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「ちょっと待ってて」
城咲は玄関のドアを開けると、廊下の照明をつけて暗いリビングに入っていった。
「――――」
凌空はきょろきょろと廊下を見回した。
城咲がこのマンションに来てからだいぶ経つのに、廊下には所狭しと段ボールの山が置いてあり、まるで越してきたばかりのようだった。
それとも遅れてくると言っていた婚約者が近々引っ越してくるのだろうか。
ガラス戸からわずかに見えるリビングの壁を四角い光が移動する。
「お待たせ。いいよ」
中から声がして、リビングに照明が灯った。
凌空は靴を脱いで、市川家と左右対称の建物に足を踏み入れた。
「どうぞ」
城咲がリビングにでんと置いてあるソファを指さした。
「―――」
凌空はここでもまた辺りを見回した。
やはり異様だ。
5人で過ごせるほど大きなLDKの真ん中におざなり程度に置いてある大きくもないソファとローテーブル。
ダイニングテーブルやサイドボード、テレビさえない。
佐倉の部屋とどこか似ている簡素で殺風景な部屋を見渡し、凌空は言われた通りソファに座った。
「ええとね……」
城咲はノートパソコンをローテーブルに置くと、画像ファイルを開いた。
「……あ、ほらこれ、マンションの前の公園ね」
覗き込むと、そこは確かに見慣れた公園で、そのブランコに幼き城咲と思われる少年が座っていた。
「俺が4、5歳の時かな。父親が死ぬ前だから」
城咲はそう言いながら脇のソファに腰かけると、また新たな煙草に火をつけた。
パッと唇が煙草を離れる音が、静かなリビングに響く。
「城咲さんて、今何歳?」
「――――」
城咲は少しだけ考えてからなぜかニヤニヤと笑いながら首を傾げた。
「30だよ。本当はね」
「――――?」
その言葉の意味が分からなかった。
本当は?
彼は誰にウソをついたのだろう。
「よく、20代に見られるからさ」
眉間に皺を寄せた凌空を見ながら、城咲は鼻で笑った。
まあ、20代に見えなくもない。
しかし30歳も20代もほとんど変わらないだろうなんて、自分が10代だから思うのだろうか。
30歳。この写真に写っている彼が5歳だということは、25年前。
ちょうど輝馬が生まれた頃だ。
「ちょっと待ってね」
城咲が口の端に煙草を咥えたままタッチパッドに長い指を滑らせる。
身長はそんなに変わらないのに、手は全然違う。
血管が浮き出て、節の太いその男らしい手を見てから、視線を画面に戻すと、
「あ……」
そこには、スリングで赤ん坊を抱いた女が写っていた。
「これが、晴子さんだよね」
城咲は表情を変えずにそう言った。
他人のーーしかも若い容姿端麗な男から、自分の母親の名前を聞くのは、背筋に多足類が這うような不快感を覚えた。
画面に視線を戻す。
見張るほどの美人。
シャギーが入った明るい茶髪に、チューリップ帽をかぶり、こちらを振り返っている。
その後ろには俯いた女の子が立っていた。
両手で目を覆って泣いているようだ。
汚らしいワンピース。
擦りむいた膝には絆創膏ではなく、折り込んだティッシュがセロテープで止められている。
すぐにわかった。亜希子だ。
「…………」
凌空は視線だけ、城咲に移動した。
城咲がタッチパッドをタップすると、次の写真が表示された。
遠目で顔まではっきりわからないが、ブランコに並んで座っている男の子と女の子。
仲良さそうに何か話している。
連続写真の2枚目
女の子がポケットから何かを取り出している。
3枚目。
それを男の子が受け取る。
4枚目。
2人で首を傾げて嬉しそうに見つめ合っている。
きっとこれが亜希子と城咲なのだろう。
「…………」
凌空は写真を見つめたまま静止した。
脇に座る城咲の視線を感じる。
こちらを見ている。
画面の写真ではなく、凌空のことをじっと見つめている。
「このときは……」
沈黙に耐え切れず、凌空の方から口を開いた。
「亜希子姉ちゃんもまだ元気だったんだな……」
でもそのうち塞ぎ込むようになっちゃって。
部屋から出て来なくなっちゃって。
学校も行けなくて。
病院にも通ってるんだけど、
何をしてもダメで、
そのうち暴れ出すようになって、
だから家から出ないことをもう誰も攻めなくなって、
――今まで何百回と話したことのある言い訳が胃から喉まで上がってきた。
しかしそれを言う前に城咲は、
「らしいね」
低い声で言った。
らしい?誰かからこの話を聞いたのだろうか。
「健彦さんも、嘆いてたから」
城咲は何でもないことのようにそう言うと、ノートパソコンを自分の方に向けて何かを探し始めた。
親父が?
