まだ朝日が昇りきる前――
屋敷の廊下は
深い眠りの中にあった。
ルシアンは
軽く息を整えると、
静かに歩みを進めた。
向かう先は
イチの部屋。
出発前に
様子を見ておきたかった。
理由は――うまく言葉にはできない。
扉の前で
小さくノックする。
……反応はない。
だが、
微かに気配がある。
「……入るぞ」
そっと扉を開けると、
薄明かりに照らされた室内で
イチは起きていた。
寝台に腰を下ろし、
膝を抱えている。
窓から入る冷たい朝の空気が
室内に薄灰色の影を落としていた。
ルシアンは
少し驚き、
ゆっくりと声をかける。
「……眠れなかったのか?」
イチは
ゆっくりと顔を上げる。
返事はない。
ただ、その目には
夜を越えた気配が宿っていた。
彼女の髪は
ピンクがかった銀の色をしていて、
朝の光を受けて
淡く揺れている。
ルシアンは
部屋に入り、
軽く視線を巡らせた。
ベッドの皺の少なさ――
眠っていないのが
一目で分かった。
「……そうか」
その一言に
責める色はない。
ただ、
どうすべきか考える
静かな迷いが滲んでいる。
ルシアンは
寝台に近づき、
しかし距離を取り
床に片膝をつく。
「ここは――
落ち着かないか?」
イチは
小さく瞬きをするだけ。
理由を説明できない。
けれど、
離れたくない場所が
別にあることだけは
心が知っている。
胸の奥に
言葉にならない痛みがある。
ルシアンは
ふっと息を吐き、
僅かに目を伏せた。
「……エリオットが、
いないから、か?」
イチの肩が
微かに揺れた。
肯定でも否定でもない。
けれど、
その小さな反応だけで
十分だった。
(……そうか)
ルシアンは
ほんの短い間
迷うように視線を落とす。
「……あの森の家のほうが
落ち着くのだろう」
言いながら、
自分でも
不思議な気持ちになっていた。
彼女が
それほどまでに
“あの場所”に
心を寄せているとは
思わなかった。
ルシアンは
静かに立ち上がる。
「今から、
エリオットについて
もう少し調べてくる」
イチが
わずかに顔を上げた。
ルシアンは
その目をまっすぐ見返す。
「大丈夫だ。
セリーヌもいる。
危険なことは、させない」
言い聞かせるような
優しい声音。
イチは
ゆっくり、
ほんのわずかに
首を縦に動かした。
それを見て
ルシアンは短く息を吐く。
「……帰ったら
また話そう」
そう言い残し、
扉に手をかける。
ほんの一瞬、
動きが止まる。
振り向かずに
静かに告げた。
「――ちゃんと、
帰ってくる」
その言葉が
イチの胸の奥に
小さく沈んだ。
扉が閉まり、
部屋が再び静寂に包まれる。
イチは
しばらくその場に座ったまま、
胸の奥をかすめた
微かな暖かさに
触れようとしていた。
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