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その日は春の終わりのような風が吹いていた。
香水店「MORI」に藤澤がふいに姿を現したのは、夕方の少し前。扉のベルが鳴ると大森は背を向けたまま言った。
「おかえり、“Rendezvous”。じゃなくて、涼架」
関係が深まっていくに連れて季節と共に呼び名も変わった。
「えっ、なんで来るって分かったんですか。ぼく今日何も付けてないのに」
大森は静かに振り向いた。
その目はどこか楽しそうで、でも少しだけ意地悪だった。
「匂いでわかるよ。香水はつけてないけど、君の香りがする」
「何それ、怖……」
「怖くない。むしろ誇らしい。僕の処方ちゃんと君に染みてるってことでしょ」
藤澤はむっとした顔で、大森の前に立つ。
「いやいや、今日はちゃんと“無香”で来たんです。検証のために」
「検証?なんの?」
「香水なしで、自分がどう感じるか。でも正直変な感じでした。何か忘れてるみたいで」
「ふーん。で、うちに来たのは?」
「歩いてたら、店の前で“ここだ”って、ふっと思い出したんです。店の匂いが香った瞬間“帰ってきた”って感じがして」
大森は小さく笑った。
「僕の店の匂いは、君にとって“帰る場所”になってるね」
「…ほんと、そういう言葉遊びうまいですよね」
「うん、人並みには上手いと思うよ。涼架にだけだけど」
不意に距離が詰まる。
大森はカウンターを回って真正面から藤澤を見下ろした。
「ねえ」
「……なんですか」
「最近、店以外で誰かに香水つけてもらった?」
「え、いえ、ないですけど。なんで」
「よかった。僕以外の匂いがしたら、ちょっと機嫌悪くなるとこだった」
「それ、独占欲って言うんですよ」
「知ってる。でも涼架からする匂いは僕の匂いしか許せない」
真っ直ぐに言われた言葉に、藤澤は視線をそらした。顔が熱い。心臓もうるさい。
でもそれより何より、大森の言葉が嬉しかった。
「でもぼく、まだ“好き”ってちゃんと言ってないですよ」
「うん。言わなくていい。僕が言い続けるから」
「ほんと、ずるい」
「ずるくていい。独占したいもん。君の香りも、気配も、視線も、名前も、全部」
ふいに、藤澤の後ろ髪に指が触れた。
「香水、つけてないのにここまだ甘い匂いがする。なんでだろう」
「知らないですよ。たぶん、それ、あなたのせいですよ」
「じゃあ僕のせいでいい。君の髪も服も、全部僕の処方に染めてやるから。…逃げられないくらい」
その声は穏やかで、でもひどく深くて熱っぽい。
藤澤は思わずその場から逃げ出しそうになるのを必死で堪えた。
代わりに、そっと大森の白衣の端をつまんだ。
「…今度、僕から香水、つけてあげてもいいですよ」
「….それ、キスよりドキドキするんだけど」
「バカですね」
「うん。君の前だと、バカになる」
ふたりの距離は、もう香りじゃ測れなかった。
香水のない日でも、大森は藤澤を嗅ぎ分けるし、
藤澤もまた、大森のいる空気に自分が戻ってしまうことを知っていた。