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事務室の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と穏やかな声が室内から返ってきた。誰かの居る部屋の扉を開ける前はいつも緊張し、震えるくらいに体温が過度に下がって指先がやたらと冷たくなるのだが、今は不思議とちょっと熱いくらいだ。
「失礼します」と声を掛けながら扉を開けた。隙間から先にララがするりと室内に入り、出窓の辺りを当然の様に陣取ってゴロンと横なる。何故かそこには大きなクッションが置かれていて、とても寝心地が良さそうだった。
(今日は天気が良いから、窓辺で干しているのかな?)
だとしたら申し訳ない気がするが、シスさんにはララが見えていないでそっとしておく事にした。
「お疲れ様です。実際にやってみていかがでしたか?」
「……正直、疲れました。今までは自分の生活する範囲だけを掃除しておけば良かったんですが、やっぱり勝手が違いますね」
シスさんに訊かれ、正直に答える。全然平気!だなんて嘘を言って、顔色や行動のせいで即バレるよりも、きちんと本心を伝えるのが一番だろう。
「まぁ、そうですよね。この先、飲み物を頼んだりといった些事は僕のペースで頼んでしまう事も多いでしょうが、掃除はご自分のペースでゆっくりやって下さい。毎日全ての部屋をやるとかじゃなく、『今日は此処』をといった具合に順々にやっていくと良いですよ」
「はい」と素直に頷く。いやいや、仕事だし、きっちりやらねばと思う気持ちはあれども体力がやる気についていけていないままなので、ちゃんと体力が身につくまでは甘えておこう。
「『仕事』だからと気負わなくても大丈夫ですよ、緩くやっちゃって下さい。僕が掃除をやるとどうしたって上手く出来ず、結局適当に魔法で済ませて、そのせいで四角い部屋を丸く掃くみたいに雑な状態になるんで、請け負って貰えて本当に助かります。——あ、そちらの椅子に座って下さい」
「では、失礼します」と告げて近くにある椅子に座る。室内には他にも二、三椅子が置いてあるが、今は部屋の隅っこの方に寄せてあった。
改めて周囲を見渡すと、『事務室』というだけあって、シスさんの机の上には書類の束が山の様に積んである。壁の一面を占領している書棚の中はびっしりと分厚い本が並び、部屋はそれなりに広いはずなのだが本棚や仕事机がかなり大きいからか手狭な印象だ。応接セットは置いていないから、この部屋で仕事の打ち合わせなどをする事は無いのだろう。
「すみません、次はもうちょっと片付けておきますね」
そう言いながらシスさんが小さなテーブルを運んで来て、その上にティーセット一式ののるトレーを置いた。続けて丸い鍋敷きみたいな物の上に水の入ったケトルを置くと、すぐにくつくつと湯が沸ける様な音が聞こえてくる。初めて見たが、きっとこれは調理場のコンロの簡易版みたいなマジックアイテムなのだろう。
「持って来てもらったお茶の缶を頂けますか?」
「あ、はい。こちらの二つを持って来ました」
“アップル”、“藤の花”と書かれた缶を渡すと、「これらがお好きなんですか?」と訊かれた。アップルの方は味くらいなら一応知ってはいるが、飲み物として楽しんだ経験は無いのできちんと伝えておこう。
「わかりません。どれを見てもほとんど味の見当が付かなくって、結局無難そうな物と、味の想像が全く出来なくてどうしても気になった物を持って来た感じなので」
「そうでしたか。お口に合えば良いなぁ」
ニコニコと笑いながらシスさんがガラス製のティーポットとカップに手をかざす。何をしたんだろう?と思いながら見ていると、シスさんが「ポットとカップを先に温めているところですよ」と教えてくれた。
「本来はお湯を入れて温めるものなんですけどね、そのお湯をキッチンまで捨てに行くのが面倒で、ついいつも魔法で温めてしまうんですよ。すみません、根が不精なもので」
「ご自分の出来る才を活用するのは、アリだと思います」
「あはは!ありがとうございます、貴女は本当に優しいですね。——さて、お茶はどちらから飲んでみますか?」
「じゃあ、アップルで」
「了解です。藤の花の方は、午後にでも淹れますか」
「はい」
「ところで、『飲み物として楽しんだ経験は無い』と言っていましたが、お茶をご自分で淹れた経験はあるんですか?」
「あー……はい、あるにはあります。ただ、一式ドンッと目の前に置かれて、『淹れてみて』と言われたから想像だけでやってみたので美味しくなんか当然出来ず、最後は頭からお茶をかけられて終わったので……正しい淹れ方は知らないままです、ね」
「……それは酷い、ですね。僕がその場に居たら、同じ事を相手にやり返している所ですよ」
眼鏡と前髪で隠れてはいるが、顔色が悪い気がする。心なしかシスさんの豊かな尻尾にも元気が無い。ギリッと奥歯を噛む音も微かに聞こえた。私なんかの代わりに怒りを感じてくれているんだろうか?
「あ、でも、そういった行為がきっかけで、私でも魔法が使える事がわかったんで、今はもう別に気にしていません」
頭皮と顔や肩に走る激しい痛みから逃げたい一心で治癒系の魔法を少しだけ使えるようになったのは、紅茶を掛けられた一件からだった。当時はまだ、痛みを緩和し、ちょっと外傷を癒す程度だったが、それでも医療師も治療師も呼んでは貰えない身では、この能力は渡りに船と言える物ではあった。
(他にも、『弓の練習をする』と言って的の方を持たされた事とかもあったけど……黙っていよう)
庭での出来事だった為、窓から様子を伺っていた叔父が運良く気が付いてくれて慌てて止めに入ったからあの時は助かったけど、ダーツの的を持つ様に言われた時は室内に二人きりだったせいで逃れられず、姉は私に向かって容赦なく何本ものダートを投げてきた。大きな丸い的で顔は隠せても、腹部や脚が丸見えで、服にぶすぶすと矢が刺さっていく。布を貫通して先端が肌に刺さると痛みで全身が震えたが、口に咥えさせられていたハンカチが邪魔で叫ぶ事も出来ない。なのに部屋の中には楽しそうな姉の笑い声のみが響き続けていたからか、『あんな子と遊んであげるなんて、本当に優しい子だわ』と、廊下で待機していた侍女達が鈴みたいな声で話すのが耳に届いた時は心底ゾッとした。
「……お茶、淹れていきましょうか」
空気を変えるため、無理に笑おうとしているのに上手くいっていない顔をしながら、シスさんがそう口にする。私の為に心を痛めてくれているのかと思うと、正直ちょっと嬉しかった。