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「純くん!」
曲がけを終わったタイミングで呼ばれた。振り向けばにこにこと笑いながら司くんがこっちに走ってきていた。いつもの練習着じゃなくて学ラン姿だ。僕と違って平日の学校を早退することのない司くん。僕みたいに早退すればいいのにと何度か言ったが親との約束で学校にはちゃんと行かないといけないらしい。大人って本当に煩わしい。
「早く着替えなよ」
「うん!その前に好きな方選んでて!」
そう言って紙袋を渡してきた。なにこれと聞く前にダッシュで更衣室に向かって行った。仕方ないと中身を見ればお菓子が入っていた。多分マフィンかカップケーキ。違いがあるのかは分からないが前に司くんが使い分けていたからなにか違うのだろう。お菓子に興味が無いというか食事自体あんまりな僕には見分けはつかない。
ただひとつずつ包装されたそれには『つかさくんへ♡』『スケートがんばって♡』の文字が恐らくチョコレートで書かれている。もしかしてこれは手作りなのだろうか。
「おまたせ!」
バビュンっとやってきた司くんの額にはうっすら汗が浮かんでいた。練習前から汗かいてる。彼のことだからここへ来るまでに自転車を爆速で漕いできたのだろう。司くんの両親はフィギュアスケートをすることを反対しているらしくお金は何とか出してもらえているがそれ以外の協力はあまりできないという。だから送り迎えは基本無い。夜遅くなっても司くんは自転車でひとり帰っていく。
「これなに」
「これね隣クラスの子から貰ったんだ。今日調理実習があったからってカップケーキ作ってくれた」
「……」
「んで、いっぱい貰ったから友達とわけっこしたんだ。だから純くんも」
「いらない。ていうかもしかして食べたの?」
「え、うん、一個食べた」
有り得ない。なんだって赤の他人それも衛生管理もまともにできない子供の作ったものを食べるのか。しかもこのカップケーキに書かれている文面から見てこれを渡した子は司くんに対して恋愛感情を抱いている。恋愛感情なんて特殊な感情を持った相手が作ったものなんて何が入っているかわかったもんじゃない。髪の毛や唾液、体液が混じってる可能性は十分にある。それをこの子はわかっていないというか教えられてないのかもしれない。
「こんなもの食べたらダメだ。お腹壊したらどうするの、何が入ってるかわかんないのに」
「壊さないよ。調理実習で作ったって言ってたし」
「君は作っているところを見たの?」
「見てないけどうちのクラスもカップケーキ作ることになってたから材料はおなじだと思うし」
「なんの確証もないじゃない。捨ててきなよ」
「え!やだ!食べ物粗末にしたらいけないんだよ!なんでそんな酷いこと言うんだよ!」
ああもう埒が明かない。高峰先生を呼んでことの顛末を話したら高峰先生は深いため息をついた。そりゃそうだろう。
「あー……司、それは食うのやめておこうな」
「なんでぇ!?」
それ見ろ。高峰先生の言うことなら司くんは素直に聞くだろう。
「一緒に作っててとかなら俺も止めねぇよ。でも司はその子が作ってるとこ見てねぇんだろ?そんでその子はお前がスケートをやってることを知ってる」
「うん、ノービスの応援にも来てくれてたよ」
ああアウト。高峰先生頭抱えている。でも司くんに真実なんて言えないだろう。もしもの仮定の話で誰かを疑うなんてこと司くんにはできない。
「試合前にいつもと違うもん食って腹壊してそれでメダルどころか表彰を逃がしたらどうする?お前も傷つくしその菓子をくれた子は自分のせいでってなるぞ」
「あ……」
「これは海外遠征行く奴らもしていることでな、他国の慣れないものを食って不調をきたさないために日本食だけしか食わないように取り決めている」
「……うん、もしかして純くんもそれ知ってた?」
「純はお前より早くにスケート始めているからな」
事の重要性を理解したみたいだ。それならいいと僕は氷の上に練習に戻ろうとした。その時ぎゅっと手を掴まれた。
「司くん?」
「ごめん、ごめんなさい。さっきひどいこと言った……純くんが正しかったのに」
「……いいよ別に。僕も注意の仕方が悪かった。司くん知らないのに」
「ううん、純くん悪くない。ありがとうちゃんと止めてくれて」
ぎゅうとしがみついてくる司くんの背中をポンポンとあやしてやるとぐすと鼻をすする音がした。泣き虫め。
「司くんはカップケーキ?作ったの?」
「ううん、明日午前中作るよ」
「なら司くんが作ったやつ僕に頂戴。それで許してあげる。高峰先生、司くんが作ったもの僕たべていいよね?」
「おう。司ちゃんと手を洗って変なもん入らねぇように気をつけろよ」
「うん!」
にぱっと笑う司くん。やっぱり笑った顔が一番だ。涙を袖で拭いてやって手を引いた。
「行こ、滑る時間少なくなっちゃう」
「うん!行こ行こ!」
バビュンと風の速さで司くんが氷の上を滑っていく。相変わらずバッククロスのスピードが異常だ。この僕でさえ追いつくのが精一杯。待ってと追いかければ太陽が笑う、笑う。ああ、熱くて溶けてしまいそうだよ。
「純くんキスクラに持ってくぬいぐるみどれ?」
「そんなの持ってかないよ」
キスクラことキス・アンド・クライ。演技後にコーチと一緒に座って点数結果を待つ場所。ずっと憧れていた。始めるのが遅かった俺はバッジテストを進めるため大会は出たことはほとんど無くてノービスAの全日本が初めてだ。キスクラがあるぞと匠先生が教えてくれた。キスクラ!とテンション爆上がりだ。ぬいぐるみ持っていこうかそれともティッシュケースがいいだろうか。純くんはどうしているか聞いたらこれである。
「えー…なんで」
「女子はほとんど持ってるけど男子はまばらだよ」
「そうなの……でも持っていかない人はいないんだよね?」
「うん」
「じゃあ俺は持ってこ!」
