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ロビーは仄暗く、冷房の風が足元を這うように吹き抜けていた。司は、ソファに沈むように腰を下ろした。柔らかすぎるクッションが、むしろ落ち着かない。
アイスショーの打ち上げ帰り。乾いた喉を缶コーヒーでごまかしながら、自販機の明かりだけがぼんやりと手元を照らしている。長居するつもりはなかった。打ち上げ会場の居酒屋には、形式だけ顔を出してすぐに引き上げた。
金がない。今夜も、明け方までのバイトが待っている。
指先にはまだ、リンクの冷たさが残っていた。感覚は確かにそこにあるのに、心はどこか、ふわりと宙を漂っているようだった。
その時、不意に──声が降ってきた。
「……君、お金ないの?」
不意に降った声に、司は小さく身を震わせた。
それは、どこか懐かしくて、それでいて今の自分にはあまりにも現実感のない響きだった。静まり返ったロビーに、その声音だけがくっきりと切り取られる。
──この声を、知っている。
まるで、夢の中で何度も聞いた声が、現実に滲み出してきたような。喉の奥がひりついた。缶コーヒーの苦味とは違う、胸の奥を焦がすような熱に、指先がわずかに震える。
振り向くと、そこに立っていたのは、夜鷹純だった。
壁際の柱にもたれかかるように立ち、片手に細い煙草を持っている。姿は変わらない。いや、変わらなすぎて──現実味がないほどだ。
スの襟元からのぞく喉元の白さ。伏せたままのまなざし。灰色の影のように、音も気配もなく現れて、そこに佇んでいた。
──どうして。
今ここに、どうして彼が。
「え……あの……」
言葉が詰まり、喉の奥が張り付いたように動かない。
混乱よりも先に浮かんだのは、妙な懐かしさだった。数年前、画面越しに見ていた彼が、遠くて、まぶしくて、触れることなどできない存在だった。
その彼が今、こんな場所にいて──そして、あまりにも自然な口調で、突然「お金がないのか」と尋ねてきた。
まるで「今、雨降ってる?」くらいの、当たり前の会話のように。
思わず、司は苦笑した。
「……ないですよ。だから夜勤でバイトしてるんです。コンビニとか、倉庫作業とか、イベントの設営も……ときどき」
「ふうん」
煙草の先が小さく揺れる。けれど純は笑わなかった。
その表情には、かつて氷上で見た華やかさや、自信に満ちた光はない。代わりにあったのは、乾いた無表情と、何かを押し隠すような深い静けさだった。
彼は、変わった。いや──壊れてしまったのかもしれない。純は何ひとつ表情を動かさず、ふ、と煙を吐いた。その顔には、憧れていた頃の彼の面影が、確かにまだあった。
けれど──どこか違っていた。
微笑まない頬。冷えきったままのまなざし。それらすべてが、彼の纏う空気をどこか「壊れている」と感じさせた。
そして、ぽつりと、投げられるように言葉が落ちる。
「……もし、僕がお金を用意したら──君は、何かしてくれる?」
「……え?」
意味がわからなかった。一瞬、何を言われたのかも把握できず、ただ目を瞬いた。
仕事の紹介だろうか? それとも、スケート関連の話?
──まさか、そんなはずはない。
「……どういう意味、ですか?」
ようやく問い返したそのときには、彼の背中がすでに遠ざかりかけていた。純は何も答えず、ただくるりと踵を返して歩き出す。 長身に沿ったスーツの裾が、ゆるく揺れる。
「──ちょっ、おい……!」
司が慌てて立ち上がったときには、純の背中は建物の奥、角の向こうにすでに消えていた。
▽
翌日――空はよく晴れていたけれど、司の心には、どこか薄い靄のようなものがかかっていた。
駅前から伸びる広い通りを抜けた先。高級ホテルのエントランスを目の前にして、彼はしばらくのあいだ、建物の外から中を見つめていた。
足元には、無機質なタイルの床。その上に、知らず知らず視線を落とす。
──なんで来たんだろう。
問いかけても、答えは返ってこない。
自分の中にも、それを正しく言葉にできるだけの理由はなかった。
ただ、あの声が、脳裏にずっと残っていた。昨夜の薄暗いロビー。突然投げかけられた言葉。缶コーヒーの苦味と、純のまなざし。
何もかもが、不自然で、不穏で、それでもどこか懐かしい匂いがした。
気づけば、足はホテルのロビーを踏みしめていた。
ゆるやかなカーペットが靴音を吸い取って、世界から音がひとつ消える。
そこにいたのは──あの男だった。
純は、背後の喧騒とは別の時間軸にいるように、静かに立っていた。昨日と同じように仕立てのいい真っ黒な服装に身を包み、手にはシンプルなスーツケース。 姿勢は整っているのに、全体からにじみ出るのは、なぜか「壊れかけた静寂」だった。
彼が視線を司に向けたとき、その目に揺らぎはなかった。
まるで、最初から司がここに現れることを知っていたかのように。
