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観光登山の第一陣。それに連れて行く人々はすぐに集まった。 人の欲というのは、時として恐怖に勝るという言の通りである。
肌に付ければ途端に十代の若者のような瑞々しさになり、飲めばどんな不調もたちどころに治るあの水。
それが滾々と湧き出る泉に行けると言われて、欲に向かって突っ走る者の十や二十、集めるのは造作もない事だ。
とはいえ、連れていけるのは五人なので、そこから絞り込むのは少々手間であったが。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。このシトリン・ドゥ・サフィニア、皆様のご期待に添えるよう、精一杯努めさせて頂きます」
選んだ五人は皆、特別な立場ではない人間、いわゆる一般人だ。
湯汲みの衆の一人、ザックが推挙した竜山亭の女将も居る。
実は、観光登山最初の希望者は彼女であった。
ザックから、山に登ればあの水が使い放題だと聞いたら、まるで躊躇う様子も無く参加を決めた。
筋骨隆々としたザックが『竜が怖くて元気が出ない』と弱音を漏らす姿を嘲笑いもせず、それに全面同意していたというのに
あの山、もとい温泉には、その感情さえも吹き飛ばすほどの魅力があった。
その他の四人も似たような物だ。
温泉水の魅力を知り、その源泉に行けるとなったら、一も二も無く飛びつく。
「もし危険な事があっても、わたくしが使っている荷運びに衆が守ります。ご覧ください、この屈強な身体、頼もしいではありませんか」
シトリンは、手を男衆の方に向け、登山客達に紹介した。
実際の所、荷運びをする者の上位層は、筋肉だけではなく脂肪も付いていて、中年太りをしたそこいらの親父のような見た目をしていたりする。
しかし人々を安心させるのためになら、こういう、見た目だけは立派な男の方が、頼りがいがあるように見えるだろう。
シトリンはそこまで分かった上で、登山客に紹介したのである。
シトリンは、皆の恐怖心を取り除くために、今日初めて会った登山客に向かって、終始にこやかな笑顔で接している。
「山の二合目までは、馬車で向かいますが、そこから先は石や火山灰で道が悪くなっており、馬車では進めません。とはいえ、決して険しい道ではございませんので、ご安心ください」
登山着姿のシトリンは、朗々と、お姫様然とした澄んで落ち着いた声で、登山についての注意事項を説明している。
登山着という、機能性重視の無骨な服を着ていても、その仕草や口調は実に嫋やか。
集められた登山客は、流石は王女様だと感心し、シトリンの言葉に一層の説得力を感じた。
「では、出発いたしましょう」
登山客と男衆、そして登山客は二台の馬車に分乗し、城下町を出発した。
*******
「ザック、アンタも付いてくるのかい!若いモンが居ると助かるねぇ!」
後方を行く馬車の中、竜山亭の女将は必要な音量よりはるかに大きい、やかましいとさえ言える声で、ザックに話しかけていた。
隣に座っているのだから、馬車の騒音を加味してももっと小さい声で十分会話ができるのだが、ゴロツキが集うやかましい食堂の女将は、これが常でないと仕事にならないから、大声が癖になっている。
「付いては行くけどよ、これは誰でも山に登れるって証明するためのもんだから、出来るだけ自分の力で登ってくれよ」
こちらの茨さん🖌️
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ザックは、鼓膜を揺らす女将の大声に辟易しながら答えた。
歩荷を生業とする者、背負子に人間を乗せて運ぶ事くらいは朝飯前だ。
とはいえ、今回の登山は実証実験のような物で、特別な訓練もしていない一般人が登れる事を示すのが目的である。
誰かが担ぎ上げたのでは意味が無い。登山客全員が自力で登れなければ意味が無いのだ。
「あらそうかい。ま、竜が怖くてピーピー言ってたアンタに担がれるくらいなら、自分で登るさ」
女将は豪快に笑いながら、ザックの背中をバシバシと叩き、同乗している登山客も釣られて笑った。
するとザックが、急に神妙な面持ちになった。女将を含む登山客は、ザックの気分を害してしまったのかと思い、一斉に笑うのを止めた。