持っていくぬいぐるみは決まっている。小さい頃から好きなポムポムプリン。子供の頃から司に似ているねと両親や兄に言われていた。だからか親近感もあって可愛いし大好きなキャラクターだ。
「ねぇねぇ純くん。持ってくぬいぐるみがないなら俺の持ってるやつよかったら持っていってよ」
「司くんの?」
「あのさ、最近純くんに似ているなーって思ってて」
この子なんだけどと、カバンに着けているぬいぐるみのキーホルダーを見せる。ポムポムプリンと一緒に付けるようになったばつ丸のぬいぐるみ。黒いペンギンの男の子でこの子も昔から人気のあるキャラクターだ。いたずらっ子のばつ丸。実は純くんもいたずらっ子なんだよな。俺のほくろをぽちぽちしてくるし、冷たい手をわざと脇腹に突っ込んできてくすぐってくるし。そういう時大抵俺が洸平くんとかと話している時狙ってくる。意外とお茶目なのだ。
「なにこの目つき悪いの」
「かっこいいでしょ!」
「……」
ジト目になる司くん。そういう顔そっくりだよ!とは言えなくてダメかな?って上目遣いで純くんを見つめる。純くんは上目遣いに弱いということを最近学んだ。瞳ちゃんからの情報である。瞳ちゃん曰く『純くんって司くんが上目遣いしているとほぼ100%の確率でご飯食べるよね』と言われて付けている純くん観察日記を読み返すとたしかに先に俺が座って食べてるところに純くんがやってきてご飯食べない?って誘ったら100%の確率でひと口だけ食べてくれることがわかった。だからこのお願いも。
「……いいよ、今度持ってきなよ」
「やったぁ!じゃあついでだけどこの子あげるね!」
純くんのカバンにばつ丸を付けてあげる。シンプルで真っ黒な革のリュックに安全ピンの針を通す。それを見ていた洸平くんが「ひいっ」と声を上げたけどどうしたんだろうか。
「うん!めじるしになっていいね!」
革だけど特徴のないリュックだから誰かのと間違えちゃわないかっていつも気になってたんだよな。
「……うん、ありがと」
「これね、俺のポムポムプリンと同じシリーズなんだよ」
確かテーマはバレンタインのやつ。真っ赤なハートをぎゅってしてて可愛い。
「可愛いでしょ。にいちゃんが誕生日にくれたんだ」
「いいの?そんなのあげて」
「うん!純くんが大事にしてくれたら嬉しい」
「……そう。わかった」
そう言ってばつ丸をなでなでする純くんめちゃかわいい。この事も純くん観察日記に書こう。
「じゃあ今度大会の時に持ってくるね!」
後日ノービスAの全日本で純くんに約束のばつ丸を渡した。先に滑った純くんはキスクラにばつ丸を持って行ってくれた。でも持ち方がひどかった。足を掴んでプランプランとばつ丸が揺れている。
「まるで生け捕りにしたみたいだな」
匠先生の言葉に俺は純くんにぬいぐるみの抱っこの仕方を教えなければと固く決意した。
「ぬいぐるみは優しく持って!赤ちゃん抱っこするみたいに」
「こんな目つき悪い赤ん坊いないでしょ」
「じゃあ猫とかを抱っこするみたいに」
「僕動物は嫌い」
「んもー!」
ぷくーっと頬を膨らませて怒ると純くんが指で摘んでぷしゅーと間抜けに空気が抜けた。
「司くんなら大事に優しく抱っこできるよ」
「……じゃあ俺だと思って優しくして」
「気が向いたらね」
「ここがドラスト?」
「うん、そうだよ!」
練習時間の僅かな休憩でストレッチをしながら司くんが今日帰りにドラストに寄らなきゃと言うからなにそれと聞いたのが始まりだ。
ドラッグストア、略してドラストと世間一般では言うらしい。主に医薬品を置いているがお菓子に食品、生活雑貨などもあって司くんは主に薬以外を買うためにここに来るらしい。
「あ、新作のコスメ出てる〜」
ドラッグストアに行ったことがないと司くんと話していたら瞳ちゃんたちも話に入ってきてじゃあ練習終わりにみんなで行こうとなった。僕は別に行きたくなかったけど今日の貸切は20時までで司くんとほんの少ししか居られなかったからもっと居れるならと頷いて着いてきた。お邪魔なふたりもいるが。
「つーくん!知育菓子あるぜ!今度やろ!」
「それってあまりおいしくなくない?」
「バッカだなぁこういうのは味じゃねぇんだよ!な、つーくんはわかるよな」
「それ300円もするからいらない」
ジュナくんが興奮気味に司くんに絡む。ほんとやめてほしい。こいつが絡むと司くん目が死んでしまうから嫌だ。司くんの手を掴んでジュナくんと洸平くんを置いていく。洸平くんがいればジュナくんこっちに来ないだろう。
「純くん」
「それで何を買うの?」
「えっと、トイレの洗剤。昨日トイレ掃除したらもうなくって」
「ふぅん」
司くんは学校にちゃんと行ってフィギュアの練習もして更に家の手伝いもするらしい。掃除に料理、幼い弟の世話もするらしく日々大変だ。普通は親が全部するものだろうとこんなことに時間をとられて勿体ないと言ったことがある。でも司くんは悲しそうに笑うだけで何も言わない。だから匠先生にも同じこと言ったすると匠先生は『それぞれ家庭の事情ってのがあるんだ』と電子タバコの煙を吐き出した。コーヒーのようなにおいの煙が諦めているように思えて僕はもういいとその話をしないことにした。きっと匠先生のことだ、何度も司くんの両親と話をしているんだろう。
「純くんはなにか欲しいものある?」
「別に。司くんは?」
「ん?だからトイレの」
「それは家のものでしょ。君が今ほしいもの聞いてる」
「……実はねさっきジュナくんが言ってた知育菓子」
「知育菓子って何?」
要らないと言っていたけどそもそもそれはなんなのか知らない。すると司くんは「だと思った」と嬉しそうに言う。
「知育菓子っていのはね不思議な粉が入ってて例えば粉に水を入れると固まったりふわふわになったりするんだ。化学反応?っていうのを応用してるんだって。それでお菓子を作って食べる」
「ふぅん。洸平くんは美味しくないって言ってたけど」
「味より作って楽しむっていうのがメインだからね」