「上に来て。……君のために、部屋を取った」
低く、静かな声――淡々としているのに、なぜか心の奥を小さく叩かれる。
拒むことはできた。ここで首を振って、背を向ける選択肢だって、ちゃんとあった。
けれど──司の足は、自然と純のあとを追っていた。
カードキーが読み取られる音は、ほとんど聞こえなかった。重厚な扉が、ゆっくりと、何かを飲み込むように開いていく。
踏み入れた瞬間、空気が違った。
まるで密閉された空間に、感情の温度だけが取り残されているような、静かな緊張感。
高層階――窓の外には、東京の夜景が一枚の絵のように広がっている。きらびやかなのに、どこか寂しい光だった。
ベッドの上には、一枚の皺もないシーツ。家具は完璧に整い、無機質なほど美しかった。
──こんな場所、自分には似合わない。
そう思った。
部屋の中のすべてが自分を拒んでいる気がした。あまりに清潔で、あまりに整っていて、それがかえって不安を掻き立てる。
「……入って」
その声に振り向くと、純はもうソファに腰掛けていた。ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖をまくって、足を組んでいる。煙草の煙が淡く揺れて、彼の輪郭をひどくぼやけさせていた。
その姿は、どこかしら、夢の中の幻のようだった。現実と妄想のあいだにある境界線が、すっと溶けていく。
司は、ゆっくりとドアを閉める。背後で音を立てて閉じたその扉が、まるで外界とを隔てる檻のように思えた。
部屋の中は、妙に静かだった。
時計の針の音すら聞こえない。
その沈黙に耐えきれず、司はふと口を開いた。
「……すごい部屋ですね」
声が空間に滑っており、純は答えない。そのまま、視線を自分の隣に置かれた黒いバッグへと落とす。
そして、ゆっくりと、ファスナーを引いた。
ジィ……という小さな音が、やけに鮮やかに耳に残る。バッグの中から取り出されたもの──それは、束になった現金だった。
「……っ!」
紙幣がテーブルの上に落ちていく。
ばらばらと広がる音が、生々しかった。
誰かの命を削って積み上げたような重さが、視覚にも聴覚にも刺さってくる。
冗談だと思いたかった。司の喉が、乾いたまま動かない。
「……な、なんですか、これ……」
苦しいくらいに小さな声。吐き出すたび、心臓がずしりと重くなる。けれど、純のまなざしは変わらない。
「君に、これを渡す代わりに──僕が欲しいもの、ただひとつだけ」
静かだった。その静けさが、かえって恐ろしかった。
「……なにを……」
「僕のモノになってよ、司」
その言葉が落ちた瞬間、時が止まったような気がした。
ああ、これは冗談じゃないんだ、と。
まるで自分の価値が、この札束の重みで測られているような。目の前に置かれたものは金ではなく、選択だった。苦しいくらいに胸が締めつけられた。
静まり返った部屋に、空気が凍るような沈黙が落ちる。
テーブルに無造作に置かれた札束。その存在感があまりにも生々しく、視線を逸らそうとしても、脳裏に焼きついて離れない。
「……あの」
司は、喉を震わせて声を絞り出した。
「冗談、ですよね……?」
けれど、純の瞳はひとつも揺れなかった。言葉の代わりに、その静けさだけが返ってくる。
冷たい。なのに、底のほうに確かに熱がある。
──炎じゃない、溶岩のように、粘性を帯びて、心の奥をゆっくり蝕む熱。
「……俺のことを、そういうふうに見てたんですか?」
どのような言葉を投げかければいいのかわからず、無意識に唇が自然にそれを選んでしまった。
「お金を積まれたら、誰にでも抱かれるって。……そう思われてたんですか?」
純は沈黙を続けたまま、ただこちらを見ている。無表情のまま。けれど、どこか息を潜めて何かを待っているような目だった。
静かな狂気。それは怒りや暴力よりもずっと質が悪い。
感情という名の刃を隠して、理性の皮をかぶって、それでも確かに人を壊していく。
「俺、純さんのこと……ずっと尊敬してたんです」
気づけば、言葉が溢れていた。
「スケートも、演技も、表現も。……全部、夢みたいで。
少しでも近づきたくて、努力して……それなのに」苦笑が漏れる。笑ってはいけない場面なのに、皮肉のように唇が歪む。
「こんなふうに……値段をつけられるなんて、思いませんでした」
目の奥が、じんと熱くなる。悔しさか、悲しさか、それとも自分自身への情けなさか。
けれど、それでも──。
「申し訳ないですが。そういうお金には、応えられません……俺、帰ります」
司はそう言って背を向ける。逃げたかった、からこそ自分の感情が壊れる前に、この場所を離れたかった。
しかし。
「……じゃあ、どうすれば、君は僕のものになるの?」
その声は、背中に突き刺さるように落ちた。冷たいくせに、ひどく熱を帯びていて、まるで内側から皮膚を焼くようだった。
「……え……?」
