テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
お伝の住まいは、お初が知っていた。
「裏の長屋ですよ。市電で、四つ目。川のそば」
お初は言って、それから、千歳の顔を見た。
「奥様がお行きになるんですか」
「はい」
「文を、連れてお行きなさいまし」
お初は、止めなかった。止めない代わりに、小さな包みを一つ持たせた。中は、握り飯だった。
「お伝は、手癖が悪くて暇を出しましたけどね。腹が減っていたんですよ、あの子は。それだけは、あたしも分かってました」
お初は膳の上の、何もないところを、指で数えた。
「奥様。あの子を、責めないでやってくださいな。責めるのは、あたしの役です」
「責めません」
千歳は言った。言ってから、本当にそうだと思った。責める言葉を、持っていない。持っていたことがない。
市電の中で、文は珍しく、黙っていた。
窓の外を見て、膝を抱えて、それから、言った。
「奥様。お伝さんのこと、怒ってます?」
千歳は考えた。
「分からない」
「あたしは怒ってます。でも、お伝さん、新聞に売るような人じゃなかったんです。鈍くて、どんくさくて、あたしよりよく転ぶ人で」
文は、そこで口を閉じた。
長屋は、川の匂いがした。
細い路地に、戸が並んでいる。お初に聞いた目印の井戸を探して、三軒目の戸を、千歳は叩いた。
戸が、少しだけ開いた。
三十前の女だった。痩せている。目の下が黒い。千歳を見て、文を見て、戸を閉めようとした。
「お伝さん」
千歳は言った。戸は、閉まりきらなかった。文が、足を挟んでいた。
「御堂の、奥様で、ございます」
「……知りません。何も、知りません」
「新聞のことで」
「知りません」
戸が、押された。文の足が、痛そうに動いた。
千歳は、戸の隙間に、自分の手を入れる。右手だ。痕のある手が、戸の縁を握った。
お伝の目が、その手に落ちる。
「お伝さん」
千歳は言った。声は、小さかった。小さいままで、言った。
「私も、十年、人の家で働いた者です」
戸を押す力が、弱まった。
「冷や飯を、立って食べていました。台所の土間で。暇を出されたら、どこへも行けないと、毎日、思っていました」
お伝の手が、戸から離れた。
千歳は、その手を取った。荒れた手だった。とよの手に似ていた。
「お伝さん。話して」
お伝は、泣いた。
上がり框に座って、握り飯を握ったまま、泣いた。食べなかった。握っていた。
「有明の、奥様の、使いの方が」
途切れ途切れに、言った。
「暇を出されて、三日目に。金を、くださって。御堂のことを、知っている分だけ、話せと。それで、お話ししたら、今度は、分家の旦那様の名前で、新聞の人のところへ行けと」
「分家の、旦那様の名前で」
「はい。分家の旦那様が、お話しになることだと言えば、新聞の人は、信じるからと」
文が、千歳の横で、息を吸った。千歳は、文の袖を、軽く押さえた。
「離れのことは」
「……包帯を」
お伝は、握り飯を見た。
「お初さんが、裏の洗い場で、洗っていたんです。白い布を。血は、ついていませんでした。でも、薬の匂いがして。それを、毎日。あたし、見ていました。見ていただけです。それを、話しました。お金を、もらって」
「分かりました」
千歳は言った。
お伝は顔を上げた。
「明日、御堂の家に来て、同じことを、言ってもらえますか。親族の前で」
「……あたし、は」
「お伝さんが言ったことで、離れにいる人が、世間に出されそうになっています。顔を、焼かれた人です」
お伝の口が、開いた。
「隠れていたい人です。見られたくない人です。お伝さんの言葉で、その人が、見世物になります」
千歳は、お伝の手を、離さなかった。
「お金は、返さなくていい。ただ、来て、言ってください。誰に頼まれたのかを」
お伝は、長いあいだ、握り飯を見ていた。それから、頑いた。
「……行きます」
文が、やっと息を吐いた。
帰りの市電で、文は千歳の隣に座って、小さく言った。
「奥様。怖くなかったんですか。戸に、手を入れるなんて」
「怖かった」
「じゃあ、どうして」
「分からない」
千歳は、右手を見た。戸の縁を握ったところが、少し擦れている。
「でも、文ちゃんが、足を挟んでいたから」
文は、口を開けて、それから、笑った。泣いたあとの顔で、笑った。
帰ったのは、夕方だった。
玄関に、玲司がいた。会社から戻っている。外套を脱いでいない。柘植が後ろに立っていた。
「どこへ行っていた」
「お伝さんのところへ」
玲司は、千歳の顔を見た。それから、文の顔を見た。文が、泣いたあとの顔をしている。最後に、千歳の右手を見た。擦れたところを、見た。
「来ると言いました。明日、親族の前で」
玲司は何も言わなかった。しばらく、言わなかった。
「……戸に、手を」
「はい」
「そうか」
柘植が、後ろで時計を見た。見て、懐に戻さずに、持ったままでいた。
「叔父が、明日、親族を連れてくる」
それから、言った。
「明日、離れを開ける。叔父の前で。それで、終わる」
千歳は、式台の下に立っていた。
開ける。離れを。顔を焼かれた人を、恭介の前に。親族の前に。それで、終わる。噂は、終わる。
「お待ちください」
玲司が、振り返った。
草原草原(くさはらそうげん)

1,567
瑠璃マリコ
46,527
コメント
1件
### 寺島あおい からの感想 お伝さんの長屋を訪ねる千歳さんの姿、胸に迫りました。特に「私も、十年、人の家で働いた者です」という言葉でお伝さんの心がほぐれていく瞬間、本当に素敵でした。責める言葉を持たず、むしろ手を差し伸べる千歳さんの強さと優しさが際立つ回でしたね。文ちゃんが足を挟んで戸を閉めさせなかった気遣いも泣けます。明日の親族集め、どうなるんだろう…玲司さんの沈黙がまた重くて。続きが気になります!