彼が自分からそんな話をするなんて。
通勤時、または帰宅時に偶然鉢合わせてそんな話になったのだろうか。
『せっかくご厚意でいただいたものを突き返すなんて、失礼だろ!』
凌空の脳裏に、珍しく晴子を叱りつけた晴彦の顔が浮かんだ。
『これから長く付き合っていくご近所さんとの間に、こんなことで亀裂が入ってどうするんだ!』
あのときは、なぜ健彦があそこまで怒らなければならないのかわからなかったが、もしあのときすでに健彦が城咲の正体を知っていたとしたら。
そしてその存在に脅威を感じていたとしたら、わからない話でもない。
『キュウソ、ネコを噛む、だよ』
今度は佐倉の言葉が脳裏に浮かんだ。
『大事なのはパパがなぜ切れたか、じゃない。パパは何に追い詰められていたか、だ』
凌空は視線を城咲に戻した。
『それはきっと、ネコより恐ろしいナニカだろうね?』
そうか。
親父が怯えていたのは、
この男だったのか。
「これ」
城咲はまた画面を凌空の方に向けると、煙草を大きく吸い込んだ。
「この人がたまに晴子さんを迎えに来たよ」
「――――」
凌空はその画面をのぞき込んだ。
車は嫌いではないが20年以上も前の車種はわからない。
しかし日の光を照り返すボディから、高そうなセダンだということは十分にわかった。
運転席から腕を垂らした男に、晴子が嬉しそうに屈みこんでいる。
また連続写真だ。
晴子は助手席に回り、ドアを開けた。
そのままどこかに走り去っていく車。
ブランコに亜希子を残して。
「遠目でよくわかんないと思うけど」
城咲が白い煙を吐き出しながら続けた。
「この男の目が、君の目とそっくりだった」
「――――」
凌空はもう一度画像を戻してその男を見つめた。
当たり前だが父親ではない。
高そうな車、アッシュ色のオシャレな髪型もさることながら、妻の晴子がこんな満面の笑みを浮かべる先に、健彦がいるはずがない。
じゃあ、これは―――?
「先生」
城咲は膝に肘をつき、屈みこみながら凌空をのぞき込んだ。
「先生って言ってたよ。彼のこと」
先生――?
学校の教師?
病院の医師?
絵画教室の講師とか?
あとは小説家とか?
まさか政治家とか?
凌空は首を捻った。
「ま、俺が知ってるのなんて、これくらいだけどね」
城咲はパタンとノートパソコンを閉じた。
そして続きを口にするわけでもなく、今度は足を組むと、白い煙を天井に向かって吐き出した。
「…………」
凌空は城咲を見つめた。
「――俺の目が似てるってことは、その人が俺の父親ってことなのかな」
ここまで来たら取り繕っていても仕方ない。
疑問をそのまま口にしてみた。
「さあ、俺はわかんないな。そもそも君が生まれるのはこの写真から8年後だしね。この男と晴子さんが何かしらの関係があったとして、それが8年間続いたかもわからない」
そこで城咲はまた新しい煙草に火をつけた。どうやらかなりのヘビースモーカーのようだ。
「あとは自分で調べるなり、晴子さんに聞くなりするしかないんじゃないかな」
城咲はそう言うと煙草を指に挟みながら立ち上がった。
「ま、僕の見解を言わせてもらうなら、君は、ちゃんと健彦さんに似てると思うけどね」
今さらと突っ込みたくなるような世辞に、不満そうに振り返った凌空を見下ろしながら城咲は笑った。
「俺はいつも暇してるから、またいつでも好きなときにおいで。待ってるよ」
◆◆◆◆
そんなに長くいたつもりはないのに、帰るころには東の空が少し明るくなっていた。
玄関を抜け、リビングに入る。
静まり返った家。
寝息さえ聞こえない。
「……………」
ーーこの家は、嘘で塗りつぶされている。
健彦も、
晴子も、
輝馬も、
紫音も、
そして自分も。
飴玉を分け合って、微笑んでいた幼き亜希子と城咲の笑顔を思い出す。
あんな風に心から笑ったことなど、この家であっただろうか。
ツンと、鼻の奥が痛くなる。
「ッ!!」
震える息を吸い込むと、凌空は勢いよく部屋のドアを開けた。
輝馬はもう眠っている。
凌空は自分のベッドに滑り込むと、布団を頭から被った。
高級セダンに乗り込む母親の嬉しそうな顔が、脳裏に浮かんで、なかなか眠れなかった。