「でも司くんはおいしいんだね。君甘いの好きだから」
「なんでわかるの?」
だって司くんの好物はドーナツだ。甘いシュガーフロストがたっぷりかかったものや粉砂糖を振るったものチョコレートコーティングされているものなんでも大好きでふたつみっつぺろりと食べてしまう。僕も集中力を高めるために糖分補給でブドウ糖を舐めるがそれとは違う。甘いの大好きな司くん。
「わかるよ司くんのことなら」
ぎゅうと手を握る。本当はお家のお手伝いも学校も嫌なのわかってる。そして嫌だと思ってしまう自分がもっと嫌なんだ。でもこの世界にいたいから、氷上に居たいから頑張る。僕と同じ氷の上でしか生きれない生き物。
「司、純」
「あ、先生」
「お前らも菓子とか選べひとつずつ買ってやる」
「いいの?」
「おう、たまにはな」
わしゃわしゃと司くんの髪をかき混ぜる匠先生の手を払ってぐしゃぐしゃにった司くんの髪を元に戻してやる。戻すふりをして僕もわしゃわしゃすると「俺いぬじゃないんだけど」と不満の声があがった。
「グッボーイだっけ」
「やー」
「いちゃついてないで菓子とってこい」
「ん」
ふたりとも知育菓子をえらんだ。これ明日作ろうねと笑う司くん。可愛くてほっぺたのほくろをポチポチしてやったらやめてよぉと逃げられた。ほくろを突っつくから封印って言われて手を繋がれる。計画通りである。手を繋いだまま店内をウロウロ。色々あるなぁと思っていたら見たことの無いものが目に入った。
「ねぇ司くんこれなに?」
「え?あっ……ちょっとダメっそれ置いてっ」
「なに?」
赤い瓢箪みたいなものを手に取って司くんに聞くと司くんの顔が一気に赤くなった。慌てて僕の手から奪って棚に戻した。何なんだいきなり。
「さわったらダメなものだった?」
「うう……ちがう。いや、うん……でも俺達にはまだ早いものだから」
「そうなの?」
「うん……」
「何に使うの?食べ物じゃないよね」
司くんの反応から見てなんとなく恥ずかしいものであるのだろうな。でも何をどう恥ずかしいのかわからない。また僕たちなは早いとはなんだろう。年齢制限でもあるのだろうか。あると仮定したら司くんが真っ赤になるほど恥ずかしいもの……ああなるほど。
「司くんはこれ使ったことある?」
「ふぇ!?な、ないよ!」
「使ったことないけど使い方知ってるんだ?」
「う、うん……兄ちゃんが兄ちゃんの友達と話してたから」
司くんには三つ年上のお兄さんがいる。仲が良くてたまにお迎えに来たりするんだけど毎回司くん嬉しそうに駆け寄っていく。挨拶程度だけどなんとなく洸平くんぽい人。司くんを甘やかしたいってかんじで司くんも兄ちゃん兄ちゃんって甘えるからちょっと面白くない。いつも帰る時名残惜しそうに僕にひっつくのに司くんの兄が来るとさっさとバイバイっていうから、司くんには悪いけどあまり迎えに来て欲しくない。でも彼が来ると喜ぶ司くんはとても可愛いから可愛い司くんを見れるのは嬉しい。でもやっぱりモヤモヤする。
「使い方教えてよ」
「えっ……や、でも」
「君が知ってて僕が知らないとかやだ」
「お、俺もたまたま聞いちゃったとかそんなレベルだから」
「でも知ってる」
「ぅ……」
「ね、教えて……」
「うひゃあ」
声変わりが始まって時々声が掠れるときがある。その声が司くん好きらしい。耳元で囁けば耳まで真っ赤にして震えて僕を見るのだ。どうしてそんな可愛い顔して僕を見るの?そんな顔したらぱくりと食べられても文句言えないよ?
「司」
「あ、う」
「だから店内でイチャつくなって言ってるだろ」
「うわぁ!!」
「うるさ」
「司、店ででかい声出すな」
いつの間にか後ろにいた高峰先生。いいところだったのに邪魔された。司くんは真っ赤になったままごめんなさいっレジ行くね!て僕を置いてレジに行ってしまった。くそ逃げられた。
「純、司で遊ぶのほどほどにな」
「遊んでない。可愛がってる」
「同じだ、マセガキめ」
お前らにゃまだ早いと赤いやつをとられて棚に戻された。やはりソレ系か。まぁいいまた今度来よう。来月は合宿がある。参加は面倒だけど司くんとずっと入れるしと思っていたが楽しみがひとつ増えた。
ドラストいいね。気に入ったよ。
「司、今日は練習休みだ」
「嫌です!俺大丈夫です、痛くなんか」
「司」
「……っ、はい」
とぼとぼと家への道を自転車を押して帰る。まだ外は明るく夕方にすらなっていない。せっかく今日は学校が半ドンで早くリンクに行けたのに早々に匠先生から帰宅を命じられた。
膝が痛い。ズキズキとぎしぎしと骨と筋肉、靭帯が軋んで安静にしていても痛い。夜には熱を孕んで寝れないほど痛くていつも唸りながら膝をさすってなんとか痛みを逸らしている。
成長痛。中学に入ってから急激に背が伸び始めた。にょきにょきと匠先生は「たけのこか」と苦笑いするほどに伸びてルクスの男子では一番小さかったのにジュナくんの背を超えて洸平くんの背も抜こうとしている。この一年で10センチは伸びてるから当然だ。おかげで俺より小さくなったジュナくんにはウザ絡みされてストレスはMAXだ。俺だってこんなに背はいらない。欲しくて伸びたわけじゃないのに。
ぐう、と腹の虫が鳴く。成長しているせいか最近すぐお腹が空く。無限にご飯食べれるって言えるくらいに常にお腹が空いてて家に帰ったら冷蔵庫に直行するのが習慣になってる。今日は早く帰れるから弟たちの好きなものを作ってあげよう。やっぱハンバーグかな、ケチャップとウスターでソース作ろう。それからポテトサラダとコーンスープとブロッコリーとベーコンをにんにくで炒めたやつ。使い回しの献立だけど弟ふたりがおいしいって食べてくれるやつだ。
一応家族のLINEに今日は練習なくなりました、ごはん作っておきますとメッセージを送る。両親ふたりはまだ仕事中だし兄ちゃんもまだ学校だろう。するとぴこんとメッセージの着信が鳴った。母さんからだ。