思わず振り返ろうとした瞬間──背後に気配、そして、腕を掴まれる。
「俺……何も……っ」
「来たじゃないか、司」
その声は、低く、穏やかだった。
けれどそこに宿る支配の色は、笑顔よりも残酷だった。
「君は、自分の足でこの部屋に来た」
「……それは……あなたが、呼んだから……!」
「でも、来た。断ることもできたのに」
純の身体が、じりじりと距離を詰めてくる。
司は無意識に後ずさり──背中が、扉にぶつかった。逃げ道は、もうどこにもなかった。
「君の声も、動きも、演技の癖も……全部、僕が一番近くで見ていた」
囁くような声が、鼓膜を焼く。
「泣き顔も、笑い方も。どうすれば君が動揺するのか、全部知ってるよ」
「や、やめてください……っ」
言葉が震える。視線を逸らそうとしても、純の目がそれを許さなかった。
「なのに──どうして、他人にだけ笑うんだ?」
その一言に、司の鼓動が跳ねた。
予想もしなかった方向から、心の奥を射抜かれたようだった。
「……っ……俺、なにを……っ」
「僕には、笑ってくれなかった。なのに、他の誰かには……笑うんだね」
純の手が、司の顎に触れた。指先は冷たく、けれどその奥に潜む温度は、妙に熱かった。
「じゃあ、教えるよ。……君が、僕のものになるまで──全部、教える」
その目は、静かに狂っており――次の瞬間、唇が重なる。
「……っん、んむっ……や……っ!」
柔らかいくせに、一切の逃げ道を許さない接吻。
舌が、唇を割って押し込まれ、口内を這う。煙草の苦さと混ざり合った体温が、のどの奥を痺れさせる。
「っは……や、やめ……くださいっ……!」
「やだ」
低く、穏やかに。それでも、絶対に揺るがない声。その言葉と同時に、司の身体は扉から引きはがされ、強引にベッドの上へと倒された。
視界がぐらりと揺れ、背中をシーツが受け止める。純の身体が重なる。動けない。
「……君は、誰のものにもならないくせに、あまりにも無防備だ」
そう言いながら、純はワイシャツのボタンを、ひとつずつ外していく。その手つきが丁寧すぎて、逆に怖い。
指先が、肌に触れた瞬間──司は、反射的に息を呑んだ。
「だ、だめです、やめて……っ」
「……初めて、だよね。わかってるよ」
その言葉に、ぞくりと背筋が震えた。
なのに、声は優しい。なにもかも知っていて、あえて奪うように。
「だから、最初から……全部、僕が教える」
▽
ワイシャツの布地が擦れる音が、異様に鮮明に聞こえた。
ゆっくりと剥がされていくのは、布ではなく、司の理性だった。どこにもぶつけようのない羞恥と不安が、胸の内で暴れまわっている。
──これは現実だ。夢ではない。逃げられない。
「……だ、だめです……やめて……っ……俺、そういうの……初めて、で……っ」
必死の言葉も、かすれる声で空気に溶けていく。純は表情を変えず、低く囁いた。
「……知ってる。……君のことは、全部、知ってるよ」
そう言って、ゆっくりと指先が胸元をなぞった。震えた。皮膚が、鼓動と共に打ち震える。
次の瞬間──舌が、乳首に触れた。
「ひゃっ……! あ、や……っ!」
濡れた感触が肌を這い、司は反射的に身をよじる。けれど、逃げられない。純の手がしっかりと肩を押さえていた。
「……ここ、感じるんだね」
「ちが……っ、そ、んな……!」
震える声が、涙混じりに途切れていく。舌が吸い上げ、唇がやわらかく乳首を包む。じゅっ、ちゅ……と濡れた音が部屋に響くたびに、理性が遠ざかる。
「や……やめ……て……っ、やめてください……!」
そう叫ぶたび、言葉とは裏腹に、身体は確実に反応していた。下着の奥が熱くなり、下腹部がきゅっと縮む。
自分でも信じられなかった。
こんな状況で、どうして身体が裏切るのか。
「……司。君の身体、正直すぎる」
純の指先が、下着越しにその硬さをなぞる。
「っあ、や……ッ、だ……っ、やめて……!」
「やめないよ。君が全部受け入れるまで──僕は止まらない」
唇が、肌を這い降りていく。
くすぐるように舌が腹筋をなぞり、下腹に触れた瞬間、司はびくりと跳ねた。
次に、下着の中へと指が滑り込む。
「っく……ぅあっ、や……っ……!」
指先が、敏感な先端をゆっくり撫でる。
そこから逃げたくて腰を引こうとするが、足が言うことをきかない。
「……やめ……て……っ、お願い……っ」
涙が頬を伝い落ちる。けれど、純は何も言わず、そのまま口元をそっと下へと沈めた。
「っ……ま、待っ……!」
瞬間、熱が走る。
「ん、っふ……んちゅ……じゅる……っ……」
口に含まれた感触。舌が絡みつき、敏感な部分をぬめりと包み込む。
その快楽は、あまりにも鮮烈だった。理性では到底抗えない、純粋な身体の反応が暴走していく。
「っひぁ……っ、く……やっ……やだ、そんな……ッ!」
「……感じてるね。ほら、もう……こっちも素直になってる」
熱が、根元まで含まれる。舌が先端を撫で、唇が甘く吸い上げる。
