが、同じ速さで続いている。
手から、スマホが落ちた。ライトが床を照らし、天井の暗がりが濃くなった。
書架と書架の間が、私の体の厚みに近づいていく。
息を吸うと、胸が棚に触れた。
叫べばいい、と思った。
けれど、叫んだら、誰かが来る。来た人に、ここで何をしていたのかを説明しなければならない。
この期に及んで、そんなことを考えている自分が、可笑しかった。
鉄の匂い。古い紙の匂い。
目の前の箱の側面の文字が、もう読めないほど近い。
「――灯!」
声が、文書庫の天井に響いた。
ハンドルの音が、止まった。
足音が一つ、通路の入り口を駆け抜けていった。重い扉が開いて、閉まる音。非常階段のほうだった。
それとは別の足音が、こちらへ近づいてくる。
「灯。どこだ」
「……ここです」
声が掠れた。
「切れた、蛍光灯の、下の」
ハンドルが、逆に回りはじめた。速く。乱暴なくらいに。
書架が離れていく。胸の前に、空気が戻ってくる。
通路の入り口に、長身の影が立っていた。肩で息をしている。上着を着ていない。白いシャツの袖が、肘までまくれていた。
社長は、通路の中に入ってきた。
私の腕から空の箱を取り上げて、床に置いた。
叱られる、と思った。
何をしていた。誰の許可で。どうして嘘をついた。
どれを聞かれても、答えられなかった。
社長は、何も聞かなかった。
私の背中に腕を回して、引き寄せた。
強く。棚に押しつけられていたときより、ずっと強く。
「一人で行くな」
耳のすぐ上で、低い声がした。
「……頼むから」
シャツ越しに、心臓の音が聞こえた。速かった。私のと、同じくらいに。
社長の顔は、見えなかった。見えても、どうせ読めない。
だから、私は目を閉じて、その音だけを聞いていた。
*
「ハンドルを回していた人を、見ましたか」
文書庫の扉に鍵をかけながら、私は聞いた。
「見ていない。足音だけだ」
社長は、非常階段の扉をにらんでいた。
「入館ログでは、今夜、私より先に地下二階に入ったのは、君のカードだけだった。……カードを使わずに、ここへ来られる人間がいる」
「どうして、ここがわかったんですか」
「遅かったからだ」
社長は、エレベーターのボタンを押した。
「十時を過ぎても連絡がない。まどかさんの退館は、九時四十五分だった。君のカードは、九時五十二分に地下二階に入って、出ていなかった」
息を、飲んだ。
この人は、私の入館の記録を調べたのだ。まどかと夕食、という私の嘘を確かめるために。
……違う。確かめたのは、嘘ではなくて、私の居場所だ。
まどかとの約束どおり、鍵は一階の受付の引き出しに戻した。
社長は、それを見ないふりをして、自動ドアの外を見ていた。
空の箱のことも、十五年前の棚のことも、何も聞かなかった。
*
社長は、自分で車を運転してきていた。
助手席に座ると、社長は何も言わずに、空調の温度を二度上げた。
首都高の上で、フロントガラスに、白いものが一つ当たって、消えた。
「……雪」
二つ、三つ。街灯の光の中を、斜めに流れていく。
ラジオが、都心で初雪を観測した、と言った。平年より、少し早いらしい。
首都高を降りて、最初の信号で止まったとき、私は口を開いた。
「社長。私の、父の」
ハンドルの上で、社長の指が動かなくなった。
「……父の、名前は」
そこから先が、出てこなかった。
真野です、と言えば、全部を話すことになる。帳簿のことも、鷹宮に来た理由も。三年間、黙っていたことも。
言ったあとで、この人がどんな顔をするのか。私には、それを読む目がない。
「何でもありません」
信号が、青に変わった。
社長は、何も聞かずに、アクセルを踏んだ。
聞かれなかったことに、ほっとした。ほっとした自分が、少し嫌だった。
*
目黒川沿いの道に車を停めたとき、雪は本降りになっていた。
川面に落ちた雪が、音もなく消えていく。街灯の下だけ、空気が白く煙っていた。
エントランスの前で、社長が立ち止まった。