もしザックが暴れるような事があったら、登山家ではとても止められないし、荷運びの衆同士でケンカになったら、狭い馬車の中は大惨事になるだろう。
皆が不安を覚えた所で、ザックが口を開いた。
「いや……それがよ、この前姫様が竜と一緒に湯に浸かってるのを見てから、なんか平気になったんだよ」
一同は、とりあえずザックが怒った訳ではない事を知って安心した。そして、男衆がザックに同意して後に続く。
「いや、サボっててどやしつけられたりした時は、やっぱ怖いんだけどよ、あそこに居るだけで怖くてたまらねえって事は無くなったな」
「おお、俺もそうだぜ。姫様は危なくねえって言ってたけど、実は信じてなかったんだ。でもよ、女が真っ裸になっても怪我一つしてねえのに、俺たちがビビってる道理はねえなってよ」
男達が、口々に赤竜に対する恐怖が薄らいだという旨を語ると、車内は再び和やかな空気になった。
馬車二台は、どちらも楽しい雰囲気のまま、グレンヴァル山の二合目まで辿り着いた。
竜の巣に行くには、ここから山の裏側までぐるりと回りながら、五合目まで登る事になる。
距離に対して登る高さは少ないから、傾斜は緩い。
明るくさえあれば、なんてことは無い登山道だ。無理矢理直線的に登ろうとすると、途端に危険性が上がるが、この道なら安全そのものだ。
シトリンを先頭に、一行は山道を歩き始めた。
先頭を行くシトリンは、まずは普段通りの早さで歩き、登山客が遅れたらペースを落とすつもりだったのだが、平気な顔で付いてくる。
それどころか、大声でお喋りしながら、時には歌の一つも歌ったり、不満の一つさえ漏らす様子も無い。
単純に体力があるという訳ではなく、この後に楽しみが待っているから、全く苦に感じていないようだ。
登山客よりよっぽど体力のある男衆は、最初の登山の時、愚痴ばかりこぼしていたというのに。
シトリンとしては、もう実証実験は終わったようなものだと感じた。誰だってこの山に登れるという事の証明が、早くも成されたという事だ。
あとは温泉に浸かって、楽しい思い出を持って帰ってもらい、それを市中で喧伝してもらえれば、観光客が増え、いずれは他国からも観光客がやってくるかもしれない。
少々、皮算用が過ぎるような気もするが、ここまでは計画通りに進んでいるから、今後も万事上手く行きそうという、根拠の無い自信を持ってしまうのは仕方の無い事であろう。
そして、ついに登山客一行は、竜の巣、つまり、温泉がある場所までやってきた。
そこには、巨竜が出入り出来るほどの大穴があり、中から硫黄臭を纏った熱気が流れ出ている。
登山客は、その洞穴の雄大さにまず驚いた。
「でっかい洞窟だねぇ」
女将が、思わずといった様子でつぶやいた。
「この中に、癒しの竜神様がおられます。くれぐれも失礼の無いようお願い致します」
シトリンが一礼しながら登山客に注意を促す。彼女としては、念の為に一言触れておくだけのつもりだったのだが、登山客達には少しばかりの緊張が走った。
シトリン姫殿下が安全を担保してくれているとはいえ、竜が恐ろしい生物であるという意識は依然として残っている。
この巨大な洞窟に出入りしているのだから、それ相応に巨大な竜に違いない。
無調法をしでかしたら、どんな目に合うのかと思うと、これまで一つも感じていなかったはずの怖気が顔を出す。
ここまでは楽しい道のりだったが、この中に入るのをためらう気持ちが湧いてくるのは、皆同じであった。
シトリンは、登山客の心に不安が広がるのを感じ取り、かつそれに気付かないふりをしながら、さっきの話の続きをするように語りかけた。
「竜神様はお優しい御方ですから、よほどの事が無い限りはお怒りにならないと思います。ですが、常に敬意を忘れないようにしてくださいませ」
そこに、ザック達男衆が口添えする。
「俺たちみてえなのが許されてんだから、そうそう怒ったりはしねえよ」
登山客の中では、一番の年長者である女将の肩に手を置きながら、ザックは言った。
すると女将は「それもそうだね」と豪快に笑った。
おかげで、登山客を包んでいた緊張は解けたわけだが、男衆が自虐的に言った『俺たちみたいなの』という言葉を誰も否定せずに飲み込んでしまったので、彼らには少し微妙な空気が漂った。