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女子生徒が呟くように聞かせてくれた話の内容は、以下の通りだ。
つい数日前のこと。
文芸部に所属する彼女は、この夏に行われる朗読会の準備のため、遅くまで学校に残っていたのだという。
よほど集中していたのか、気がつくと他に部員の姿はなく、外はもう真っ暗になっていた。
早く帰らなきゃ!
彼女は慌てて帰り支度を始めた。
早く帰らなきゃ。早く帰らなきゃ!
今日は見たい番組があったんだ!
筆箱をカバンに入れる。
書類が綴じ込まれたバインダーを所定の位置に返す。
鍵を手にして、忘れ物がないか手早くチェックする。
引き戸を開けて、暗い廊下に出る。
「……さま…………」
今日は見たい番組があるし、急がなくちゃ!
「……ひ……さ……」
その前に、まずはお風呂に入って。 ご飯を食べて……。
「ひめ……さ……」
「…………っ!」
そこで、とうとう我慢の限界を迎えた彼女は、はたと思考を止めた。
「………………」
あのまま無視を続けていれば、聞こえないフリを決め込んでいれば、どんなに救われたことだろう。
もしくは、ただちに走って逃げてしまえばよかった。
そんな風に後悔しても、時が巻き戻ることはない。
「…………………」
耳を澄ます。
特に音はない。
梅雨期における空気の重さが、鼓膜にじっとりと張りつくのみで、際立った音を拾うことは出来なかった。
強いて挙げるとすれば、車の走行音か。 近辺の市道を、時おり通りかかる自動車が何台かあった。
それら“生”の実感も、すぐに遠くへ走り去ってゆく。
「………………」
怖々と、辺りに視線を巡らせる。
長い廊下の先は、どっぷりと暗闇に飲まれており、濁った海中のように視界が悪い。
今夜は月も出ていないのか、整然と並ぶ窓ガラスは、街灯の頼りない明かりをひっそりと反射するのみだった。
「………………」
湿気を大いに含んだ宵の空気が、漫然と肌身にまとわりついてくる。
けれど、それも現状では──、彼女にとっては、ひどく空々しい印象でしかなかった。
暑さが目立ち始めた時季なのに、不思議とそうは感じない。
むしろ、自分の吐息はいま真っ白な色をしているんじゃないか。そんな錯覚さえする。
頬をひとすじ、汗が伝い落ちた。
冷たい汗だ。
「………………」
廊下にひとり、ジッと立ちすくんだ女子生徒は、ひたすら耳を澄ます作業に没頭した。
“聞きまちがい”
“気のせい”
かたく念じ、自分に言い聞かせる。
そういった思考を、何度も何度も空転させ続けた。
「……うん!」
“やっぱり、気のせいだった”
どれほど時間が経ったか。
やがて、辛くも折り合いをつけた彼女は、息を長く長く吐き出した。
「そうよね? そんな事あるはず無いし……。 あはは。 疲れてるのかな? あっ、早く帰らないと!」
人間だれしも、余計な緊張を経ると多弁になる。
それが独り言であろうと、会話であろうと。
「えっと? まずは鍵! うん! カギ鍵ぃ! ちゃんと職員室に返さないとね」
「……ひ……さ………」
「え……」
すぐさま背筋が凍りついた。
瞬く間に、全身に鳥肌が立つのを感じた。
「ひめ……さま……」
満面から血の気が失せ、図らずも奥歯がカチカチと音を立てた。
「………………」
彼女の耳は、たしかに聴いたのだ。
「姫さま……。 姫さまぁ……」
濡れた真綿がズルリと撓み、水滴を揺り落とすように。
あるいは、ガラスの表面をきぃきぃと掻き毟るように。
「えぅ……。 姫……、姫さまぁ……」
何処からともなく聞こる声が、すすり泣くような声が、そう呼び続けていたのだという。