『お疲れ様、残業になりそうだから健のお迎えもお願いできる?』
『うんわかった。母さんもお疲れ様です』
タイミングよかった。健の幼稚園へ向かうため自宅への道を変える。最近かまってあげれてないから喜んでくれるかも。買い物にも行かないといけないからついでにお菓子のひとつでも買ってあげよう。
「すみません、明浦路健の兄です。弟迎えに来ました」
「あら!司くん久しぶり〜!ちょっと待ってね、健くーん!お兄ちゃんが来たよ〜」
明るい先生の声が健を呼ぶ。すると友達と戦隊ごっこをしていたのかダンボールの剣を持った健がやってきた。
「ちいにい!」
「今日母さん残業になったら兄ちゃんと帰ろうな」
「きょうすけーとじゃないの?もうずっとおうち?」
「うん、今日はお休みになっちゃったから。帰りにスーパー寄ろうな、夕飯ハンバーグにしようと思うんだけどいい?」
「ハンバーグすき!やった!!」
ぴょんぴょん跳ねて喜ぶ健に荷物取ってきなと言うと剣を振り回しながら荷物置きの棚に走っていった。危ないから振り回さないのと言うが聞こえちゃいない。
「司くんスケートお休みなの?」
「はい。成長痛がひどくてこのまま氷の上に乗っても怪我するからって」
「そっかぁ背すごい伸びたもんねぇ」
先生と話しているとひそひそと迎えに来ていた他の保護者の話し声が聞こえてきた。
「スケート?」
「フィギュアスケートやってるんですって」
「えーすごい」
「なんか全日本でメダルとったとか」
「え?金?」
ノービスAの大会のことだ。中部ブロックで優勝して金をとった。中部ブロックでは純くんがシード枠があるからと出なかったから取れた金。そう言われたくなくて全日本は必死になってやったが結果は銀。優勝は純くんがとった。でもステップシークエンスではレベル4をとってそこだけは純くんに勝てた。だから今後の課題はジャンプの性能をあげること。
『司、十分お前はすごい。小五で始めて一年で6級まで一度もつまずくことなくバッジをとった。それで初めての中部ブロックの大会で金、そして全国の猛者と戦って銀をとった。さらに十年ぶりのノービスAのステップシークエンスレベル4……本当にすごいんだ、だからそれを誇りに思いなさい』
うん、わかってる。がんばったから、いっぱいがんばったんだ。母さんたちに反対されてもがんばった。でもでも俺は全日本で金が欲しかった。俺がいちばんなら俺はスケートをしたらダメって誰にも言われないと思ったから。ここに冷たい氷の上で生きていいって言われたかった。
「ちいにいおまたせ……ちいにい?」
「あ、うん。行こっか」
自転車を押しながら健が今日何をしたと楽しそうに話す。おしゃべりに夢中でちゃんと歩かないから注意すると。
「だってねちいにいとおしゃべりすごいひさしぶりなんだもん!」
「……そうだね、ごめんな」
スケートを始める前まではいつも弟たちといた。弟たちの世話をして家のことをしての繰り返し。それを苦に感じたことはなかった。友達と遊べないけど学校の休み時間でそれは事足りたし可愛い弟たちは大好きだし多忙な両親の手助けになれるのは本当に誇らしかった。
でも、夜鷹純を見てしまった。スケートを知ってしまった。もう無理だった。あんなに大好きな弟たちの世話も両親の手伝いなれる家事も全部嫌でスケートがしたくてしたくて堪らなかった。俺はなんて薄情で最低なんだと自分を責める日々。それでもスケートがしたい、氷の上に行きたい、夜鷹純のようになりたいと思って苦しくて、今までどうやって息をしていたのか忘れてしまうほどに氷の上を望んだ。
でも四人兄弟で受験生である兄の塾代で頭を抱えている両親に高額な習い事として有名なスケートをしたいとは言えなかった。だが言えずにいたら俺の様子に気づいた兄が両親に言ってくれたのだ。司のやりたいことをやらせてほしい、と。それからルクス東山FSCに入会した。けどルクス東山は高峰匠先生にヘッドコーチが変わってからメインはアイスダンスになっていて俺以外の人はほとんどがアイスダンスか初心者向けの体験コースの人ばかり。フィギュアスケートは専門外だがそれでも良ければとコーチをお願いした。
その時小五の俺はフィギュアスケートを始めるには遅くてとにかくバッジテストを受けまくった。一個上のジュナくんがシングル経験者だったからジュナくんからジャンプの手本を見せてもらって匠先生と動画を確認しながらなんとか合格していった。休む時間なんて遊んでる時間なんてない日々で弟たちとゆっくりしゃべるなんてこの一年ほとんどなかった。きっと寂しい思いをさせたに違いない。俺が迎えに行かないと兄や母さんたちが迎えに来るまで幼稚園に待ち続けなければならない。いなくなっていく友達のなか寂しかっただろう、不安だっただろう。家計をひっ迫させるから弟たちにおもちゃやお菓子を買う頻度も減ったし遊びに連れて行けなくなった。母さんも毎月行っていた美容院に数ヶ月置きになったし父さんは晩酌のビールをしなくなった。目に見えて節約しているのを知って罪悪感で胸が痛かった。でもそれでも、両親は『司は今までなにも欲しがらなかったから、その分欲しがっていいのよ』と疲れた顔で俺を見つめた。
そうやって家族を犠牲にして出た全日本ノービス。中部ブロックでは優勝した。でも全日本は銀メダルで金を取れなかった。それでも皆すごいと言ってくれたし先生やリンクメイトもがんばったねと褒めてくれた。でも、でも。
「ねぇ、司、スケート、まだしたい?」
「………………え?」
兄ちゃんが帰ってきてから兄弟だけで夕飯を食べて、それから風呂に入った。久しぶりに俺との風呂だからと健はたくさんおもちゃを出してきてなかなか上がりたがらないかは困った。そのあと誠が宿題見てとせがんできて一緒にやってそのあとゲームもして遊び疲れたのかぐずることなく健と誠は眠ってくれた。ふたりが眠ったぐらいに父さんと母さんが一緒に帰ってきた。途中で一緒になったと笑うふたりの顔は疲労が見えててごはんを温め直している間肩のマッサージをしてあげた。