私のマフラーが、ほどけかけていた。地下で棚に押しつけられたときに、ずれたのだろう。
社長は、黙ってマフラーの端を持ち、首に一周、巻き直した。手袋をしていない指が、顎の下で、少しだけもたついた。
それから、私の前髪についた雪を、指先で払った。
「……冷たい」
「雪だからな」
「社長の指が、です」
社長は、手を引かなかった。
前髪を払った指が、こめかみのところで止まった。眼鏡のつるに触れる。
そっと、眼鏡が外された。
雪の向こうに、社長の顔があった。
砂嵐だった。
街灯の光と、降ってくる雪と、ざらざらとした灰色の粒が、全部、同じところで揺れていた。
何も読めない。
この人が、今、何を考えているのか。どうして、何も聞かないのか。
社長の顔が、近づいてきた。
六月のとき、私は目を閉じていた。何も考えられなくて、閉じるしかなかった。
今は、違う。
開けていても、どうせ、何も見えない。
だから、自分で選んで、目を閉じた。
唇に、雪よりも少しだけ温かいものが触れた。
長くはなかった。離れたあとも、社長の手は、私のマフラーの端を握ったままだった。
「……入るぞ。風邪をひく」
低い声が、少しだけ掠れていた。
*
その夜は、眠れなかった。
客間の天井を見ながら、指を折って数えた。
今夜、私が地下二階に行くことを、知っていた人。
まどか。
それだけだった。社長にさえ、私は、まどかと夕食だと嘘をついた。
指が、一本のところで止まった。
まどかが、誰かに話したのだろうか。
そう考えかけて、自分が嫌になった。三年間、私の目を「便利な特技」と笑って、一度もぶれなかった顔を、私は疑おうとしている。
もう一つの数え方も、あった。
空の箱。番号だけを残して、中身を抜かれた箱。
あれは、今夜抜かれたものではない。箱の底の埃は、何か月分も積もっていた。
誰かは、私が今夜来ることを知っていたのではない。私がいつか来ることを、ずっと前から知っていたのだ。
*
翌朝、八時。
四十三階の私の机に、全社通知が印刷して置いてあった。差出人は、代表取締役社長、鷹宮怜。
鷹宮不動産に対し、外部の専門家を入れた特別監査を実施する。
期間は、年度末まで。責任者は、社長室長・柏木誠司。
社長の机は、もう空だった。五時半に出られました、と柏木室長が言った。
私は、通知を何度も読み返した。
鷹宮不動産。昨夜、空っぽの箱が並んでいた、あの棚の札の名前。
社長は、一言も聞かなかった。それなのに、一晩で、ここまで動いた。
昼休み、一階の受付に降りた。
まどかは、私の顔を見るなり、カウンターの奥から身を乗り出した。
「灯! 鍵、ちゃんと戻ってた。……昨日、大丈夫だった?」
「まどか。昨日のこと、誰かに話した?」
「話すわけないじゃん。借りたって言わないでって言ったの、私だよ」
口をとがらせた顔は、くっきりとした一本の線だった。
「……ごめん。ありがとう」
「何、急に。怖いんだけど」
疑った分だけ、次の居酒屋では、まどかの皿に手羽先を一本多く載せようと決めた。
*
特別監査の初日は、その週の木曜だった。
朝、監査チームの名簿が回ってきた。外部の会計士が二名。社長室から、柏木室長。
私の名前は、なかった。
柏木室長が、私の机の前に立った。
タブレットを胸に抱え、いつもの硬い声で言った。
「瀬名さん。あなたには、この監査から外れていただきます」
コメント
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**はる。** 第32話、めっちゃ良かった…!文書庫の閉じ込めシーン、あの圧迫感がリアルでゾッとした。社長が何も聞かずに全部察して動いてくれるの、強すぎるだろ…「頼むから」の声が刺さる。雪の夜にマフラー巻き直して、眼鏡外してキス、しかも“自分で選んで目を閉じた”灯の心情、もう最高です。監査外された意味深ラスト、続きが気になりすぎる!