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これはグレンシス達がサチェ渓谷を後にする直前のおはなし。
*
アジェーリアと別れの挨拶を終えたティアを馬車に送り届けたグレンシスは、関所の一室を借りて、慌ただしく報告書を作成していた。
本来なら、帰還した後で良かったのだが、善良でお騒がせな市民の一件があったため、アジェーリアの意向を急ぎ王城に伝える必要があるのだ。
そんな理由と、ティアを待たせてしまうのは申し訳ないという思いで、グレンシスは、必死にペンを走らせる。
──カリ、カリ、カリ、カリ、カリ……。
規則正しく滑るペンの音が、しんとした部屋に響く。
窓から差し込む夕日が、部屋の家具の影を少し伸ばした頃、ようやっとグレンシスは手を止めた。
「……よし」
一通り報告書を見直して、漏れがないかを確認したグレンシスは、納得した様子で一番下の欄に自身のサインを入れた。
これで報告書は完了したが、グレンシスは息つく暇もなく、新しい便箋を手に取った。
こちらは、自身の屋敷の執事に宛てたものなので、筆の滑りはなめらかだ。
「きっとティアは、驚くだろうな……だが、手段は選ばない」
グレンシスはペンを走らせながら、ひっそりと笑う。
その笑みは、悪知恵を働かせる子供のようであり、愛しい人へ向ける艶やかなもの。
ティアが3年前に自分の命を救ってくれた女性であり、上司が囲う娼婦でもなかったことを知った時点で、グレンシスは心を決めた。
執事に宛てた手紙は、自分達が帰還する前に、少々手配を要することがあり、それを依頼するためのものだ。
結果的にティアを策にはめるようなことになる。それについて、騎士道精神が痛むが、今はなりふりかまってなんかいられない。
あっという間に手紙を書き上げ、グレンシスか封をしたと同時に、タイミング良く部下の一人がノックと共に顔を出した。
「ロハン隊長。いかがでしょうか」
部下の一人は既に正装から、遠征服に着替えている。
グレンシスは幾つかの書簡を手にして立ち上がると、部下の元まで移動した。
「ああ。今、終わったところだ。これを急ぎ王城へ届けてくれ」
「かしこまりました」
部下の騎士は敬礼をしてから、丁重にそれらを受け取った。
「あー……あと、悪いが、ついでにこれを、わが家に届けてくれないか?」
さりげなく渡したのは、自身の屋敷に宛てた手紙だ。
「もちろんです」
部下はあっさり手紙を受け取ると、再度、敬礼をしてから早足で去っていった。
任務を終え帰還する騎士達は、2つの班に分かれている。
1つは急ぎ王都へ戻り、重要な書簡を届ける班。
もう1つは、ティアを乗せた馬車を引率する班。
グレンシスは、書簡を届ける重要任務を他者に任せて、後者の班で帰還する。
そこに個人的な感情が動いたことは、言うまでもない。
「では、こっちも向かうとするか」
執務机に戻ってあらかた片づけたグレンシスは、部下の騎士と同様に、正装から遠征服に着替える。そして、マントを手にしたまま、関所の外へと出た。
関所の門を抜けると、出立の準備はできていた。同行する部下たちも遠征服に着替えている。
アジェーリアが使用した豪奢な馬車は、関所の兵が後ほどロハンネ卿の元へ返却する。代わりに与えられたのは、丈夫で武骨な、砦で使用する馬車。それを御するのは、ぽっちゃり体型のトルシス。
彼は、すでに御者席に乗り込み、グレンシスの出立の声を待っていた。
「待たせたな」
グレンシスは軽い口調でトルシスに声を掛けるが、彼は少し困った感じで眉を下げる。
「いえ、私達は全然……。ただ中にいるお嬢さんは、少々待ちくたびれたご様子ですね」
その言葉で何かを察したグレンシスが、そっと車内を覗くと、猫のように身体を丸めて眠っているティアがいた。
その姿があまりに可愛らしく、思わずにやけてしまう口元をグレンシスは、慌てて隠す。
「……あまり、揺らすなよ」
「かしこまりました」
心得たと言わんばかりに大きく頷いたトルシスは、ニパッと吹っ切れたように笑った。
「隊長。なんか自分、また恋がしたくなっちゃいました」
「お前、それならまず痩せろ」
一世一代の告白をして撃沈したトルシスに、容赦ない突っ込みを入れたのはカイル。
いつぞやの失恋慰め会で、治安の悪いバルを提案した青年だ。
失恋からやけ食いをして、更にふくよかになってしまったトルシスは、むっとした表情を作る。
けれど、すぐ横から軽い笑い声が聞こえてきた。
「そう怒るなって。俺さ、お前の体型が好みの女の子知ってるから、紹介してやるぞ」
そんなふうに横から口を挟んだのは、同じくグレンシスの部下であるバルータ。以前グレンシスに深手を負わせたひったくり犯を捕まえた騎士でもある。
奇遇にも、この3名がティアの馬車を引率する騎士達だ。
わちゃわちゃと騒ぎ出した部下たちに、グレンシスは小さく咳払いをする。
「お前たち、しょうもないことを喋るな。行くぞ」
マントを羽織ったグレンシスは、ぴしゃりと告げると馬に跨った。
意味ありげに視線を交わし合った部下たちは、すぐにグレンシスの後を追い──3頭と1台は、歩道に長い影を伸ばしながら王都へと向かい始めた。