「大会で銀メダルとったじゃない」
「……うん」
「司は不満みたいだけど充分すごいとお母さん思うの」
「……うん」
「まだまだがんばりたいって思っているのはわかるの、でも最近練習できてないじゃない」
「それは成長痛で痛みがひどいから匠先生からストップがかかっているだけだよ。怪我して骨折とか靭帯切ったりしないためだ。代わりに筋トレとかバレエの陸トレ増やしているし」
「でもジャンプ跳べなくなったんだろ?」
父さんが追い打ちをかけるように俺が今いちばん気にしていることを言った。ズキと胸が痛い。気にするな、ここで傷つくな。傷つくなら氷の上。そう決めたじゃないか。
そう父さんの言うように成長痛でジャンプが跳べない。純くんと戦うために跳べるようにした四回転サルコウと四回転トウループ。これが痛みで跳べれない。四回転どころか三回転もずっと降りきれてないし二回転で足の踏切を確かめる程度しか練習していない。
「……痛みがなくなればまた跳べるって先生言ってた。俺はあと一年ノービスだから」
来年は中学生だ。でも俺は9月生まれだからあと一年ノービスA。純くんもだ。だから次こそは勝ちたい。そのためには今は来年出場するためにも無理ができない。
「次こそ勝つんだ、純くんに」
「……ねぇ、司。司ががんばってるのはわかるしあなたはわがままを言わない子だったから母さんたちあなたに甘えていたところはあるわ。それは本当にごめんなさい」
「なに、別に謝らなくていいよ、俺だって誠たちがかわいいし」
「でもお兄ちゃんだけじゃないあなたも誠と健もこれからどんどんお金がかかっていく。ただただ普通の進路だけでもういっぱいいっぱいなの」
「……俺は別に学校は」
「スケートで食べていく気なのか?そんなの無理に決まっている。だから今ならまだ」
「……っ、俺はオリンピック選手になりたい、金メダルとりたい、氷の上で、スケートをやるために生まれてきたんだって言われたい!」
「わかる、わかるよ、でもね」
「わかんないよっ!!」
バンッとテーブルを叩いた。手がジンジンして痛い。でも母さんたちの言葉が心をズタズタにしていく。どうして、どうしてがんばれって言ってくれないんだ!どうして一度でも、一度でもいい応援の言葉をくれないんだ!!全日本だって来てくれなかった!!
「中部ブロックで俺がどれほど惨めだったかわかる!?俺より下の順位の子達はみんな家族が応援に来てて、みんな、がんばったねって今日はおいしいもの食べようねって帰っていって……俺だけ、俺だけふたりとも来なかった」
あの時匠先生は俺を可哀想なものの目で見ていた。優勝したのに誰一人俺を褒めも喜びもしない。肩を抱き寄せられてよく頑張ったって言われたけど心はどんどん冷たくなっていった。
「仕事だったんだから仕方ないじゃない……あなたがしたいスケートのためにどれだけ……」
兄ちゃんも来れなかった。ひとりで弟ふたりを慣れない場所しかもはしゃいだりできない場所に連れて行けないからと。この日は大会だからって言っていたのに母さんも父さんも休日出勤して見送りすらしてくれなかった。それどころか帰ってから夕食作ったりして家事をやって虚しくて仕方なかった。
「なんで、なんで」
ただ、氷の上で生きていたいだけなのに。
純くんのように。
「司、ごめんね。本当にごめんなさい……スケートはもう諦めて」
決定的な言葉に顔を上げると母さんと父さんが泣いていた。その顔は疲労に満ちててそういえばふたりが家で寛ぐ様子を随分と見ていない。俺が練習に行っている間休んでいると思っていた。そう思おうとしていた。本当は気づいていた。
「ごめん、ごめんね」
謝らないで。俺の方こそごめんなさい。どうしてどうしてなんだろう。こんなにやりたいのにこんなにがんばっているのに。他の子となにが違うの。
泣いて泣いて喚いて。がんばってがんばってがんばって。それでもつきつけられる自分ではどうしようもない現実。
せめて、せめてと最後の願いを口にした。
「最後のノービスの大会までお願いします……それが終わったらもうスケートは辞めるから。なんでもするから、母さんたちの言うこと聞くから……お願いします」
「純くん、お風呂行こ!」
「あとでいい」
「ダメだよ、時間決まってるんだから」
グイグイ僕の腕を引っ張って立たせようとする司くんに放っておいてほしい気持ちと司くんの裸を見れるチャンスだしなとスケベ心が拮抗する。結果スケベ心が勝って仕方ないねと言いながらウキウキで風呂に向かった。
広い風呂は他の選手もいたけど僕に話しかけてくるのはジュニアの慎一郎くんぐらいだから司くんとゆっくり湯船に浸かる。ちらりと司くんを盗み見ればほえーと気持ちよさそうな顔してた。少し髪が伸びてふわふわが増した髪がぺったんこになって意外と彼も頭が小さいのがわかる。
「純くん白いから真っ赤だね」
「ん」
「のぼせてない?大丈夫?」
「平気。ていうか司くん黒子ここにもあるんだね」
「うひゃ!」
ツンと普段服に隠れて見えない背中や胸元にある黒子をつつく。そして感度良好でひっそりと笑う。
「純くんは黒子ないね」
「うん、自分でも見たことない」
背中とかは見えないからわからないけど、司くんがしげしげと背中を見て黒子の有無を探すがどうやらないようだ。
「純くんってほんとまっしろだよね、日焼けとかする?俺ね黒くなってぺりぺり皮が剥けるよ」
「焼けるほど外に出ない」
夏はスケーターにとっては練習が物言う時期だ。この時期に遊んだりしたことは無いし学校のプールの授業だって受けたことない。
「え、じゃあ泳げない?」
「トレーニングの一環で泳いだことはあるよ」
「俺さバタフライできるよ」
「なにそれ」
「こうやるんだよ」と広い浴槽で泳いでみせた司くん。ぷりっとしたおしりが目の前にいきなり出てきてびっくりした。ちょっと不用心過ぎない?
