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凌空は学校をサボるようになった。
晴子はいつも外出していなかった。
どこの誰と会っているのかは知らないし、興味もなかった。
「………」
凌空はベッドに座ったまま、手元のスマートフォンとカレンダーを見比べた。
「……土曜日か」
曜日の感覚はすでに全くなかった。
何をしても、誰といても、頭の中は一つのことでいっぱいだった。
晴子はなぜ凌空の目を傷つけたのだろう。
嫌いだったのだろうか。
佐倉が珍しいと形容したこの目が。
「ただいま」
とドアの向こうから、低い声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん!!」
続いて、紫音の耳障りな甲高い声が響く。
輝馬が帰ってきたらしい。
そうだ。
凌空が5歳の頃、13歳だったはずの輝馬なら、何か覚えているかもしれない。
凌空はむくりとベッドから身体を起こした。
◇◇◇◇
「私、帰るの遅くなるかも。今から友達と遊んでくるから。もしその時は寝てていいからね」
なぜか上から目線で、偉そうに言う紫音を、輝馬は驚いたように見つめていた。
その視線が、部屋のドアを開けた凌空に移るのを待ってから、凌空は両手を左右に広げて見せた。
「ああ。わかった」
下瞼を引くつかせながら輝馬がそう言うと、ますます得意そうに低い鼻の丸い穴を膨らませた紫音は、兄の脇を抜け玄関に向かった。
「あ、紫音」
輝馬がその背中を呼び止める。
「……今日の髪型も、メイクも、ファッションも、全部、似合ってるよ」
これにはさすがに吹き出しそうになった。
凌空は両手で口を押えた。
「……ありがとう!」
しかし紫音は嬉しそうにバッグを肩にかけ、家から出て行ってしまった。
「……プッハハハハハ!」
ドアが閉まりきらないうちに、我慢できなくなり、凌空は吹き出した。
「兄貴、笑わせんなよ!」
「……だってさ、見てみたいじゃん?」
輝馬はダイニングテーブルに頬杖をつきながら、玄関ドアを見つめた。
「おだてられた豚が木に登るとこ」
「………ぷっ」
凌空はもう一度腹を抱えて笑った。
年の離れたこの兄は、本当にいつも自分を笑わせてくれる。
おだてられているのも、
それで気分よく木に登ってる豚っていうのも、
◆◆◆◆
紫音と入れ違いに帰ってきた晴子のおかげで、輝馬に聞きそびれてしまった。
二人きりになるチャンスもないまま、夕飯を食べ終わったところで、佐倉からメールが来た。
『今夜、こいよ』
思えば彼から誘われるのは、あの日以来だった。
兄貴が帰ってきてるから。
そう言って断ることは容易だった。
しかし、凌空は気が付くとスニーカーを履いて玄関のドアを開けていた。
なぜか今日行かないと面倒くさくなるような予感がした。
別に泊まらなくても、少し顔を出すだけでいい。
佐倉の機嫌を取った後はすぐに帰ってくれば――。
自分に言い聞かせながら廊下を踏み出したところで、
「!!」
隣りのドアが勢いよく開いた。
「あ」
中から、これで会うのは2回目の“お隣さん”が顔を出した。
「こんばんは。凌空くん」
煙草を口の端で咥えた城咲は笑いながら出てきた。
「こんな時間にお出かけ?不良だなぁ」
上下黒のスウェットを着た城咲は、長い指で唇から煙草を抜き取りながら言った。
「こんな時間にゴミ捨てすか?不良だなぁ」
凌空は気怠そうな城咲の言い方を真似ながら、彼が引きずり出そうとしている可燃ごみ袋を見下ろした。
「……ははっ」
彼は薄く笑うともう一度煙草を咥えながらドアを閉め、カギをかけた。
「下までご一緒しても?」
そう言いながら片眉を上げてくる。
「そのゴミと煙草が臭わないならね」
凌空がそう言うと、城咲は白い煙を吐き出しながらさらに笑った。
◇◇◇◇
「君ってよく夜中に出かけてるよね」
エレベーターの箱に入ると、城咲は正面を向いたまま話しかけてきた。
「彼女の家にでも行ってるの?」
「そんなのいないすよ」
凌空は話す理由もなければ、隠す理由もない男の、黒々しい髪の毛を見ながら言った。
「先輩の家。独り暮らしだから入り浸ってんの」
「――へえ」
城咲は肩越しに振り返ると、凌空を見つめた。
「家にいるのは息が詰まる?」
「……まあね」
どうせ、思春期男子にありがちな反抗期だとでも思われてるのだろう。
凌空は市川家の事情を知り得ないただの“お隣さん”であるはずの城咲を見上げた。
「言っとくけど、説教とかはいらないから。親だって俺が外出してるの知ってるし」
「うん、そうだろうね」
城咲は間髪入れずにそう言った。
「いいんじゃない?君の両親だって、昔から好き勝手遊んでるみたいだし」
「……昔から?」
凌空は目を見開いて城咲を見つめた。
ポン。
小さな音がして、扉が開いた。
「俺さ、昔、このマンションに住んでたんだよ」
城咲は一歩エレベーターの外に踏み出してから身を返して凌空を振り返った。
「―――じゃあ」
凌空は突っ立ったまま城咲を見つめた。
「13年前は?いた?」
「――――」
城咲は少し目を細めてから、また開いた。
「……いや。その頃にはもう引っ越してたかな」
「――――」
凌空は肩の力を抜いた。
「じゃあ、知らないか」
そしてフッと笑った。
「俺の目のことなんか」
「…………」
城咲はしばらく黙ってこちらを見下ろしていたが、
ポン。
その音が聞こえると、持っていたゴミ袋を投げ出し、自動で閉まろうとしたエレベーターの扉を両手でぐっと抑えた。
「君と、君の目に何があったのかは知らないけど」
城咲が両手に力を籠めると、扉は再び左右に開いた。
「その目によく似た目をした男だったら知ってる」
「………」
凌空は目を見開いた。
「詳しく、知りたい?」
そう言うと城咲は指に挟んだままだった煙草を唇に咥えた。
「…………」
凌空はぐっと唇を噛むと、開のボタンを押した。
「早く、ゴミ捨ててきてよ。待ってるから」
城咲がキョトンと凌空を見下ろす。
「親父が帰ってくるかもしれないから、あんたの部屋で話を聞きたい」
「……ああ」
城咲は軽くエントランスを見回してから笑った。
「相変わらず、家に寄り付かないんだ?市川さん」
「―――」
無言の凌空に踵を返し、城咲はゴミ置き場に可燃ごみを投げ入れると、また戻ってきた。
しかし箱には乗らず、扉の前で足を止めた。
「俺は、君に気を使ったりもしないし、優しい嘘で誤魔化したりもしない」
城咲は静かにそう言うと、両手をスウェットのポケットにつっこんだ。
「それでもいいんだね?」
「――――」
凌空は開のボタンを押しながら城咲を睨み上げた。
「さっさと乗ってよ」
にやりと笑った城咲が右足を上げ、箱に乗った。
凌空がボタンを離すのと同時に扉が閉まる。
2人を乗せた箱は、静かに上昇を始めた。