「っ、そ、それはっ……違っ……! んぅ、あっ……ああああっ!」
ぐらりと視界が歪んだ。
瞬間、下腹がきゅっと締まり、司の身体が大きく跳ねる。
「ひっ……くぅ……っ、あっ……!」
──絶頂。
全身が痺れるような快感に包まれ、息が乱れ、目の焦点が合わない。それでも、純は手を離さない。むしろ、さらに深く唇を押し当てた。
司は、肩で荒く息をしながら、ぐったりとベッドに沈み込む。まだ、身体の奥に余韻が残っていた。じんじんと疼く、知らなかった熱。
なのに──純の声が、耳元でまたささやく。
「……これが、最初。でも、君が本当に僕のものになるには──まだ、足りない」
再び、純の唇が重なった。
全身の力が抜けていく。達したばかりの身体は、まだ痙攣するように震えていた。
なのに──純は、その熱の余韻を見逃さない。
唇が、また下腹に触れる。まだ敏感なそこに、冷たい指先がそっと添えられた。
「……もう、いいでしょ……っ……やめ、て……っ」
息が乱れ、声にならない。なのに、返ってくるのは、いつもの淡々とした声音だった。
「……君はまだ、全部知らない」
純の指が、するりと下着の中へと滑り込む。
精液でぬめった先端に触れられた瞬間、司はびくんと跳ねた。
「っ、いっ……! ひっ……やっ……!」
「ふふ、ほら……もう、こんなに……」
ぞっとするほど冷静な声だった。まるで、相手の壊れ方を観察して楽しんでいるような、理知的な狂気。
「ねぇ、司。身体は、正直に僕を受け入れてるんだよ。わかる?」
「ちがっ……ちがいますっ……! 俺は……っ……!」
拒絶する言葉とは裏腹に、熱は下腹に集まり、先端がまたじわじわと硬さを取り戻していく。
「……おかしいよね。嫌がってるのに、反応してる。どうしてかな──ねぇ、答えてよ、司」
「やっ……やめろ、やめろっ……っ、やめて……っ!」
泣き声のように崩れる声。けれど、純は一切の情けを見せない。
「君、笑うときも、泣くときも、演技してるみたいだった」
その言葉に、司の目が見開かれる。
「だからずっと──本当の君が見たかった」
静かに、けれど決して揺るがない調子で、純は言った。そのまま、司の脚をすっと抱え、腰を開かせる。
「っ──やっ……やめて……っ、ほんとに、やめて……!!」
ベッドの上で暴れるが、足はもう力が入らない。さっきの絶頂で、全身がふわふわと痺れている。それでも、逃げたくて、腕で自分を守ろうとする。
けれど──
「そんなふうに、震えてる君も……僕しか、知らない」
純の手が太腿を撫で、慎重に、けれど強く開いていく。その目は一切逸らさない。むしろ、ゆっくりと観察するように、司の身体を見つめている。
「っ、見ないで……っ、いやだ……っ」
「もう全部、見るよ。知る。触れる。奪う……だって、君は僕のものになるんだから」
言葉のひとつひとつが、理性を剥ぎ取っていく。指先が、後ろの柔らかいところに触れた。
震えが走る。冷たい。だけど、それ以上に、知ってはいけない快感が、ぞわりと脊髄を駆け上がる。
「ん、んっ、やだっ、やだやだっ……!」
「ほら、こんなに震えてる。拒んでる? それとも、期待してる?」
「ちが……ちがうっ……! 俺は、そんなんじゃ……!」
「なら、ちゃんと抗えばよかった。──でも君は、ここに来た」
もう何度も、その言葉が繰り返される。
事実。それだけが突き刺さる。否定できない、選んでしまった過去。指がゆっくりと押し入ってくる。
「っ……ぁ、あっ……やっ、やぁっ……!」
「力抜いて。……最初は痛いけど、すぐに……よくなるから」
優しい口調で、残酷なことを言う。
まるで、この行為そのものを、「教え」や「導き」だと信じているような声だった。
司は、もう涙が止まらない。痛みと、混乱と、快感の混線。どこまでが「いや」なのか、どこからが「怖い」のか、もはや境界すらわからない。
それでも──
「っ……っ、俺はっ……あんたのモノになんか……なって、たまるかっ……!」
振り絞った声。
憎しみでも怒りでもなく、ただ、それだけが、自分を守る最後の盾だった。
純は、その言葉を静かに受け止めたあと、そっと唇を額に落とした。
「……じゃあ、その言葉が消えるまで。君を抱く。壊れるまで──ね」
純の指が、ゆっくりと司の頬をなぞった。
濡れている。泣いている。彼自身も気づかないうちに、涙がひとすじ、またひとすじと零れていた。
快感と恐怖、羞恥と怒り。
いくつもの感情が皮膚の下でぐしゃぐしゃに混ざり合い、どこまでが自分の意思で、どこからが身体の裏切りなのか、もうわからない。
喉が震えるたび、情けない声が漏れた。
こんなはずじゃなかった、と何度も心の中で叫ぶ。
尊敬していた人に、憧れていた人に、自分をこんなふうに壊されて──それでも、まだ純のことを「嫌い」になれない自分が、何よりも怖かった。
ゆっくりと、純が腰を沈めてくる。
