テラーノベル
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「……誰?」
小声で尋ねる。隣の慧は、すでに表情を硬くしていた。
「一条舞香。義母が、縁談を進めたがっていた相手だ」
ゆるく巻かれた髪。首元できらめくのは、ピンクダイヤのネックレス。一目で桁違いと分かる、最高級品だ。
可憐で、誰が見ても大切に育てられたお嬢様という雰囲気。――けれど、その華奢な手に握られたワインのグラスは、不穏に揺れていた。
「お久しぶりです、慧さん」
「お久しぶりです、一条さん」
「突然のご結婚、本当に驚きましたわ」
値踏みするような冷ややかな視線が、私へ向けられる。
「奥様にも、ご挨拶させていただいてよろしいかしら?」
「初めまして。橘玲奈です」
「一条舞香と申します」
差し出された手を握る。細い指なのに、痛いほど力がこもっていた。そのとき、舞香さんの視線が、ふと私の左手へ落ちる。
薬指には、あの日、慧と選んだ指輪が光っていた。誕生石の隣で、小さなダイヤがきらめいている。契約妻用の小道具――の、はずだった。
「……素敵な指輪ですこと」
舞香さんが微笑む。けれど、目は少しも笑っていない。
「奥様のために、慧さんが選ばれたの?」
「ええ。夫と一緒に選びました」
そう答えた途端、舞香さんの笑みがひきつった。指先が、赤ワインのグラスをきつく握り直す。
「慧さんが、どなたかを選ばれるなんて。本当に意外でしたわ」
「……意外、ですか?」
「ええ。昔から、どれほど名門との縁談が持ち上がっても、すべて断っていらっしゃいましたから」
その声は、わずかに震えていた。
「それに、神代グループと一条グループが手を取り合う意味くらい、当然ご理解いただいているものと――」
「一条さん」
氷のように冷たい声が、その言葉を遮った。
「妻は、神代家の事情を何も知らなかった。言いたいことがあるなら、俺にはっきり言え」
舞香さんの指先が、ぴくりと震えた。グラスの中で、赤ワインがゆらりと揺れる。
「……そうやって、その方をかばうのですね」
「俺が決めたことだ。責任はすべて引き受ける」
「……失望いたしましたわ!」
舞香さんの表情が、ついに崩れた。
「私たちのような家にとって、結婚がどれほどの意味を持つか、分かっていらっしゃると思っていたのに! それを、何の説明もなく、なかったことにするなんて……!」
「縁談を受け入れたことは、一度もない」
慧は淡々と告げた。
「ただ、説明が遅れたことは謝る」
「謝れば済むのですか!?」
グラスを握る手に、さらに力がこもる。
「奥様は、ご存じなのかしら?」
敵意を宿した目が、今度は私をまっすぐに捉えた。
「慧さんが、夜のお店に出入りして、女性と遊び回っていたという噂」
(――え?)
胸の奥が、もやっと波打つ。私に契約結婚を迫りながら、ほかの女の子たちと遊んでいたの?いや、そもそも私だって、ラウンジで働いていた。人のことをどうこう言える立場じゃない。それでも、うまく飲み込めない何かが、喉の奥につかえた。
「噂は……噂ですから」
営業用の笑顔を貼りつけ、すかさず返す。
「まあ。ずいぶんと信頼していらっしゃるのね」
舞香さんの前へ、私は一歩踏み出した。驚いたように、慧がこちらを見る。
「それに、この結婚は、慧だけの責任ではありません」
「玲奈……?」
「この人の隣に立つと、自分で決めたので」
これは契約結婚で、ビジネス。でも、契約書にサインしたのは、私自身の意思だ。だったら、神代慧の妻として。隣に立つ責任くらい、ちゃんと背負ってみせる。
舞香さんは、信じられないとばかりに目を見開いた。
「……強気なのね。その自信、いつまで続くかしら」
「これでもプロの営業です。簡単には引き下がりませんよ?」
舞香さんの口元が歪む。悔しいのか。泣きそうなのか。分からない、複雑な顔だった。――その直後。
張りつめていた糸が切れたように、舞香さんの手首が返った。赤ワインが、こちらへ飛んでくる。
「玲奈!」
叫び声と同時に、慧が私の目の前へ割り込んだ。
――ばしゃっ!
「慧……っ!?」
白いシャツと黒いジャケットへ、赤ワインの染みが一気に広がっていく。慧は私をかばったまま、冷え切った目で舞香さんを見下ろしていた。
「……気は済みましたか」
感情を削ぎ落としたような、低い声だった。舞香さんの顔から、さっと血の気が引く。
「わたし、は……」
「これ以上、妻に手を出さないでください」
慧は静かに告げる。
「次に会うとき、俺を敵に回したくないのなら」
「……っ」
舞香さんは唇を噛んだ。
「……失礼いたします」
それだけ言い残し、背を向けて早足で去っていった。
「ちょっと、慧! 大丈夫!?」
慌てて正面へ回り込む。
「問題ない」
「問題大ありよ! 完全に染みになっちゃったじゃない! これ、こないだのジャケットと同じで、100万くらいするやつでしょ!?」
「今日は200万円だ」
「ええええっ!?」
「……お前は、俺よりスーツの心配か?」
「あんたのことも心配してるわよ! でも、200万円よ!? 大惨事じゃない! ほら、まずジャケット脱いで!」
ワインはほとんどジャケットが受け止めていたが、白いシャツにも飛び散っている。
「動かないで!」
バッグから大急ぎでタオルを取り出し、濡れた胸元へ押し当てる。
「……手際がいいな」
「ラウンジで酔っ払い客の世話をしてきたからね! 経験値が違うのよ!」
染みを広げないよう、トントンと丁寧にタオルを押し当てていく。
ふと顔を上げると――至近距離にいる慧は、妙に姿勢よく固まっていた。両腕を身体の脇へ下ろしたまま、視線をどこへ置けばいいのか分からないらしい。
(ほんと、何なのよ……)
(さっきはあんなふうに迷いなくかばったくせに、こういうときだけ弱いんだから)
「坊ちゃん。遅くなりました」
振り返ると、そこには黒瀬さんが立っていた。
「遅い」
慧の低い声が飛ぶ。
「駐車に少々手間取りまして。だいたい、ここの駐車場は混みすぎなんですよ」
「言い訳はいい」
「それは大変失礼いたしました〜」
ちっとも反省していなさそうな顔で、黒瀬さんは慧と私を順に見比べた。
「坊ちゃんも奥様も、お怪我はございませんか?」
「……平気だ」
「私は大丈夫です」
「いや、どう見てもあんたは平気じゃないでしょ!? ワインまみれじゃない!」
黒瀬さんは、何かを察したように意味ありげな笑みを浮かべた。
「ところで、先ほど一条様とのお話で、夜のお店の噂が聞こえてきましたが」
「……聞いてたんですか?」
「少々」
黒瀬さんは、何でもないことのように続ける。
「社長の名誉のために申し上げますと、その噂、たぶん――」
コメント
1件
舞香さん、めっちゃ圧かけてきたね…!😳 でも、それにひるまないで「この人の隣に立つと自分で決めた」って言い切る玲奈さん、かっこよすぎる…!慧くんの「妻に手を出すな」も最高に胸アツでした。そして200万スーツへのツッコミ忘れない玲奈さん、最高です(笑)次が気になる〜!