「司くん、お風呂で泳いだらダメだよ」
「わっ!ご、ごめんなさい慎一郎くん!」
慎一郎くんに注意されて慌てて僕の後ろに隠れる司くん。かわいい。司くんのほうが背は10センチも高くなったから隠れられるわけないのに。それからサウナや電気風呂など色々入った。さすがにちょっとのぼせてしまって二人でふえーとぐったりなりながらフルーツ牛乳を半分こした。お風呂もなかなかいいじゃない。
「司くん、プログラム変えたって本当?」
「うん。成長痛ひどくてジャンプ四回転無理だからその分スケーティングと演技力を重視するために曲と振り付け変えた」
「そう」
去年まで僕は司くんと同じクラブにいた。シーズンごとにコーチをクラブを変える僕は今福岡の布袋野先生がヘッドコーチの福岡パークFSCに在籍している。福岡パークFSCを選んだ理由は僕もそろそろ成長痛が来始めたからだ。
僕の体は先に声変わりが終わってそれから背がゆっくりとではあるが伸び始めている。司くんは背が一気に伸びたがまだ声変わりは終えてなくて声は可愛いままだ。もしかしたら声変わりしてもそんなに低くはならないのかもしれない。司くんのように歩くのも困難なほどの成長痛はないがメディカルコーチの質がいい所がいいと思って福岡パークFSCを選んだ。そのせいで司くんとは離れてしまったけど。
──実は言うと悩んだ。司くんと離れたくないから。こんな風に傍に居たいと思ったのは初めてで一年契約だったはずなのに僕は高峰先生に契約更新を示唆した。でも。
『それは俺のところでまだ学ぶものがある、と思っていいのか?それとも司が理由か?』
『……司くんといたいからです』
『だったらダメだ。そんな理由で残って司が知ったらどう思う?お前がここでまだまだより高みにいけるなら問題はねぇよ。けどなそれで少しでも質が落ちたりすれば理由にされた司はどうなる』
『……彼のことだから泣いて自分を責めますね』
『だろう?だったら今まで通りがいい。お前がよりここで良くなるってんなら俺は受け入れる。でもお前自分でも分かってるんだろう?』
そうわかっている。ここで得たものはもう自分の中に落とし込んでいる。これ以上ルクス東山FSCにいる意味はない。むしろ司くんのように成長痛が今後来ることを仮定してメディカルコーチが居ないこのクラブでは自分の利益にならない。個人で雇ってもいいがそうなると高峰先生との連携をうまくしないといけなくなる。面倒事が増えるのは僕にとってはデメリットしかない。
『すみません、先程の話はなかったことにしてください』
『……わかった。次は目星ついてんのか』
『福岡に行こうかと。ただ……司くんには』
『自分で言え。あいつは泣いて寂しがるだろうけどそれでも笑顔でお前を見送るよ』
高峰先生の言った通りだった。司くんは泣いて寂しくなるねと言ったけど一度だって行かないで残ってとは言わなかった。空港まで見送りに来てくれて、抱きしめてくれた。初めてだった。腕の中にあったぬくもりが冷えてなくなっていくことに悲しくて寂しくて泣いてしまったのは。
「大会に間に合わないかも」
司くんが骨ばった膝を撫でる。テーピングされた膝は急激な成長に筋肉がおいついていなくて前より細くなったように見える。さっき風呂で見たが前に『見て見て!腹筋割れたよ!』と無邪気に見せてきた腹筋はなくなって少し肋が浮いていた。急に背が伸び続けるから不安になって一時期ご飯を食べれなくなっていたと慎一郎くんから聞いてたがここまで細くなったとは思わなかったから驚いた。
「じゃあ諦める?僕との勝負」
「まさか」
ギラリと太陽が僕を焼く。ああその目。その金メダルを溶かし込んだ太陽の瞳が好きだ。
「……でも、純くんががんばれって応援してくれたら痛いの我慢してできる気がする」
「我慢はよくないけど僕の応援で司くんががんばれるなら」
いつものリュックを引き寄せつけていたマスコットを取り外す。一年前に司くんがくれたペンギンのキャラクター。名前はなんだっけまぁいい。この子を可愛い泣きぼくろにちゅっとつついた。
「がんばれ、司。僕と戦うために」
「……うんっ!あ、そうだ!」
司くんはバタバタとメッセンジャーバッグから彼に似ているお揃いの犬のマスコットを取り外して持ってきた。
「あのさ、交換しない?」
「交換?」
「大会のときまでばつ丸は俺が持っていてポムポムプリンは純くんが持っていて。そうしたら離れていても純くんがいるって思えるんだ。練習きつくて挫けそうになってもこの子がついていてくれたらがんばれる。……だめかな?」
「いいよ。僕もこの子がそばに居たら嬉しい」
お互いのマスコットを交換してその日はひっつくように眠った。ポカポカと暖かい司くんの体温が懐かしくてその日は本当に久しぶりに熟睡した。朝を早く来いと氷の上に僕を乗せてくれと思っていたのに初めて朝よ来ないでくれと願った。
目を覚ますと隣でまだすやすや眠る司くんがいて。幸せだと思った。
「好きだよ、司くん」
君が好き。君とずっと氷の上もそれ以外でも生きていたい。
ノービス最後の大会。僕は去年と同じプログラムで点数は多少GOEの点数が加算されて上がった。キスクラには司くんから貰ったばつ丸のぬいぐるみと交換したプリンのマスコットを共に連れて行った。自己ベストを更新しひとつ息を吐いた。