少しずつ、けれど容赦なく、熱が司の中を押し広げていく。
「っ──やっ……ぁ、く、くるなっ……ッ、いや、いやだ……っ!」
司は背中を強張らせて、力のない指で相手の肩を押し返そうとした。けれど、まるで小さな子どもの抵抗のように、純の動きには何の影響も与えなかった。
「まだ、そんなふうに拒むんだ……」
純の声は、まるで嘲笑にも、優しさにも聞こえる曖昧な響きだった。
「君がどれだけ嫌がっても、君の中は……僕を拒んでない。むしろ、迎え入れてくる」
「ちがっ……ちがうっ……俺は……おまえのモノになんて……!」
「じゃあ、証明して。……逃げてみて。でも、もう無理でしょ?身体が、僕を覚え始めてる」
淡々としたその囁きが、耳元に吹き込まれる。司の脚が震えた。深く、深く、純の熱が沈み込んでくる。押し入られた内部が、ひくひくと反応し始めていた。
純の腰が、一度ゆっくりと引かれ、また打ち込まれる。
「っあ、あ……っ! く、あっ……!」
腹の奥まで突かれる感覚に、声が裏返る。目の焦点が合わない。呼吸が上手くできない。頭の奥がしびれたように痺れて、思考が白く塗り潰されていく。
「……ここ。ここが、君の弱いところ」
狙ったように、そこばかりを擦ってくる。
「っやっ、やめ……っ、それ──ッ、だめっ……!!」
強い快感が、波のように襲いかかる。刺激が、感覚を上塗りしていく。拒絶より先に、反応してしまう身体が、司の誇りを少しずつ削り取っていく。
「君のすべてが、もう僕に馴染んでいってる。君がどれだけ否定しても、身体が証明してるよ」
視線を逸らせば、また頬を撫でられる。肩に、首に、胸に、いくつもキスが落とされていく。
それが、痛みではなく、優しさに感じてしまう瞬間が──一番、怖い。
「……いやだ、いや……っ、くそっ……おれはっ……ッ!」
叫ぶ声が、涙に溶けて消える。何度も否定したはずなのに、何も変えられない。
純の腰が、次第に速度を増していく。ぐちゅっ、ずちゅっ……と、濡れた音が耳にまとわりつく。
「司、気持ちいいんだろ? ほら、奥でぎゅって締めて……」
「っし、めてない……! して、ないっ……っ!」
「でも、また出そうになってる。さっきより、強く──」
「やっ、あ、やめて……ッ、お願い、やめてっ……っあああっ!!」
それは、拷問のような快楽だった。
痛いのに気持ちいい。
嫌なのに、逃げられない。
もう、泣くことしかできないのに、それすらも快感と一緒に喉の奥で震える。
「ほら、司……いって。君が壊れる、その瞬間を……僕だけに、見せて」
「っ、あっ……っ、く、うぅ──っ……!」
指が、濡れた頬に触れる。まるで「よくできました」と褒めるように、親指で涙をぬぐってくる。
「君は、僕の中で……壊れる運命だったんだよ」
そう囁かれた瞬間、深く──一際強く──押し込まれた。
「っ──あああああッ!!」
全身が弾けるように跳ねた。目の奥が白く染まる。
理性が焼けて、感情の芯が崩れる。
────絶頂。
腰が砕けそうに跳ね上がり、喉の奥から悲鳴のような声が溢れる。目の端から涙が溢れて、身体はもう限界を超えていた。なのに、純の手は、まだ優しかった。まるで、宝物を扱うように、壊れた司の体を抱きしめていた。
「……君は、もう逃げられない。身体も、心も──どこにも、行けない」
「……っ、っ……い……や……」
声にならない拒絶を、唇が震えながらこぼした。
けれど、その言葉さえも、もう音にならなかった。
シーツの中で、二人の熱が、溶け合うように絡み続けていた。
▽
カーテンの隙間から差し込む光が、静かに部屋を染めていた。
ホテルの一室。白いシーツの上に、朝の陽射しがやわらかく落ちる。ベッドの中、司は、ぼんやりと天井を見つめていた。
身体の奥が、まだ疼いていた。昨夜の痕跡は、肌の表面にも、心の奥にも、しっかりと刻まれている。
無数の指の跡。噛み痕。熱の残り香。シーツに染みついた体液と、涙。
そして──隣に、彼はいなかった。
視線を横に向ける。そこにあるのは、乱れたままの枕と、きっちりと重ねられた一束の紙幣。
札束――封の切られていない帯付きのそれは、あまりにも無言で、確かな重さを放っていた。
「……は、ははっ……」
笑ってしまった。
喉の奥がひりついた。
心が乾いている。
泣きすぎたせいか、もう涙も出なかった。
けれど──その笑いは、決して諦めではなかった。
「……買われたんだ、俺……」
ぽつりと呟く。まるで他人事のように。それでも、認めるしかない現実だった。
身体は、確かに純に抱かれた。あの人の中で、何度も達して、何もかもを暴かれて。
快感と支配の中で、幾度となく境界を越えさせられた。
でも。
「……まだ……心は、渡してませんから」
唇をきつく噛みしめた。
壊れそうだった。本当に、ギリギリのところだった。
あと一言。あと一度抱かれていたら、きっと自分の中で、何かが完全に折れていた。
