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香水店「MORI」の店内はもう営業を終えていた。照明を落とし、静かな調香室の奥でふたりは並んで座っていた。
藤澤は香りのしない手首をじっと見つめていた。
「今日、何にも纏ってないんです」
「うん、知ってる。涼架匂いもう覚えたから」
「大森さんのせいです」
「うん、それも知ってる」
いつもならこのやりとりでふっと笑い合っていた。でも今日は、どちらも笑わなかった。
空気が、ゆっくりと、でも確実に近づいていく。
香りではなく、体温の距離で。
藤澤がそっと口を開いた。
「ぼく、“香水に頼らないと生きられない”って、もう思ってないです」
「そっか」
「それって、変わったってことですよね」
「…うん。香水がなくても落ち着けるようになったってことだよね。でもさ、それって“調香師”としての僕の出番がなくなったってことかな」
「何言ってるんですか。そんなのずるいですよ」
「ずるい?」
「香水に頼らなくても平気になれたのは、大森さんが処方してくれたからです。“あなたがいたから”ってことなのに、“出番がなくなった”って捉えるの、ズルすぎます」
「そっか。ごめん。ちょっとだけ寂しくなっただけ」
2人は少しだけ笑った。
でもすぐに笑いが静かに落ちて、目が合う。
大森が、ゆっくりと右手を伸ばす。
藤澤の髪にそっと指をかけると、何も言わずにそれをなぞる。
「今日の君、香りしないのに、ちゃんと“好きだ”って思える。香りじゃなくて、涼架自身に恋してる」
「…ずるい」
「また言った」
「何回でも言います。ずるいです、大森さん」
「じゃあずるいこと、してもいい?」
「…はい」
その一言で大森は身体を傾けた。
香りも音もなく、唇が触れた。
それは軽くて、まるで香水のトップノートのように一瞬だった。
でも、藤澤の心臓は跳ねた。
耳まで熱くなる。目の奥がじんわりと滲んで、感情がとめどなくあふれてくる。
「ぼく、今すごくドキドキして顔が熱いんですけどこれ、処方名あります?」
小さく呟いた藤澤に、大森はふっと笑った。
「“After glow”──それでいい?」
「…最悪ですね」
「でも、好きって言ってくれたらもっといい名前つけられるかも」
「じゃあ、もう少しだけ待っててください」
「うん。いくらでも待つ。君の匂いがある限り見失わないから」
ふたりの距離が、はじめて“ゼロ”になった夜。
そこに香水はなかった。
けれど、空気には確かに藤澤と大森の匂いが混じっていた。
その香りはもう、どんな処方にも真似できなかった。
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After glow 余韻
次回完結です