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『御断りします』
紡がれた答は全否定。
心なしか甚だし感があるのは気のせいではない。
そうだ、これこそ女神の在るべき姿。最初から疑問を抱く余地すらなかったのだ。
『ほしは“ほし”――だからね』
血で汚らわしい筈の身体を、そう言って己が膝元に乗せる。
何一つ変わらぬ彼女の心遣いに、このまま死を迎える事となったとしても何の悔いもない――と、オレは本気でそう思ったものだ。
紛れもなく世界で一番幸せな猫はオレの掌に在る――と。
何処に泣き言を喚き散らす必要があろうか?
ほんの僅かでも彼女に疑念を抱いた己が、急に気恥ずかしくなってしまい、女神の顔を見上げる事が出来なんだ……。
謝れるものなら土下座でも何なりと。
――ふふ……。土下座をする猫等、貴公等は聞いた事も見た事もなかろう?
それもその筈。猫とは総じてプライドが成層圏より高いもの。普通はせぬ。
だが謝りたいと心から思うなら、何処であれ例え剣山の上でも土下座出来るのだ。
まあこの状態では身体を動かすのも億劫だから、その期待にはとても添えられそうもないのは残念だったな。
機会があれば貴公等も一度、飼い猫に拝み倒してみるといい。
愛情が深ければもしや――。だが十中八九、猫爪の洗礼だ。
オレ等はそう安くはない――。
――さて、その後どうなったかだと?
審議はほどとおりなく終了し、かくして示談は成立。
かと言って示談金で成立した訳ではないぞ?
罪を憎んで人を憎まず――猫に優しく。
これは間の悪かった事故だ。哀れに震える爺に『切腹申し付け候う』や『財産没収』はあんまりであろう?
オレの海よりも深い慈悲により、奴は晴れて無罪放免と言う訳だ。
罪深きとはいえ、後先短い人生を断つのは如何なオレとて気が引けるからな……。
今夜は一家総出でオレの看病をする事となった。
被告人等、最早どうでもよい。オレへの看病が最優先とばかりに、女神は至れり尽くせり。
泣き疲れたのか、アカネは既に眠っておったな。それでも離すまいと、尻尾を握り締めるいと小さき手が、オレの涙腺に触れたのは内緒だ。
深刻な筈なのに信じられぬ程、穏やかな時間が過ぎていく。
これが家族であり、幸せの在処であると、染々と感慨に耽っていたものだ。
そして時刻は深夜に差し掛かろうとした、その時だった。
『明日ほしを病院に連れていこう』
自分の意思が欠如気味だったはずれ者が、突然そんな事を言い出したのは――。
これにはオレも吃驚仰天。自分の意思が有ったのねお前。
ようやくかと少しは見直したが、その提案にオレは難色を示していた。
“無理するな安月給――”
つまりはそれに尽きる。
オレに尽くすの至極当然の事だが、コイツの経済状況は永年の暮らしでよく理解しているつもりだ。
全く……自分の分際も顧みず、よくもまあ言えたものだ。その気持ちが分からん訳ではないがな。
はずれ者は底辺だ。己が使える小遣いが学生より少ない事も知っておる。
きっと断腸の思いで決意したのだろう。
正直言うとな……口が裂けても言えないが、オレは常日頃奴に感謝の気持ちを抱いていたのも確か。
オレ達を養うのは当然の義務としても――だ。
己の欲しい物は何一つ買う事もなく、オレ達の為に尽くしてきた事実は、流石に認めざるを得なかった。
オレが『銀のスプーン』と言えばそれにミルクを添え、『トイレ』と言えば逐一砂を交換。
裏方に徹して目立たぬとはいえ、はずれ者の存在無くしてオレ達の円満は無かった――と、今にして思う。
理解しようとは思わぬが、女神が何故はずれ者を選んだのか、少しだけ……分かる気がした。
だからこそだ。
その心意気は嬉しく思うも、病院だの無駄な事はしなくていい。
自分の身体の事は、自分が一番良く理解しておる。
これが……助からぬ“傷”だと言う事をな。
――皆がそれぞれの不安を抱き、寝静まった草木も眠る丑三つ時。
オレはある決意と共に目を覚まし、立ち上がっていた。
まあ実は痛みで寝てられんのが本音だが、猫とは弱音を他者に見せぬと言うもの。オレとて例外ではない。
皆にわざわざ不安を煽るような事はしたくないからな……。
何故どうして――だと?
貴公等はオレの話を冗談半分で聞いていたのかね?
オレが無敵で不死身の超猫だと――そんな在りもしない幻想を、さも真実だと思い込みたかったのではないかね?
違うな。決して勘違いしてはならぬのは、オレは少しばかり他猫とは一線を画す能力を持っただけの、極めて普通の猫だという事。
貴公等がオレの輝かしい猫歴に、過剰な期待を抱くのも無理はない。
到来している猫ブーム。華やかな猫達に愛情が贈られる。
だがその舞台裏を忘れてはならん。
幾多もの同胞が不慮の事故や、人間のエゴでこの世を去った。
オレを含め、輝かしいばかりの愛情に育まれた猫達は、彼等の尊い犠牲の上で成り立っているという事実にな。
その真実から決して目を背けてはならぬ……。
済まんな。手厳しい事を言ったが、どうか忘れてあげないでくれ。
これまでの……そしてこれからを生きる猫達の為にも――。
もう説明する迄もなかろう――オレは今夜、皆の前から姿を消す。
消すと言っても『マジック』といった類いではないぞ?
彼等の前に二度と現れない、と言う意味だ。
……何だその今にも泣き出しそうな顔は?
これは猫に於ける最期の行動原理だ。気を病む事はない。
“猫は飼い主に死に顔を見せる事はない”
これは人間が勝手に解釈した、猫への幻想だ。
そう美談化する事で、飼い主達は失った猫達を想い出として心に刻む。
そして『あの子は誇り高かった』と、何時の日か昇華した想い出を感慨に耽るのだ。
そう思い込まないと心が耐えきれないからな……。御互いの愛情が深ければ更に。
だが実際はもっと合理的。猫は感傷的に去るのではなく、己の死が迫ると自己防衛本能的に身を隠す“だけ”だ。
そこに『主人にだけは死に顔を見せたくない』といった美しいエピローグ等、入る余地すらない。
貴公等人間の夢を壊すようだが、それが紛れもない真実だ。
まあ今の飽食の時代、多くの飼い猫達は家族の愛情に見守られながら、この上ない幸せな最期を迎える事が多くなった。
これは良い傾向だ。そこが一番安全なのだから、わざわざ身を隠す労力は時間の無駄というもの。
――ん? 『じゃあ何故出ていくのですか?』だと?
確かに身を隠す必要はなかろうな。
猫の本能と猫伝説――貴公等はどちらの真実が良いと思うかね?
一つだけ言えるのは、猫とは人間が思っている以上に、計り知れない存在だと言う事だ。