でも、まだ踏みとどまっている。
司は、ベッドの縁に手をつき、ぐらつく身体を起こした。太腿に、じわりと痛みが走る。けれど、それさえも──まだ自分が“自分である”ことの証のように思えた。
「……バカみたいに……勝手すぎるんだよ、あの人」
静かに吐き捨てる。けれど、怒りではなかった。
それは、どこか切なさと混ざり合った、ため息のような言葉だった。
冷蔵庫の上に、一枚の紙が置かれていた。ホテルの便箋に、短い文字だけが残されている。
「部屋、今日いっぱいは使える……もう一度会いに来るかどうかは、君次第」
──夜鷹純
その端に、指で押しつけたような、唇の跡。
口紅でも血でもない、生々しい、ただの『証』。司は、紙を手に取って──くしゃ、と静かに丸めた。
まだ、決着はついていない。
心は、まだ、あの人に屈していない。
だが──一歩でも気を抜けば、傾いてしまいそうな自分がいるのも、わかっていた。
「……俺は、屈しない」
独り言のように、言葉を吐く。シーツの中、冷えた肌に触れる空気が、まるで問いかけるように静かだった。
この関係は、きっと終わっていない。終わらせるには、あまりにも何かが残されすぎている。
──朝の光が、白いシーツの上に、少しずつ形を変えながら落ちていく。
──夜鷹さんから渡された金には、二度と手を出さない。
あの夜を終えた朝、司はそう誓っていた。心に釘を打つように、固く、静かに、決して裏切らないと。
けれど──現実は、残酷なまでに静かだった。まるでその誓いの存在すら知らないかのように。
ホテルの重厚なドアを開いた瞬間、司は足を止める。彼の目に飛び込んできたのは、真っ白な朝の光だった。容赦なく、まっすぐに視界を刺してくる。
昨夜の濁流のような時間が嘘だったかのように、今日の街はいつも通りの顔で動き始めていた。
高層ビルの窓ガラスはきらきらと光を跳ね返し、車のクラクションと人々の足音が交錯して、世界は何事もなかったような顔で、新しい朝を迎えていた。
「……あー……もう、なんでこうなったかなぁ……泣きそうなんだけど」
呟いた言葉は誰に届くわけでもなく、空気に溶けていく。同時に背後でドアが静かに閉まる音がして、まるで何かを断ち切る刃の音が、背中を走った気がした。
手ぶらだった。純が置いていった札束も、冷蔵庫の上にあった一枚のメモも──何ひとつ持ち帰っていない。
見なかったことにした。
目を逸らし、意図的に触れず、記憶にすら残さないようにして。あの部屋に触れてしまえば、本当に自分の一部が壊れてしまいそうだったから。
ゆっくりと、そして深く息を吸う。けれど、喉の奥が焼けるようにひりつき、吐いた息が重く胸にのしかかる。
──夜の残り香が、まだ身体にこびりついている。
肌のどこかに、それは確かに残っていた。指の隙間、背中の奥、太ももの重み。思い出さないようにしてもそこには昨夜の【何か】が残っている。
体の節々がだるい。関節が、筋肉が、鈍く主張するように痛む。けれど、本当に痛んでいたのは──自分自身だった。
「……俺、何やってんだろ」
つぶやく声が、自分のものとは思えなかった。
足元に視線を落とすと、擦り減ったスニーカーのつま先が目に入る。
よれたデニム。何度も洗濯され色あせたパーカーの袖。何も変わらない自分がそこにいた。
だけど、心だけが──あの夜を境に、どこか別の場所へ置いていかれてしまったような気がしていた。
司は駅までの道を、無意識のうちに歩いていた。
手の中のスマートフォンがやけに重く感じてしまう。通知はないし、着信も、メールも、誰からも何の連絡もない。誰にも、自分のことなんて気にされていない。けれど、それがむしろ、今朝だけは楽だった。
そのまま近くの駅前のロータリーにあるベンチに腰を下ろす。
少し前の、あの打ち上げの夜――純と再会した帰りにも、確かこの場所に座っていた。自販機で買った缶コーヒーを手に、空を見上げて。
けれど、あの時と違うのは――もう戻れないと言う、どうしようもない実感だった。
缶を開けると、微かに炭酸のような音が空気に溶ける。
苦い。舌に刺さる。
それでも口に含まずにはいられなかった。
眠気も疲れも、身体の痛みも、この缶コーヒー一つでは消せない──だけど、何かを誤魔化すには、それで十分だった。
財布を開いてみると、中には、くしゃくしゃになった千円札が二、三枚。後は少しの小銭だけだ。
昨日振り込まれたばかりのバイト代は、思ったよりも少なかった。
家賃、光熱費、携帯代、スケートリンクの使用料。
簡単に試算するだけで、赤字が見える。
「……クソ……」
思わず口から漏れてしまった。けれど、誰もこちらを振り向かない。
目の前を通り過ぎる通行人たちは、司の存在に気づきすらしない。
なのに、自分だけが【何か】から置いていかれたような気がしていた。地面から少しだけ浮いているような、所在のない感覚。浮遊感でも解放感でもなく、ただ、取り残されたような虚しさがじわじわと胸の奥に広がっていく。