さぁ、ここからだ。次は司くんだ。
司くんの新プロ、曲はフィギュアスケートのアニメの作中歌でキャラクターが実際にSPで使う愛について〜エロス〜。主人公がシニアだから曲目も少し大人っぽい。司くんは今までどちらかというと明るく元気いっぱいの曲が多かった。フレッシュな感じが受けていて僕と真反対。司くんの性格上とても似合っているし楽しそうに踊る彼に手拍子が加わるとより一層楽しそうで僕も好きだった。
曲がけを耳にしていたから曲自体は知っているけど果たして司くんにこの色っぽい曲は踊れるのだろうか。
アコースティックギターが氷上で鳴り響く。そして司くんが滑り始めた。
「……司、くん?」
氷の上にいるのは本当に司くんなのかと疑うほどに艶やかで指先から腕のしなり腰のくびれ、足の曲線すべてが男を誘う娼婦そのものだ。隣でコーチの布袋野先生が「すげぇ……なんだよこの色気……」と声を漏らすほどに司くんは色っぽく男を誘った。会場全体がうっとりと司くんを見つめる。思わず手を伸ばしその手を腰を手に取りたくなる錯覚。お腹の奥がずくりと熱を産む。頬が紅潮しているのがわかる。目を逸らせない。子供は見てはいけないほどに妖艶。けれど目を逸らすことを許さない力強さ。
「司くんって純と同い年だよな?これノービスの大会だよな?」
「……」
「こんなに色っぽく踊る子だったのか?」
「……いえ、初めて見ます」
滑りと演技力で会場は司くんの飲み込まれていく。まるで舌の上で転がされているかのように。ねぶられ濡らされていく。
そしてハッとするようなジャンプ。背が高い分迫力もあるのに降りるときは静かだ。四回転は無理かもなんて言っていたがちゃっかり四回転サルコウ二回転ループの連続を決めている。僕だって連続はしていない。やられた。これは僕の滑りを見て構成を変えてきた。こんな無茶高峰先生が許すわけが無い。勝手にやっている。フライングキャメルスピンは長い足がとんでもない速さで回って拍手が起こった。ジャンプもスピンもダイナミックな男性的なものなのにスケーティングになるとしなやかで艶やかな女性のものになる。
ああクソ。ぬいぐるみをぎゅううと握りしめぬいぐるみが不格好に歪む。
ジャッジアピールで誘うような視線を投げかけ体をくねらせた。甘い吐息が聞こえてきそうだ。
やめろ、僕以外の男を誘うな!醜い嫉妬か黒く渦巻く。
「……司」
悔しさからなのかそれとも司くんの色気に充てられたのかふつひつと腹の奥底から熱が湧き上がりぐらぐらと揺れる。
欲しくてたまらない、あれを征服し自分だけのものにしたい。
欲情するということはこんなにも激しく淫らで恐ろしい感情だったのか。
いつもより下の表彰台とたかれるフラッシュ。早くキミに触れたい。そればかりが頭を占める。
表彰台を降りてすれ違う時腕を掴んで引き寄せ耳打ちした。
「409号室、待ってる」
コン、と控えめなノックが聞こえてドアを開けると司くんがいた。やっときたと腕を引っ張り中へと連れ込む。
「純くん」
「金メダル、おめでとう」
「……ありがとう」
微笑むその目尻が赤い。泣いたのだろう。喜びの涙。君は負けても勝っても泣くんだね。反対に僕は涙なんて出やしない。負けて悔しいと思うよりもあの踊りに魅了されたひとりで熱が未だに引かない。
「すごく、色っぽかった」
「本当?うれしい」
微笑む彼はまだ危なげな色気を振りまいている。役に演じきっているのかまだ抜け出せていないのだろう。普段の元気な声音はどこへやら熱っぽい声で僕を呼ぶ。
「純くんはよりかっこよくなってたね」
ぎ、と短くベッドのスプリングが軋む。
「ジャンプがよりダイナミックになってた。前は羽が舞うように飛んでふわって落ちていた。すごく、男らしい」
すり、と太ももに司くんの手が触れる。知らない。こんな司くん知らない。たまらず押し倒すと欲を含んだ目で僕を見た。
「好きだ、司」
金メダルの瞳が微かに見開いてすぐに細められる。その瞳の感情を僕の勘違いだと自意識過剰だと思わなくてもいいんだよね?そう考えていると司は答えわせのように囁いてくれた。声変わりが始まった掠れた声で。
「俺も純くんが好き」
そして誘われるように当然の帰結であるように唇を重ねた。何度も何度も拙い子供の大人の真似事。曲への理解を深めるためにと見せられる恋愛映画で見たくちづけ。触れた箇所はひどく熱くて湿っていて心臓がそこにあるかのようにドキドキとうるさく鳴り響く。きっとこの音は司に聞こえているだろう。
「司、司、好きだ」
「うん、純、俺も好き、もっと触れて」
キスの合間を急くようにジャージとレギンスを脱いだ。司も同じように脱いでグレーのボクサーパンツだけを残して。でもお互いシャツは脱いでいなくてこういうとき全裸がいいのだろうか。わからない。司もわからないのか「上も脱ぐ?」と聞いてきた。もしかしたら誰かコーチが尋ねて来るかもしれない。低い可能性だがそれが頭をよぎって上は着たままでと伝える。そしてお互いの中心を見やれば布を押し上げシミを作っていた。
「へへ、純くん勃ってる」
「うん、司くんも」
「……やだ、呼び捨てがいい」
「うん、僕も純って呼んで」
「純」
「うん」
「さわ、って」
