その日は、何も特別なことがない日だった。
テストもない。
行事もない。
ただ、いつも通りの放課後。
なのに成瀬は、朝から落ち着かなかった。
——今日、言う。
理由はわからない。
でも、先延ばしにしたら、もう言えなくなる気がした。
放課後。
昇降口には、もう黒川蒼がいた。
「待たせた?」
「今来たとこ」
相変わらずの、嘘か本当かわからない言い方。
二人は並んで歩き出す。
夕方の校舎は、人が少なくて静かだった。
成瀬は、何度も口を開きかけては閉じた。
蒼が、気づいて言う。
「……話ある?」
「ある」
即答だった。
校門の少し手前。
二人は立ち止まる。
成瀬は、深く息を吸った。
「俺さ」
声が、少し震える。
「まだ怖いこともあるし、正直、全部割り切れてない」
蒼は黙って聞いている。
「でも」
成瀬は、蒼をまっすぐ見た。
「蒼と一緒にいるの、やめたくない」
一瞬、風の音だけが通り過ぎた。
「だから」
逃げずに、言った。
「付き合ってほしい」
短い言葉。
でも、今の成瀬に出せる全部だった。
蒼は、少し驚いた顔をしてから、ゆっくり息を吐いた。
「……やっと言った」
「え?」
「俺、何回も覚悟してた」
冗談みたいな口調なのに、目は真剣だった。
「答えは?」
成瀬が聞くと、蒼は少し近づいた。
でも、触れない。
「もちろん、いい」
その一言で、胸の奥がほどける。
「今日から?」
「今日から」
蒼は、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、公式な」
「……公式?」
「俺の彼氏」
成瀬の顔が、一気に熱くなる。
「その言い方……!」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
蒼は満足そうに頷いた。
「学校では無理しない」
「うん」
「でも、隠しすぎもしない」
「……それも、うん」
二人は並んで歩き出す。
帰り道、蒼が小さく言った。
「成瀬」
「なに」
「俺、選ばれたの嬉しい」
その言葉に、成瀬は照れながらも答えた。
「俺も……選んでくれて、ありがとう」
校門を出る直前。
誰も見ていないのを確認して、蒼が小さく言う。
「名前」
「え?」
「蒼って、呼んでいい」
成瀬は一瞬ためらってから、静かに呼んだ。
「……蒼」
それだけで、蒼の表情が柔らかくなる。
——もう、戻れない。
でも、それでいい。
二人の関係は、今日から“公式”になった。
まだ周りには全部言えない。
でも、確かに。
放課後、名前を呼べる関係になった。