──あの札束を断った自分は、正しかったのだろうか。
心の中で、何度も問い直してみる。それでもあの時は受け取れなかった。
受け取ってしまえば純のモノになっていた。身体も、心も、全てが、彼の所有物になっていた。
それが──怖かった。
けれど──なりたかった自分も、確かにそこに居たんだ。
ほんの一瞬だけでも、彼に求められることに、身体の奥が熱を持ったのは事実だった。その矛盾が、今もずっと胸の奥で暴れている。
「プライドなんか、守って何になるんだよ……」
手の中の缶が、わずかに震えていた。
吐き出した言葉は、どこかで誰かに聞いてほしかったのかもしれない。でも誰も聞かない。世界は今日も、何も知らないまま回っている。
──けれど、それでも。
「誰にも……夜鷹さんの【モノ】になったなんて、思われたくなかった」
胸の奥に沈んでいた本音が、静かにこぼれた。
【夜鷹純】という名前に、価値を感じてしまう自分がいた。
けれどそれに縋った瞬間、自分自身が駄目になってしまう人間になってしまう気がした。
札束を拒んだのは、その境界線だけは、守りたかったから。けど、身体を差し出したことは消せない。でも、心の芯だけは、まだ自分のものだと信じたかった──たったそれだけを守るために、背を向けた。
けれど今、自分はこんなにも惨めだ。
ポケットの中の小銭と、頭の中の混乱だけを頼りに自分自身は街を彷徨う。
▽
「……でも結局、お金が入用なんだよなぁ……」
独り言が、狭い部屋の空気に溶けて消える。笑ったつもりだったのに、口元が引きつっているのが自分でも分かった。
司は、机の上に置いたスマートフォンに手を伸ばす。画面に指を置いた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。パスコードを入力する指先が、わずかに震えていた。
開かれた検索履歴には、昨夜打ち込んだ単語がそのまま残っている。
「即金」「援助」「男」「ホテル」――文字列を目にするだけで、心臓の奥がざわついた。まるで自分が犯罪者になったような気分だが、それでも指は止まらない。
スクロールしていくと、SNSの裏アカウントが現れる。
フォローもしていない、誰にも見せられない、隠された世界。
加工されたアイコン、短い条件だけが書かれたプロフィール、スーツ姿の男性、顔の一部を隠した写真――どれも似たような文章が並んでいた。
──「一回二万、即日」
──「綺麗な子希望」
──「20歳以下だと嬉しい」
胸の奥が、つん、と痛む。同時に感じたのはまるで見知らぬ人間に値札を貼られているような感覚。吐き気に似た冷たいものが喉の奥にこみ上げてくる――それでも、指は止まらない。
「ほんとうは、こわい」
声に出すと、思いのほか弱々しい響きだった。
けれど、頭の中にあの夜の情景が浮かぶ。
純が札束を置き、あの目で見下ろしていた瞬間。抱かれ、乱され、壊されそうになった感覚。
──あれは、本当ならばあのような行為をしてはいけない相手だった。
──憧れが壊れるのが、何よりも怖かった。
(なら、いっそ、知らない人の方がいい……)
その思考は、言い訳のように浮かんで、それを掴むことでしか今は呼吸ができなかった。
司は、条件が軽そうな相手を慎重に選び、メッセージ欄を開く。指が震える。打ち込みながら、何度も削除しては書き直す。
〈今日、会えますか?〉
〈初めてなんですけど、大丈夫です〉
送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねる。
画面の奥に自分の声が吸い込まれていくような感覚。既読マークがつくのは一瞬だった。
──駅前のホテル街、○番出口近くで待ち合わせ。
──顔合わせしてから決める。
たったそれだけの返信が、まるで判決文のように胸に突き刺さった。
喉の奥に苦味が広がる。逃げたい気持ちと、金のことと、プライドがごちゃごちゃに絡み合って、どこにも出口がなかった。
けれど、スマホを閉じるとき、司は小さく息を吸い込み、ゆっくりと立ち上がった。
「……よし」
その声は、自分に向けたものだった。
鼓動が速く、手のひらに汗が滲んで――でも、足は勝手に動き出す。
夜のホテル街へ続く道が、目の前に伸びている。そこは、行き止まりか、それとも新しい地獄か。まだ、その答えはなかった。
▽
ホテル街の裏通りには、すでに夜の帳が静かに降りている。同時にネオンの光が濁った湿気に滲み、看板が赤や青のまだらな光を放つ。
ひとけは少ない――ビジネスマン、カップル、酔いかけた男たちが足早に通り過ぎていくが、誰も司の存在に気づこうとはしない。まるで最初からいないモノ、のように。
(──このまま、なかったことにすればいい)
(そうすれば、何も始まらない)
(壊れない)