「僕のも」
窮屈な下着をずらしたらぴょこんと勃起したおちんちんが出てきた。合宿でお風呂に共に入ったから見たことがない訳では無いが勃起した状態は初めてだ。朝が苦手な僕はいわゆる朝勃ち状態の司を見たことがない。司は見たかもしれないが。
「純、剥けてないね」
「剥く?」
「うん。ここ、さきっぽ」
よく見ると司のおちんちんは先っぽに赤いものが見えていた。司のおちんちんは僕のより長い。背が高いからだろう。でもあまり太さはなくて僕のより一回り細かった。下生えも薄く髪の毛と同じ淡い色素。それに対し僕は司のに比べたら短いが太く毛も髪の毛と同じ黒だ。司のように先っぽは赤くない。
「まってね、剥いてあげる」
「ん」
よくわからないけど司がしてくれるならと足を広げる。司は少し屈んで舌を突き出した。舌から唾液が滴って溜まってつぅ、とおちんちんの上に落ちた。
「ん、はぁ……」
「すべりないと痛いからね、我慢してね」
「別に、嫌じゃない」
口の中が熱いのか落とされた唾液は生温くてとろりとしていた。そしてゆっくりと司の指が触れてくちくちと先端を擦った。
「はぁ、ん、司」
「ちょっと力込めるね」
そう言うとピリッとした痛みが走って先端がつるりと剥けた。そこには司と同じように赤い肉が見えている。ぞくぞくと背中を走る快感にシーツを握りしめた。
「大丈夫?痛くない?」
「ん、平気」
「ここね、皮剥いていたほうがいいんだって。汚れとか溜まっちゃうから」
「そう」
なんでそんなことを知っているのか。きっと司の兄から得た知識だろう。嫌だな一年離れていただけで僕の知らない司がいる。
「司、司のも触らせて」
「うん、触って純」
腰を近づけて互いのものがくちゅりと音を立ててひっつく。手のひらでひとつに掴んで擦りあげれば水音は増していく。
「あ、あ、あ、あ」
「はぁ、司、きもちいい?」
「ん、きもちいあ、あ、あ、純は?」
「きもちいいよ」
キスをして舌を絡める。どこもかしこも熱くて濡れていて気持ちいい。夢中になってお互いを貪る。あせっかきの司は全身びっしょりだ。そういう僕も有り得ないくらい汗をかいている。暑くてたまらずシャツを脱いだ。もう誰か来るとか知るか。司のも脱がせてぴったりと肌をくっつける。
「つかさ、つかさ」
「あっあっじゅんっもうでちゃう、やだ、イク」
「うん、僕も」
たまらず押し倒して腰を振る。いつか見た動物の交尾みたいにへこへこと腰を振って司のおちんちんと僕のを擦り合わせる。ぐちゃぐちゃとグロテスクな音が軋むベッドとふたりの声で合わさって酷いアンサンブルだ。こんな曲じゃ踊れない。でもここは氷の上じゃないからいいか。
「──っ!」
「アアッ」
体の中心に全てが集まって弾ける感覚。心臓が一瞬止まって呼吸も忘れる。吐き出されたお互いの欲が司の腹の上で混ざり合うのを羨ましく思った。
僕もこのまま司とひとつになれたらいいのに。
混ざってシーツに落ちた精液。司の腹筋の隆起を見て合宿のとき不安になってた彼の細さがなくなってホッと息を吐いた。
目を覚ますと司はいなかった。代わりに手紙とばつ丸とプリンが共に置かれていてホテルのメモの上に司の綺麗な字で『時間なので先に出ます。昨日はありがとう、ばつ丸返すね』と書かれていた。
ぼんやりした頭でプリン忘れているじゃんと思いつつも彼の代わりにいてくれたのだと思うと隣に寄り添っていたばつ丸に羨ましいと指で生意気な顔を弾いた。
「今日はエキシビションか。めんどうだな」
でも司のことだエキシビションは別で用意しているだろう。それを見るだけでもめんどくささは消える。軽くシャワーを浴びて寄り添うふたつのぬいぐるみを持って部屋を出た。
司はいなかった。エキシビションは家庭の事情で辞退したのだという。どこか不調でないならいいかと僕もキャンセルしたかったが布袋野先生がダメと言うもんだから仕方なく昨日と同じのを滑った。終わってすぐに司にメッセージを送ったけど既読はなかなかつかなくて数日後に返事の遅さの謝罪とエキシビション見たかったの内容が届いた。別にいいよそれより次はお互いジュニアになる。そこで今回の借りを返すからねとメッセージを送ったが返事はなかった。そういえばプリンも僕が持ちっぱなしだ。この子も返さないと。
僕はそれから布袋野先生と解約しロシアへと渡った。司に負けない演技力をつけるため。
それからジュニアGP強化選手の選考会のために帰国した。ロシアにまで持って行ったばつ丸とプリンも一緒に連れて。半年ぶりの日本。司に会えると会場に行ったが司はいなかった。
「慎一郎くん」
「純くん!日本に戻ってきたんだ、長旅で疲れてない」
「平気。それより司どこ?」
司の姿がどこにもない。司どころか高峰先生の姿もない。どういう事なのか。遅れているのか?あと一時間で始まるのに。すると慎一郎くんは顔を曇らせた。悔しそうに眉間に眉を寄せて。
「司くんは……選考会には来ないよ」
「は?なんで?もしかしてケガ?」
「……辞めたんだ」
「は?」
「彼はフィギュアスケートを引退した。もう氷上に戻ることはないって」
ぽとりと僕の手からぬいぐるみが落ちる。冷たい床は僕と彼を引き離して嘲笑っているようだ。
その日から僕の世界に太陽は消えた。
おわり