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0. プロローグ
14:02/店内
最初に声を荒げたのが誰だったのか、あとから集められた証言は一致しなかった。
皆、自分の立っていた位置と、聞こえた音だけを覚えている。
平日の午後だった。
混んではいないが、空いているとも言えない。
空調の風が、一定のリズムで天井から落ちてきて、レジの電子音がそれに重なっていた。
男が何かを言い、店員が短く返した。
そのやりとりは、特別なものではなかった。
よくある光景だ、と誰もが思った。
ただ、その日は、誰もが少しずつ疲れていた。
理由は分からない。
天気でも、体調でも、仕事でもいい。
疲れは理由を選ばない。
男の声が、わずかに大きくなった。
それに反応して、周囲の客が一瞬だけ視線を上げる。
しかし誰も口を挟まない。
店員は、画面から目を離さずに言った。
「確認します」
その言葉が、場の空気を変えた。
丁寧でも、乱暴でもない。
感情が含まれていないという点だけが、際立っていた。
誰もが、このやりとりが「事件」になるとは思っていなかった。
ただ、いつもより長く続いている、そう感じていただけだ。
このあと、警察が来る。
労基署が動く。
弁護士が入り、SNSで切り取られ、メディアが嗅ぎつける。
しかし、この時点ではまだ、
誰もが「ちょっと面倒な場面」に遭遇しただけだと思っていた。
従業員(A)
14:05
仕事は、適当だと思っている。
胸を張って言えることではないが、否定もしない。
丁寧にやろうとした時期はあった。
説明も、愛想も、必要だと思っていた。
けれど、それで褒められたことは一度もない。
逆に、時間がかかる、話が長い、余計なことを言う。
そう言われることのほうが多かった。
だから、削った。
言葉も、表情も、考える時間も。
「確認します」
それは、最短で済む言葉だった。
自分を守るための言葉でもあった。
客は、説明を求めていたのだと思う。
それは分かっていた。
分かっていたからこそ、説明しなかった。
説明すると、責任が生まれる。
責任が生まれると、こちらが悪者になる可能性が上がる。
客の声が少しずつ強くなる。
怒鳴ってはいない。
ただ、感情が外に漏れている。
これはカスハラじゃない。
そう、頭の中で線を引く。
「責任者を呼んで」
呼べばいい。
でも、来たところで、何かが解決するとは思えなかった。
「確認します」
同じ言葉を繰り返す自分の声が、遠くに聞こえた。
自分がそこに立っていないような感覚。
「警察を呼ぶ」
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ安心した。
判断を、自分の外に出せる。
警察官が来て、質問される。
最低限だけ答える。
適当だと言われても、反論しなかった。
適当でいい、と決めているからだ。
その日の業務は続いた。
何もなかったように。
家に帰って制服を脱いだとき、
今日一日で、自分は何も言わなかったな、と思った。
でも、言える言葉は、最初から用意されていない。
客(訴えた一人)
14:07
最初は、本当に普通に聞いただけだった。
分からなかったから、聞いた。
それだけだ。
相手は無表情で、短い言葉しか返さない。
怒っているわけでも、謝っているわけでもない。
それが、逆に不安だった。
ちゃんと伝わっているのか。
こちらを軽く見ていないか。
「確認します」
その言葉を何度も聞くうちに、
自分が試されているような気がしてきた。
声が少し大きくなったのは、伝えたいからだ。
威圧するつもりはなかった。
周囲の視線に気づく。
居心地が悪くなる。
なのに、店員は同じ態度のままだ。
無視されているように感じた。
これは失礼だ。
そう思った。
警察を呼ぶと言ったのは、脅しではない。
第三者に判断してもらいたかった。
自分は悪くない。
普通の客だ。
ただ、ちゃんとした対応を求めただけだ。
あとで動画が回るとは思っていなかった。
大事になるとも思っていなかった。
今でも思う。
あのとき、相手が一言、違う言葉を使っていれば。
それだけで済んだのではないか、と。
別の客(通りすがり)
14:09
嫌な空気だな、と思った。
それだけだった。
どちらが悪いかは、分からない。
分からないから、関わりたくなかった。
スマホを出すか迷った。
記録しておいたほうがいい気もした。
でも、何かあったら面倒だ。
名前も知られたくない。
正義感より、保身が勝った。
それを恥だとは思わなかった。
自分は、ただの客だ。
事件の当事者になる義理はない。
その場を離れるとき、
店員の背中が少し丸まって見えた。
何も言わずに出た。
それでよかったと思っている。
社長
14:18/電話
昼寝の途中だった。
電話に出ると、現場が騒がしいことだけは分かった。
「大きなトラブルではありません」
その言葉を聞いて、少し安心する。
違法でなければいい。
それが基準だった。
従業員は、指示通りに動いている。
反論しない人材を集めたのは、自分だ。
問題になるとしたら、評判だ。
それだけ。
守るべきか、切るべきか。
判断は後でいい。
今は、鎮火してほしい。
それだけだった。
警察官(若手)
14:25
通報内容を聞いたとき、厄介だと思った。
暴力がない。
明確な犯罪がない。
感情だけが、そこにある。
どちらも落ち着いている。
それが一番、判断を難しくする。
事情を聞き、メモを取る。
結論は、ほぼ見えている。
これは事件にならない。
ただ、それをどう伝えるか。
誰も納得しない顔をしていた。
労基署職員
16:40
相談は受理した。
書類を確認する。
違法性はない。
線は、踏み越えていない。
「法律上は、問題ありません」
その言葉を言うたびに、
胸の奥が少しだけ重くなる。
でも、それ以上はできない。
弁護士
数日後
感情は、整理する。
使える部分と、使えない部分に。
勝てるかどうか。
それだけが判断基準だ。
正しさと、勝敗は別だと、
何度も説明した。
SNS民
その夜
短い動画。
切り取られた言葉。
怒りは、速く広がった。
理由より、感情が先に立つ。
数日後、別の話題に移る。
誰も、責任は持たない。
エピローグ
数週間後
誰も逮捕されなかった。
誰も謝罪しなかった。
配置が変わり、人が減った。
それだけだ。
問題は、解決しなかった。
だが、処理は完了した。
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