自分にそう言い聞かせるように、スマホを握りしめる。その時に不意に画面が点滅した。短く、簡潔なメッセージが表示される。
――あと数分で着きます。
それだけで、脈が跳ねてしまった。喉の奥がひきつれ、胃が冷たくなり、手汗がスマホの画面をにじませ、思わず握り直す。
(……本当に、やるんだ……俺、これを……)
口の中がカラカラだった。唇が乾き、息がしづらい。足が勝手に後退りそうになるのを、爪先に力を込めて踏みとどめる。
逃げられない。
純からの札束を断った。
バイトも限界――この先の生活が、もう立ち行かないのは目に見えていた。
「……っ」
深く息を吸い込もうとした、その瞬間だった。
「……ねぇ、何してるの?」
低く、押し殺された声が、背後から降ってきて――その声を聞いた瞬間、世界が凍りついた。
背骨の奥に、冷たい刃物が刺さるような感覚。喉が詰まったように声が出ない。振り返るよりも早く、腕をぐいと掴まれる。
「ひっ……!?」
強い力で引かれ、バランスを崩す。ぐらりと揺れた視界の先にいたのは──夜鷹純だった。
「え、よ、夜鷹さん!な、なんで、どうして……っ」
言葉が、声にならなかった。なぜここにいるのか、どうしてこのタイミングなのか。わからないし理解が追いつかない。
ただ、掴まれた腕の熱だけがあまりにも現実的で。肌がじんじんと火照り、痛みすら感じるほどだった。
「……どういうつもり? こんな場所で」
純の声は、低かった。
怒鳴り声ではないが――その奥にははっきりと怒りと、それ以上の【なにか】が滲んでいた。
その目は細く、光を宿さない硝子のようで。けれど、捕らえた獲物を逃がすまいとする猛禽のような鋭さを孕んでいた。
司の喉がひくつく。逃げ道と言うのが全くないと実感する。この場を離れようにも、腕は掴まれたままで、動けない。
「……っ、別に……ただの……知り合いと、会うだけで……」
――苦しい。
自分でも分かるほど、息が浅い。
言い訳は自分の中でも支離滅裂で、何の説得力もなかった。
でも、何かを言わなければ、壊される――そんな焦りが、司の舌をせかしていた。
「知り合い?……初対面の男に身体売ろうとしてるのが知り合い?」
純の声はとても静かで、そして落ち着いていた――だからこそ恐ろしかった。語尾一つ動かさずに、事実だけを突き刺すような声音。
「ち、違……違いますっ……!」
慌てて首を振るが、逃れられない。純の手はぐっと強く司の腕を握りしめる。爪が食い込むほどの力に、司の喉から苦鳴が漏れそうになる。
「じゃあ、何?」
その声は、掠れている。純は怒鳴ることはしない。でも、心がひりつくほどの【怒り】と言うモノがそこに込められていた。
「お金がないなら、言えばよかったんだ」
「そ、それは……俺は、あなたに頼るつもりはないって……決めたんです!」
絞り出すように吐いた声は震えており、身体も声も、心さえも、全部が震えていた。
それでも司は、夜鷹に見下ろされながら、顔を逸らさなかった。
怖かった。息が止まりそうだった。だけど、それ以上に、あの人にだけは知られたくない──自分が、こんなにも浅ましいところまで堕ちようとしていたことを。
司の声が震える。
必死だった。
純にだけは、知られたくなかった。
こんな姿、絶対に見られたくなかった。
「……じゃあ、知らない男には身体を売るのは、いいの?」
吐き捨てるような声。けれど、その声には怒りと同じくらい、悲しみが滲んでいた。
「夜鷹さんには……されたくなかったんです……っ」
司はつぶやくように言った。
「俺、夜鷹さんの事、尊敬してたから……憧れてたから……あんな風にされたくなかった……」
純の目が、わずかに揺れる。
「……ふざけないでくれる?」
低く吐かれたその言葉と同時に、司の身体が強く引き寄せられる。同時に体温が触れる距離。顔が近い。息がかかる。
「じゃあ……君は誰か知らないやつになら、抱かれてもいいの?」
「っ……そ、そっちのほうがマシです……!夜鷹さんに壊されるより……っ」
その瞬間、純の目に、明らかな怒りの火が灯った。
「……司」
「……っ」
「僕が【壊した】って思ってるの?」
「……そうじゃ、ないって、言いたいんですか」
言葉の応酬は、もう感情のぶつかり合いだった。
誰も気づかない路地裏。誰にも邪魔されない場所――二人だけの世界が、静かに、けれど確かに熱を帯びていく。
「──来て」
それだけを告げて、純が強引に司の手を引く。
「ちょ、ま──っ、やめてくださいっ……!離して!」
司は叫んで抵抗するが、叫んでも無駄だった。
純の掌には、揺るがない力が込められており、そのまま、二人の姿は暗い路地の奥へと消えていく。
ネオンの光が遠ざかる――静かに、だが確実に、逃げ道が閉ざされていった。
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