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ああ、そうか。
俺は足りなかったんだ。
だから──どうするんだ、俺は。
まだ店を開けるには早すぎる時間。
工房で鎚を振るう1人の男がいる。
ひとつ打つごとに鉄は鍛えられ、次第にその姿を現していく。
男の額には玉のような汗が浮かび、眉間から伝って鼻先より落ちた。
赤色と橙色が照らす中でジュッ……と汗の焼けた音がする。
まだ街が寝静まる中でここだけが時計の針を進めている。
男は汗を拭いもせず、ただひたすらに鎚を振るう。
鉄と鎚が奏でる音が響く工房は、しかしそれが近所迷惑なんて事になったりはしない。
誰もここで男が作業をしてるなど気づきもしない。
街は静けさに包まれている。本当に人が住んでいるのかも疑わしいほどに。
男の前にはいくつかの作品が並んでいる。
そこは誰も立ち入らない男の倉庫。
そこに一振りのロングソードが仲間に加わった。
青く光る刀身は、それがその男の打った物である事を示す輝き。
如何なる魔をも断ち切る一振りは遣い手を選ぶ。
おおよそこの街などで1番だなんだと争う程度の者に扱えるものではない。
何故なら男が自分が使うこと以外を想定していないスペックだからだ。
男は自覚している。この世界において自分が特別だと。
そしてそれは別に素晴らしいことでは無いことも。
己の為した事の始末をつけなければならない。
世界を救うだとか、魔王を退治するだとか大それた事では無い。
あくまでも1人の願いから始まって、己の無力さが招いた事でしかない。
男は壁にかけたものから1つを手にしてまだ月の輝く空の下、闇に紛れるように跳躍した。
深い森の奥に男と一頭の獣。
全身を黒く染めた獣は見上げるほどに大きな虎だ。
黒い毛並み、ではなく立ち昇る魔力がその輪郭すら不鮮明なものにしており、なのにその双眸ははっきりと紅く男を見下ろす。
『終わりが近づいている。我はその始まりである。これより魔がお前を訪ねるだろう。その全てを退けよ──それは呪いの化身。お前が引き起こしたものなのだから』
黒の虎はその魔力の煙を膨らませて撒き散らしながら唸る。
「言われるまでも無い。待ち焦がれていた、この時が来るのを」
月明かりだけが彼らを映している。
その明かりも虎の闇に阻まれて男は視界を失った。
『この身が最初となる。死か、生か。いずれかを掴むがいい』
闇に包まれても男は悠然とタバコを咥えて佇むばかり。
そして手に持った鞭で虎の横っ面を打ち据えた。
話し相手の居なくなった森で男はひとり呟く。
「死ぬのはまだ後なんでな。お前たちが運んできてくれるなら全て受け取ってくれる」
そうだ。俺のやるべき事はそうだったんだ。待っててくれ、エミール、バレッタ──。
男が工房に戻ると次第に職人たちの音が聞こえてきだす。
外もしだいに明るくなってきて、街が目を覚ましていく。
男も自分のためにコーヒーを淹れて、定位置のカウンターに座り本を片手に店番をする。
永く変わらない1日の始まりだ。
カランカラン、と音を立ててドアが開く。
「いらっしゃい」
どうやら客が来たようだ。